鬼が辻 14
は慶喜に夜通し付き合い、戻ってきたのは明け方だった。
酒の匂いがまとわりついている気がして、着物をはたいてから副長室の障子を開いた。
土方は寝ていた。
ゆうべあの後、まっすぐ屯所へ戻ってきたのだろうか。
それとも、伊東とどこかで仕切り直したのだろうか。
には知る由もなかったが、土方を起こさないようにそっと布団に潜り込んだ。
わずかな仮眠を取ると、は井上の元に向かった。
井上はを小さな門の外に連れ出した。
皆が起きる前だから人影はないが、辺りにはうっすらと朝靄が立ち上っており、誰もいないのを確認するのも慎重になる。
確認を終えると、はゆうべ木津屋であったことの一部始終を報告した。
「そうかそうか、それは難儀なところに出くわしたの」
井上は苦笑いを浮かべる。
「はい…でも、申し訳ありません」
はため息混じりに謝った。
「何がじゃ?」
「現場を押さえたにも関わらず何も聞けませんでした。本当にすみません」
ばっとは頭を下げる。自分に覚悟がなかったばかりに機会を失ってしまったのだ。
「…お前は正しい判断をしたんじゃ、」
の頭に井上の手がぽんと乗せられる。
「もしお前が一人だけの考えで先走っていたら、その場はめちゃくちゃになっており、今頃どうなっていたかわからん。お前は、正しかったんじゃよ」
井上の手が、の髪をくしゃくしゃと撫でる。
ただその場を誤魔化すことしか出来なかったは、井上の言葉に胸が熱くなった。
「あの…私はこの後どうしたらいいですか?」
は頭を上げて問う。
「今まで通り、気づかない振りをして何もせず過ごしておれ」
井上が顎に手を当てながら答えた。
「何もですか? どんなことでもいいです、何か出来ませんか?」
何も出来ずにいることに対して、の心に焦りが生まれる。
「いいんじゃよ」
井上は深い笑みをたたえて笑った。
「お前の気持ちはようわかるが、今しばらくこの井上に預けておいてくれんかのう」
「そうですか…わかりました」
預けておいてくれとまで言われては、にこれ以上異を唱えることは出来ない。は諾と頭を縦に振った。
徳川慶喜は十月十六日、除服後初の参内をした。
そして十一月に入ると、“大名会議”と銘打って二十四藩の大名を召集する。しかし時勢に慎重になり、参加を表明したのはわずかに七藩だった。慶喜は七日と八日にわけて、七つの藩の代表から意見を聞き、十九日には七藩の代表に対して一席設け、馳走を振る舞った。
二十七日、天皇より慶喜へ将軍宣下が行われ、翌日に本人へその通達が行われた。
このような経過をたどり、十二月五日、ついに十五代将軍徳川慶喜が誕生した。
前将軍死去から四ヶ月以上が経ってからの就任であった。
慶喜が就任したことには、賛否両論あった。新選組の中でも意見が飛び交った。
「豚一公は帝とご血縁の間柄である上に、帝からの信任も厚いからなあ」
「しかし、今回の長州戦争で自ら現地に赴くと言いながらも行く直前でそれを翻したり、天皇のご指示であるからと言って戦争自体を止めたりと、無責任にやりたい放題なのはどうなんだよ」
「何はともあれ、公が“大納言様”から“上様”になったことだけは確かなんだよな」
十五代将軍不安説が、朝の境内に漂う。
「こらお前ら! 近藤局長が信じてなさるお方に向かってなんちゅう言い草だ!」
と井上が怒鳴りながら階段を下りてきた。
「井上さん、おはようございます」
が振り向いて挨拶をする。
「源じいちゃん! だよね? そうだよね?」
賛同者が現れたことに沖田が笑みを広げた。
井上は沖田に、誰がじいちゃんだと渋い顔を向ける。
すると今度は藤堂が、
「近藤先生はお人好しだからなあ。あの人柄が徒にならなきゃいいけど…」
と、徳川家を全面的に信用している近藤を心配した。
そこへ神谷が同意を示し、近藤を全面的に信用している沖田が不機嫌を全開にした。
「神谷さんは私の組下です! 甘やかさないでください藤堂さん!」
「おっ総司、珍しく悋気か?」
永倉が神谷を抱え込み、月代に顎を乗せる。
神谷が永倉の髭を痛そうにしている。口を尖らす様子がかわいらしくて、は笑いがこみ上げてきた。
「違いますよ! 近藤先生のことは心配無用です。天下一疑り深い人が脇を固めているんですから」
沖田が否定する。
その場の全員が、うんうんと大きく頷く。
(土方さんのこと?)
はどきりとして笑みを引っ込めた。
「そういや最近の土方さん、すんごい美人の太夫に骨抜きにされちゃってるとか噂聞いたけど?」
藤堂がちらりとを見やる。
「本当なんですかその話」
神谷が疑り深い目で同じ方向を見る。
「そんなに頻繁に通ってるのかよ」
永倉も、意味ありげな視線を同じように投げかける。
「そうみたいですね。私が帰って来るとお部屋にはいらっしゃいませんし」
はつとめて冷静に答えた。本当は伊東と会っているなど、口が裂けても言えない。
「おいおい、オンナに負けてんじゃないかよ。ガンバレよ」
原田がからかったの背をばんと叩いた。
負けるも何も、これはそういった勝負ではない。井上と示し合わせた我慢比べだ。井上がどういったことを含んで自分に行動を起こさせないのかはわからない。だが、今の自分に課せられているのは、ただひたすらに平常でいることなのだ。
「あ〜あ、が固まった。そんな顔すんなら土方さんに、浮気しないで〜って言えばいいじゃねえか」
原田がの頭に手を置き、がしがしと髪をかき混ぜる。くしゃくしゃに乱れた髪を見て皆は大笑いした。
も一緒になって笑う。
さりげなく井上に目を遣った。井上も大きな口を開けて笑いながらこちらを見ている。
普通に出来ましたか、と目で聞くと、井上は微かに頷いた。
それから間もなくのことだった。が薩摩藩邸からもどって来ると、副長室の向こうにある局長室の障子が明るく照らされており、何人かで話しているような気配が漏れてきていた。
(お話中か…幹部会かな。だとしたら、土方さんもいらっしゃるのかな…)
がそう推測しながら羽織を脱いでいると、局長室の障子が開く音が聞こえた。
(ちっと来い)
土方が人差し指を唇に当て、ついてくるよう顎で促す。
(はい)
は羽織を衣桁に引っ掛けると、土方の後についていった。
土方の前には、伊東の背があった。
(まさか…この前木津屋で会ったことについて何か言われるんじゃ…)
胸にそっと手を当て、は深く息を吸い込んだ。
は伊東の部屋に通された。
「君、君に頼みたい事がある」
座るやいなや、伊東が続けて話し出した。
「薩摩藩邸への出入り、いつもご苦労様だね。君がうまくやってくれているおかげで、薩摩からの評判はとてもいいよ」
「恐れ入ります」
「だが…薩摩はどうも幕府に対して反感を抱いているような気がするんだ。そこで君にもう少し薩摩の動きを探ってもらいたいのだけど」
伊東がすっと目を細める。
(参謀にしては随分と説明を端折ったものだ…)
普通なら懇切丁寧に話をし、どこから突っ込まれても隙のない論理を立てて人に頼み事をするのに。
反感を抱いている“ような気がする”だけで自分を動かそうとするなんて、伊東らしさが感じられない。
本当に“ような気がする”だけ、つまり勘でこんなことを頼んでいるのだろうか、それとも別の意図があるのだろうか。
そう思っても、に選択肢はない。
「かしこまりました。では明日も早いので私はこれで」
は了承して頭を下げ、参謀の部屋を辞した。
は明日の支度を整え、早々に床についた。
探ると言っても、自分にはこれ以上薩摩藩邸内を探る事はできない。厠に行くのですら細かく探られるのに、よその場所などとんでもない。
田代の目がある限りは。
だが何とかして潜り込みたい。
そして伊東の意図をも掴みたい。
はどうしたらよいかを考えながら眠りについた。
新将軍が誕生してたった二十日という十二月二十五日。
突然、孝明天皇が死去した。
満年齢で言えば御年三十六歳、そのうち二十一年の在位であった。
二十九日に崩御が公布されると、天下は騒然とした。
死因は痘瘡(天然痘)であるとされたが、その死を怪しむ者はいくらでもいた。
前将軍が亡くなり、やっと次の将軍が決まり、今度こそ公武が一和となって日本国の将来を舵取りしていくと思っていた矢先である。
慶喜との結託を嫌って毒殺された、刺殺されたなど多数の噂が飛び交い、どれが本当の死因なのかまったくわからなくなっていた。
新選組内でも幹部会が行われたことを、は後から神谷に聞いた。
憶測で何人もの犯人が挙げられたが、犯人とおぼしき人物を成敗しに行こうとする原田らを、近藤が止めたのだそうだ。
「どれほど疑わしかろうとも、証拠もないまま手を下せばそれはただの狼藉だ!」
そう言って近藤は頭を下げ、皆の気持ちは分かるが今は自重するよう頼んだ。
「近藤局長の言うこと、もっともですよね。私なんか、すっかり頭に血が上っちゃって」
神谷が肩を落とす。
「いえ…皆さんのお気持ちも、局長のお気持ちも、本当は同じなんじゃないですか?」
近藤は幕府寄りだが、その道の先にはもちろん天皇の存在がある。天皇が在り、その元で幕府が動いている、そういった認識だ。
もし討てるのであれば、近藤が一番仇を討ちたいのかもしれない。
だが、まだ報が入ってきたばかりで犯人への手がかりは一切ないのだ。動くことは出来ない。
「神谷さん、後で局長に胃のお薬を持って行って差し上げたらいかがです?」
が進言すると、すっかりしょんぼりした神谷がぱっと顔を上げた。
「そうですね、局長が我々と同じお気持ちなら、きっと今頃胃を痛めていらっしゃるはず。そうします!」
神谷は一番隊の部屋へぴゅんと消えていった。
近藤用の、とっておきの胃薬を持ってくるつもりなのだろう。
(神谷さんを見ると元気が出るなあ)
跳ねるように去っていった神谷の後ろ姿を思い返し、はくすりと笑みを漏らした。
しかし、笑っている場合ではなかった。日本の頂点に立つ天皇が亡くなったのだ。
七月に前将軍、ここにきて天皇が亡くなるなど、日本の政治中枢はどうなってしまうのだろう。
(気持ち悪い…)
しかもそれが暗殺かもしれないと言われると、十二月の冷たい夜気がまるで刃のように感じられるし、血の匂いがするような気がする。
は言いようのない気味の悪さに、体を震わせた。
さらに数日が過ぎた日のこと。
気味の悪さを払拭するように、は意外なところでさらなる協力者と顔を合わせることになった。
「島原に、飲みに…ですか?」
が本日の翻訳を終えて帰り支度を進めていると、田代から声がかかった。
「西郷様がまたお気持ちを下されてな。豪勢なことは出来ないが、いつもこの部屋に閉じこめてばかりなのもいかんとおっしゃってな」
要するに、西郷が金を出すので遊んだらどうかと提案があったらしい。
は素早く考えた。
(島原か…気は進まないけど、少しでも田代さんの心を開くことが出来たら、藩邸のことも探りやすくなるかもしれない)
薩摩の様子を探りあぐねていたは、これが何かの糸口になればと、行くことを了承した。
田代、赤松、の三人は、島原の大門をくぐった。
男二人は黙って先を歩く。は彼らの少し後ろを、きょろきょろとあちこち見回しながらついていく。
(土方さんや伊東参謀、いるかな…)
暗くなり始めた時分、そろそろあの二人が密会に島原を訪れる頃だ。顔を合わせないほうがいいに決まっているが、はつい二人の姿を探してしまう。
そのの目に、思ってもいなかった人物の影が映った。
(沖田さん?)
すぐ建物の影に隠れてしまったが、歩くごとにふわふわと揺れるくせっ毛は、まさしく沖田のものだった。
沖田の遙か向こうには駕籠が道を急いでおり、土方と伊東が密会を重ねているあの茶屋へと向かっている。
「すみません、後からお店に行きます。先に行っててください」
は反射的に飛び出し、自分の背に何か言葉を投げかける田代と赤松の声を振り払って走り出した。
沖田が曲がり角で足を止める。
も物陰に隠れた。
曲がり角の向こうには木津屋がある。
(まさか沖田さん、土方さんのこと、気付いてる…?)
は白い息を隠すように袖を口元にあて、眉を寄せた。
「気付かれちゃいましたか」
しょうがないと諦めにも似た口調で沖田が言う。
「ひえっ」
それがの耳元でしたものだから、は驚いて飛び上がった。
「お、おき、沖田さんっ」
いつの間にか沖田がの後ろに回り込んでいた。の心臓はばくばくとし、頭の中までその音が響く。
「よく私の姿が見えましたねえ。気をつけてたつもりだったんですが」
沖田がぽりぽりと頭をかいた。
「こ、ここで、何を」
思わず疑問が口をつき、はしまったと額に手を当てた。
「何をって…ああ、もういいでしょう。説明しますから、一緒に屯所へ戻りましょうね」
沖田はにこやかに笑うとの手首を掴み、ずんずんと歩いて行く。
の脳裏に田代と赤松の顔が浮かんだ。だが、どうにも出来なかった。
は局長室に連れて行かれた。
(沖田さんの話なのに、何で局長室…?)
落ち着かずにきょろきょろするを見て、沖田が笑った。
「大丈夫ですよ、心配しなくても全部お話ししますから」
「は、はい…」
障子が開き、局長の近藤と、井上が入ってきた。
「局長? 井上さん?」
は目を見開く。
島原で沖田を見かけて沖田に連れてこられたのに、どうしてこの場に近藤と井上が来たのか。
は予想できずにただ目をぱちくりとさせる。
近藤が井上に目配せした。井上が軽く頷くと、近藤はに向き直った。
「今まで黙っていて悪かったね、君。源さんにトシの様子がおかしいと相談して、トシのことを探ってもらっていたのは私なんだよ」
「え…?」
状況が飲み込めず、の頭の上に疑問符が浮かぶ。
「はじめにトシさんが何となくおかしいんじゃないかと気づいたのは局長のほうなんじゃ。じゃがトシさんのことじゃから、
問いつめてもきっと本当のことを言ってはくれんじゃろう。そう思った局長は、ワシにトシさんの動きを探るよう、申しつけられたのじゃ」
「局長が、最初にですか?」
「ああ。隣の部屋にいて、あれだけトシが夜中に出てけば、嫌でも気づくだろう? それに、トシはこれまで私に黙って、
組のためによかれと思うことを山ほどしてきたはずだ。だから、今回もきっとそうなんだと、私は信じることにしたんだよ」
白く吐かれる息の向こうで近藤が笑う。
土方が伊東と密かに会っていることも、伊東が薩摩と繋がっていることも、井上を通じてとっくに知っているはずなのに。
それを知っていて、信じるというのか。
近藤の後ろに後光が射して見える。
「私も土方さんの行動をおかしいなと思っていたので、近藤先生に相談したんです。そうしたら同じ事を考えていらっしゃって」
沖田がそう言うと、近藤が大きく頷いた。
「じゃあ、沖田さんも気付いていて、局長の命令で土方さんの尾行をしていたってことですか?」
「そうです。その尾行を見られたとあっては、もう隠しておけないと思ってあなたにも打ち明けることにしました」
の問いに沖田はこくりと首を振る。
近藤がの側に寄り、大きな手を肩に載せた。
「仲間は多い方がいいが、そうなるとボロも出やすくなる。そう思って今まで君には知らせずに、単独行動のような形をとってもらっていた。許してくれ」
「局長…」
許すも許さないもない。
それ以上に、同じく思っている仲間が増えたことには安堵し、ふと楽になった気がした。
「トシのことは信じているが、無茶をしないか心配だ。君にはそこをさり気なく見ていて欲しい。そして、これまでと同じように何もなかった振りをしていて欲しいんだ。事を動かさねばならない時が来たら、私が動く」
ぐっと近藤の手にちからが入る。
井上の手もの肩に載せられ、沖田がの手を取った。
誰も何も言わなかった。
だが、それぞれの体から伝わるちからが全てを物語っていた。
何があっても土方を信じ、助けていくのだと。
そして、年が明けて、慶応三年一月。
孝明天皇の喪の中、事件が起きる。
伊東が永倉と斎藤を連れて、島原の角屋で三日間の居続けを行ったのだ。
20111111