鬼が辻 18
ほっと息を吐き出したところで後ろをとられ、口を塞がれ腕の自由を奪われた。
誰?
どこから?
何のために?
は総毛立つのを感じ、腕を振り解こうともがく。
「おっと、そこまで驚かれるとは思わなかったよ」
腕の主はの耳元で苦く笑った。
「い、とう、参謀?」
その声に、は動きを止めた。
「ごめんよ、君があまりにも無防備だったからね、つい」
伊東はの頭を撫でた。
伊東は風呂から上がってきていた。しっとりとしていて、清潔な香りを漂わせている。
いつ風呂から上がってきたのだろう。
いつから自分の背後にいたのだろう。
伊東の気配にまったく気づかなかった自分が情けない。
「窓の外を見ていたようだけど、何かあったのかい?」
伊東が顔を上げ、窓の方へと目を向ける。
は、沖田がいたことを言うべきか迷い、口ごもる。
「組から誰か様子見にでも来ていたのかな?」
「…!」
鋭い指摘に、は肩を揺らした。
ふふっと、伊東の含み笑いがの耳をかすめた。
「薩摩藩邸での仕事はどうだい? うまくやっているのかな?」
を腕の中に囲ったまま、伊東が聞く。
「は、はい、お仕事自体は順調です」
は伊東の腕のちからが弱まる隙を窺いながら答えた。
「でも…田代さんのことを怒らせてばかりで…」
普段もよく怒られているが、飲みに行くのを断った後からは特に田代の態度が冷たい。あの時は、店に向かう途中で島原で沖田を見つけて、後を付けたら伊東と土方の密会現場に居合わせたのだった。はそれを思い出し、言葉を濁した。
「そのようだね。先日も飲みに行く誘いを断って、機嫌を損ねたみたいじゃないか」
伊東は苦く笑う。
(どうして知っているの?)
自分から伊東にこの話をしたのは初めてのはずだ。は伊東を見上げた。
「少し前、僕も酒を持って薩摩藩邸を訪れてね、田代殿と話をしてきたんだ。遅い時分だったから君も赤松先生も帰った後だったけど」
酔っているせいか、微かに体を揺らしながら伊東が語り出す。
「田代殿は、君の翻訳の腕前については誉めていたよ。ただ、いかんせんつきあいが悪いと。仕事ばかりですぐ屯所に戻ってしまうし、西郷殿のご厚意で飲みに行く誘いも断り続けているのが気に入らないみたいだ」
それはそうだ、とは短くため息をつく。
つきあいが悪いのはわかっている。だが、どうしてもあの藩邸に長居する気にはなれないし、本心から言うと田代とはあまりお近づきになりたくないのだ。
「それでは困るよ。君には、薩摩の様子を探ってもらうよう、頼んでおいたはずだ」
急に伊東は声色を変え、を抱く手を強めた。
「も、申し訳、ありません」
の腕に痛みが走り、背筋がぞくりと震える。
伊東は腕をゆるめると、を自分と相対するように座らせた。
「君が薩摩に入り込むことは新選組のため、土方君のため、日本国のためであると言ったのに、相手の機嫌を損ねるなんて。君には期待していたんだけど」
伊東の嘆息が、大きな白い固まりとなって宙に浮かぶ。
「すみません…」
は戸惑いに瞳を揺らした。
「…だが、まだ入り込む余地はある」
先に消えた白い息を追って、新たな白が闇に浮かぶ。
伊東の指がの顎をすくう。
上を向かされたの瞳に、伊東が映り込んだ。
さら、との後ろ髪が梳かれる。冷たい空気が後頭部を撫でた。
「田代殿にもう一度近づき、より深く薩摩の動向を探るんだ」
「田代さんに…?」
は瞬きをひとつする。
伊東の唇がゆっくりと弧を描いた。
「田代殿は君に好意を持っている。それを利用して、田代殿に近づくんだ」
「え、田代さんが?」
の脳裏に、今までの田代の態度が浮かぶ。どう考えても田代が自分に好意を抱いている素振りなど見いだせない。
「信じられないかい? だが、僕にはわかる。田代殿が君に冷たいのは、土方君が僕に冷たいのと一緒だからね」
ふふっと、伊東が笑う。
(それなら絶対に違うと思うんだけど…)
は喉の奥まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
「」
伊東の目が細くなる。
「僕もあちこち周旋しているが、薩摩は僕たち新選組に対してまだ心を開いていない。このままでは幕府と共倒れになってしまう。新選組にも君のような人材がいて、新しい時代にも対応できると知らしめるんだ。そのために」
「私に、田代さんへ取り入れと。そうおっしゃるのですか」
は視線を外さずに問う。
「君のその察しの良さが好きだよ」
伊東はますます目を細め、顔を近づけてきた。
「伊東、参謀…っ」
唇が触れる寸前で、は伊東を引きはがす。
「田代殿は君に気があると言ったじゃないか。君が彼を誘惑しない手はない。けれども、君は男とこういった経験はないだろう? だったら言い出した僕が君に教えておく必要がある」
伊東の手がの肩に触れ、どさりとその体を押し倒した。
「やめてください、私は、土方さんと…ご存じじゃないですか」
土方と自分は衆道の関係にある、それは隊内に知れ渡っていて、伊東も知っているはずなのだ。
は伊東の下から抜け出そうともがく。しかし、男である伊東のちからには適わない。
「土方君は君に手を出していない。見ればわかる」
「…!」
「それだけ土方君は君のことを大切にしているってことなんだろうけど、今回のことはそれ以上に大切なことなんだ」
伊東の顔が行灯のあかりに照らし出される。
「薩摩に取り入って新選組が生き残れるか、もっと言えば日本国がひとつになって、外国に負けないよう育っていけるかの瀬戸際なんだ。君が土方君のことを心から好いていて、田代殿と交わることが不本意なのは重々承知している。土方君に頼んでも君を抱いてはくれないだろうし、この計画に乗ってくれるとは限らない。だから、せめて僕の手で…」
最後の方は消え入るような声で囁くと、伊東はの袴の紐に手をかけた。
するりと小さな音がし、袴の紐が解かれる。
「嫌です、参謀、やめてください」
酔いの残る体を叱咤するが、は伊東の下から逃れることができない。
伊東は白い息だけを漂わせながら、の体に手を這わせた。
ぞわぞわとしたものがの体を駆けめぐる。
このままでは、伊東に自分が女子だとばれてしまう。そうなれば、自分をかくまってくれている土方や斎藤の足枷となってしまう。
(仕方がない…!)
は懐の銃に手を伸ばした。
その時、隣の部屋との境にある襖が音を立てた。
も伊東も、はっとしてそちらを見やる。
斎藤がそこに立っていた。
「長く席を空けて申し訳ありません。飲み過ぎたようで、厠にこもっておりました」
「斎藤さんっ…」
の目にじわりと熱いものがこみ上げてくる。
斎藤はぱちりと瞬きをひとつした。
苦笑いをこぼしながら伊東が体を起こし、から手を離す。
「すまないね斎藤君、僕も少々酒が過ぎたようだ。君の美しい従兄弟に無体を強いるところだったよ。僕も厠に行ってくる」
伊東は立ち上がり、ふらつく足取りで部屋を出て行った。
斎藤は伊東が廊下の闇に消えたのを確認すると、部屋の襖を閉じた。
「厠に行く振りをして会津へ連絡を取ろうとしたのだが、思ったより手間がかかった。長く空けてすまなかった」
ぽん、との頭に手が乗せられる。
は喉の奥に残る熱さをぐっと飲み込みながら頷いた。
「おかげで会津の隠密に現状を伝えることができた。後は側にいる。ご苦労だった、もう休め」
「はい…」
斎藤が店の者を呼び、布団を用意させた。
は横になったが眠れなかった。
本当に田代が自分のことを、伊東が言うように思っているのか。
伊東の思惑はどこにあるのか。さっき伊東が言ったことは、酔った末の戯れ言とは到底思えない。
そして、土方は今どうしているのか。自分たちがいないことをどう考えているのだろうか。
答えの出ない螺旋は、朝日が昇っても回り続けた。
伊東、永倉、斎藤、の四人は、結局三日まで角屋に居続けた。散々に飲み食いし、妓を呼んで騒いだ。
斎藤は言ったとおりにの側を離れず、伊東が手を出してくることはなかった。
四人が屯所に戻ったのは、一番隊組長の沖田が近藤の帰隊命令を伝えにきた四日朝だった。
西本願寺の門をくぐると、境内に出ていた平隊士たちが一斉にたちに目を向けた。
「特命で不在だったことになってますから、大丈夫ですよ」
視線を気にするに、沖田が言った。
しかし、あくまでそれは表向きのことだった。
「何故の所行であったのか、理由をお聞かせ願いたい!」
局長室で待ちかまえていた近藤が重々しく口を開いた。
大幹部三人並びに副長の小姓が、正月から三日も無断外泊の上職務放棄ときては、室内の空気も重くならざるを得ない。
はそっと土方に目を移した。
土方は幹部三人をじっと見据え、のほうは見ていない。
「お怒りはごもっとも」
伊東がおもむろに顔を上げる。
「しかしまず申し上げておきたい事が。永倉、斎藤、山口の三名には寸分の罪過もございません。すべては僕の命に従っただけの事ゆえ、どうか放免していただきたい」
「参謀、そりゃあいけねえ! 俺達は俺達の意志で…!」
永倉が伊東の前に出る。
「君たちは黙っていたまえ!」
伊東は永倉たちをかばうように手を伸ばす。
「双方黙れ! 弁明はそれぞれに聞く! 永倉と斎藤、それに山口は追って沙汰があるまで別室で謹慎だ!」
土方が怒鳴った。
「沖田! 連れて行け」
「はい」
伊東だけが局長室に残され、部屋の隅に控えていた沖田が、残りの三人を部屋の外に促した。
三人はそれぞれ別の部屋に押し込められた。
は小さな物置のような部屋をあてがわれた。正月前の掃除が行き届かなかった室内に足を踏み入れると、細かな埃が舞った。
は正座をし、目を閉じる。
(やっぱり…切腹かな…)
近藤の雰囲気からすると、厳罰は免れない。そんな感じだった。
(もしそうなるとしても、この三日間であったことは土方さんに直接伝えておきたい)
伊東が何かを企んでいることは明白だ。三日間の内容を伝えておくことで、土方がその何かに気づいてくれたらとは思った。
(土方さんが告げたとおり、沙汰を待とう)
は背筋を伸ばした。
明かり取り用の窓から射し込む日が赤くなってきた頃。
急に部屋の外にどたどたと音が近づいてきた。
が顔を上げると、部屋の障子が勢いよく開かれた。
「さああん!」
神谷が部屋に飛び込んできたかと思うと、にがばっと抱きついてきた。
「か、神谷さん」
その体を受け止めながら、はよろめいた。
「よかった、よかったあ、無事で」
神谷はの胸元に額をこすりつけながら、鼻声で言った。
「あなたたちの処分が決定しました。数日間の謹慎だそうです」
続けて沖田が入ってきた。
「謹慎…」
それだけなのかとはほっとした。
「と、特命なんて、嘘なんでしょ? 本当は、何、だったんですか?」
しゃくりあげながら神谷が聞く。
本当のことは話せない。
は沖田に目でどうすべきか聞いてみた。
沖田はただ笑顔だけをに示した。
「…特命ですよ」
は神谷の目を見て言う。
「嘘だあ」
神谷は涙で顔を真っ赤にしている。
「本当です」
はにこりと笑った。
「わ、わかりました、も、もう、特命かどうかはどうでもいいです、とにかく切腹にならなくて、ほんとにっ」
神谷は再びに抱きつく。
「ご心配おかけしてすみません」
は神谷の背に腕を回した。
「本当に、そう思ってるんですかあ」
「ごめんなさい」
神谷の暖かい背を撫でながら、は沖田と目を合わせた。
沖田は目に笑みをたたえながらも口元を引き締める。
伊東の動向を探る、それが自らに課した特命には違いない。そのために何をせねばならないかを考える。
も沖田と同じく唇を引き結んだ。
20111222