鬼が辻 13
伊東が隊に戻ってきた。
それと同時に土方の態度はまたも硬化してきた。
伊東がいない間は止まっていた土方の夜間外出も再び始まった。
が薩摩藩邸から戻ってくるのと入れ替わるように、土方が出ていく。
「出かけてくる」
とだけ言い、土方は行き先を口にすることはなかった。
(どうしたらいいんだろう…)
は薩摩藩邸の門を出て、屯所へ向かいながらため息をつく。
この前は、土方を問いただそうと思ったのに機会を逃してしまった。
そしてその後は何も聞けず今に至っている。
(やっぱり聞かなきゃわからない)
戻ったら井上に相談してみようと、は顔を上げた。
「山口さん」
ふと物陰から、大きな体が現れた。
「…辰五郎さん?」
新門辰五郎である。
新門が現れたということは…とは即座に次の展開を予想した。
「若がお呼びです。ご同行ください」
新門が深々と頭を下げる。
若とは一橋慶喜改め徳川慶喜のことである。新門は慶喜につき従っており、こうして慶喜がを呼び出す時に現れるのだ。
「わかりました。お連れください」
慶喜は英吉利語の勉強に金を出してくれている、いわゆる雇い主だ。はその呼び出しに逆らうことはできない。素直に新門の後ろについて行った。
は新門に導かれ、島原にやって来た。
新門がどんどん奥へ進んでいくその道に、は覚えがあった。
(この道って…土方さんたちが通ってる店の…)
土方が伊東と密会している場所に、どんどん近づいているではないか。
そしての予想通り、新門はその店にーー木津屋に入った。
(何でこんなことに…)
もし顔を合わせでもしたらどうすると、は肩を落とした。
「どうしてなんだい、あの数寄屋はしばらく僕が毎晩使うからと言っておいたはずだよ。それにひと部屋すらも貸せないって、一体何があったんだ」
店先から聞き覚えのある声がしてきた。
は一瞬息を止めた。伊東の声だ。
「伊東センセ、今夜だけどうか堪忍しとくれやす」
女将の声であろう、女の声だ。
「今夜だけ急にどうしても、店を貸しきりでと言う方がおいやして」
「どんなに狭い部屋でもいい、何とかならないのかい」
「ほんにきずつないことで。明日またおいないやす」
「そんな」
伊東は土方と秘密の打ち合わせをしているあの離れどころか店のひと部屋すら使えず、文句を言っているようだ。
“しばらく毎晩使うと言っておいたはず”の部屋を女将が反故にし、急遽店全体を貸し切ることが出来る人物とは…。
(まさか…)
店全体を慶喜が押さえているのではないか。の頬をたらりと汗が伝う。
新門はさっと暖簾をかき分て中に入った。
は建物の外壁に背をつけ、暖簾の隙間から伊東に見えない位置に隠れた。
「女将、連れが来た。よいか」
「あ、離れの…ご案内します」
「離れ?」
女将がうっかり漏らした一言に、伊東が反応した。
は天を仰いだ。
「先にお約束があったようで、誠に申し訳ございやせん」
新門がとっさに謝った。
「いいんだけどね、離れ一応僕が連日使わせてもらえるように話を通してあったんだ。こんなこと言うのは野暮かもしれないが、もうお金も払っている。
これから人と大事な話があるんだ。話が済んだらすぐに明け渡すから、それまで別の部屋で過ごしていてもらえないだろうか」
伊東はつとめて柔らかな口調で話してはいるが、苛立っているのが端々に出ている。
「自分が借りているのならそういたしやすが、生憎離れを所望しているのが主でして」
と新門が申し訳なさそうに言う。
「だったら今すぐ君の主にそう取り次いでもらえないかい? もうすぐ客が来てしまうのでね」
もうすぐ土方が来る時分らしく、伊東は早口になってきた。
間もなく土方が来る。ここにいては土方に見つかってしまう。早く離れに入ってしまいたい。は新門に早く早くと念を送った。
「お前……こんなところで何してんだ」
前から突然聞こえてきた声に、は背筋を凍り付かせた。
「ひ、土方、さん…」
おそるおそる前を見ると、頭に被っていた頭巾を首元まで引き下げたまま、自分を凝視している土方がいた。
「え? 土方君? ?」
新門を押し退け、伊東が暖簾の外へ出てきた。
、土方、伊東の三人が、三つどもえになって立つ。誰も何も言わない。互いが互いの出方をうかがう。
(どうしよう…)
図らずも、土方と伊東の密会現場に居合わせてしまった。
は今ここでどうするべきかをぐるぐると考え始める。
二人がこっそり会っていることを知っているんだと暴露し、問いただす大きな機会なのではないだろうか。
はぐっと拳を握りしめた。
「ぐ…偶然ですね、こんなところで会うなんて。参謀、よくここへはお見えになるんですか?」
は震えを飲み込み、まず一番先に言葉を発した。
「あ、ああ、いや、うん、ここのところちょっとね」
伊東は急に話を振られて言葉を濁した。
「土方さんも息抜きですか?」
「…まあな」
伊東が狼狽している間に自分を立て直したのか、土方は冷静な様子で答える。
「お前こそここで何してんだ」
すっと土方の目が細くなり、を探るような目で見つめた。
「私は呼び出されまして…」
は新門を見上げる。
「じゃあ、は今日この店を貸し切った人物と知り合いなのかい?」
伊東が一歩前に出た。
「ええ。私の雇い主なので」
が答えた。
「何っ…」
「えっ、、それってまさか…」
土方も伊東も顔色を失う。の雇い主と言えば、当てはまる人物はたった一人しかいないことを、二人ともよく知っているからだ。
「ちっ」
先に動いたのは土方だった。
「貸し切ってんだろ? だったら仕方ねえ。もう飲む気も失せたから、俺は屯所へ戻る」
きびすを返し、土方は頭巾を握って店の敷地を出ていった。
「ああっ、土方君…待ってくれよ」
伊東もその後に続く。
「参謀、あなたは歴とした妾宅がおありなのですから、そちらへお帰りになるのがいいでしょう」
土方が仰々しく棒読みで言う。
「君だって今夜は飲みに来たんだろう、だったらつき合うから僕とどこかへ…」
伊東は土方の袖を握って必死に食い下がる。
「そういう気は失せたと言ったはずですが」
土方が冷ややかな視線を向ける。
そのまま二人は道へ出て、島原の町並みに消えていった。
ふーっと、は大きく息を吐く。体から力が抜け、とんと新門にぶつかった。
「大丈夫ですか」
「ごめんなさい、大丈夫です」
新門の腕に掴まり、は力を入れ直した。
どうにかこの場を誤魔化すことが出来た。
大きな顔をして、どうしてふたりでこそこそ会っているのかを問いただすことも出来たはずだった。
しかし、それを今、自分がやるのが得策ではない気がしたのだ。
いや、本当のところは、聞けなかった。
伊東は薩摩と繋がっている。
その伊東と土方が密会している。
伊東は勢いがよく、土方は暗く沈む一方だ。
根拠はないが、嫌な感じがする。
(もし伊東参謀が土方さんを取り込み済みで、想像もしたくないような悪いことを聞かされてしまったら…)
ふるりとは震えた。
聞いてみようと一度は思ったくせに、いざその場面にでくわしたら怖くなってしまった。
正しい情報を聞きたいだけなのに、そんな覚悟もないなんて。
は自分の意気地のなさに肩を落とした。
「山口さん」
「あ、はいっ」
肩を揺すられ、ははっとした。
「こちらどす、足元に気をつけてお進みください」
と腰の低い女将が石畳を照らして店の入り口の外へふたりを導く。
慶喜に呼び出されていたのを思い出し、は女将と新門の後ろを歩いた。
は離れに案内された。
「私は外で控えております。お腰のものをこちらへ」
と新門は言い、の大小を預かった。
「山口です、失礼します」
入り口で声をかけ、は中に入った。
「よう」
杯を傾けながらに笑みを向けたのは。
徳川宗家を継いだ、徳川慶喜であった。
「お呼びに従いまして参上いたしました」
は深々と頭を下げる。
「ああ、こっちへ座んな」
慶喜が自分の正面を示す。
「失礼いたします」
は膝を進め、座布団に座った。
「久しぶりだな、」
「はい」
慶喜が杯を突き出し、がそこに酒を注ぐ。
「最近どうだい、英吉利語の勉強のほうは」
「はい、薩摩藩邸での翻訳は順調にいっております。後、藩邸に西郷隆盛なる人物が出入りし始まったようです」
「ああ、西郷な。そうらしいな」
ふっと慶喜が笑う。
西郷が京に入ったことは、すでに慶喜のもとに知らされているらしい。
それだけ西郷は重要な人物と目されているのだろう。
だが、今のにはそれはどうでもよかった。
は慶喜が酒を口元に運んでいる間に、室内を見回す。
(ここで土方さんは参謀とお話をしてるんだ…)
侘びさびを感じさせる、落ち着いた雰囲気の茶室。
違い棚は漆塗りで光っているが、棚の色自体が暗めなので、渋い光沢を放っている。
床の間には焼き物の一輪挿しが置かれ、花が生けられていた。
(土方さんと参謀は、どんな話をしているのだろう…)
耳を澄ませてみても、主のいない会話が聞こえるはずもなく。はそっとため息をついた。
「俺は、将軍になる」
慶喜がぽつりと言った。
「もうすぐ家茂の喪が明けて参内となる。そうなったら、俺は将軍職継承に向けて動き出さねばならない」
「将軍に…」
「ああ。家茂が死んで、それまでああだこうだと意見を言っていた奴らがどれだけ動くのかと見ていたが、結局あいつらは何も出来ねえってことがわかった。
尾張の慶勝殿も年の割に怖じ気付いたようだしな。結局、俺が継ぐしかないのさ」
ぐい、と慶喜が杯をあおる。
言い方は悪いが、慶喜の言っていることはおそらく当たっているのだろう。
それがどれほどの重責であるのか、には想像もつかない。だが、今の時点で、本当に将軍という地位を動かす実行力があるのは、慶喜だけなのかもしれない。
「今日そちを呼び出しのは他でもない。将軍後継としてそちに命じる」
「はっ」
は銚子を置き、平伏した。
「今月二十五日に、幕府より英吉利に留学生を派遣することとなった。ついてはそちも横浜へ行き、英吉利行きの船に乗れ」
「………え?」
は耳を疑った。
英吉利に、留学?
月末に出発する船に乗れ?
急すぎる話に、は頭の奥が瞬間的に音を無くし、続けてくわんくわんと鐘のような音が全身に響いてきた。
「嘘だよ、馬鹿。サシで向かい合ってるのによそ見なんかしてるから、からかっただけさ」
の固まり具合に、慶喜は声を立てて笑い出す。
「え、嘘って、浮之助様…ゴホッ!」
たちの悪い冗談にひっかかったのだ。は安堵のあまりむせてしまった。
「あーはは、悪い悪い、本気にしたのか。そんなわけないだろう。そちを遣わすよう進言する声もあったが、全力で止めた。
そちは余のものゆえ、外国などに行かれては遣いたいときに使えず困るではないか」
慶喜は目元の涙を拭う。
雇い主が、しかもこれから将軍職を継がんとする男が言ったのだから疑う余地はないではないか。
は何度も咳払いをして、喉の奥の違和感と、慶喜に対する微かな怒りを取り去った。
「まあ、冗談は置いてといて、だ」
慶喜は杯に残っている酒を一気に飲み干す。
「将軍になったら、もうこんな風に遊び歩くことも出来まい。これが最後だ」
ふと慶喜は目を伏せた。
(遊び歩くなんて言っているけれど、本当は自由がなくなるってことなんだよな…)
将軍の座に就いたら、慶喜のことだから様々なことをうまくこなしていくだろう。しかし、己の身の自由だけはどうにもならない。
は胸にちくりと痛みを感じた。
「せっかくお店を貸し切りになさったのですから、総揚げで楽しまれてはいかがです?」
豪華な料理を頼み、妓を呼んで華やかに。
そうするのが“浮之助”らしいのではないかとは思った。
「いや、そちだけでよい。そちが申したのだぞ、余は寂しいのだと」
くっと慶喜は笑った。
の脳裏に、いつぞやだったか、こうして呼び出された時のことが蘇ってきた。
その時慶喜は、自分が徳川家のため、日本国のために尽くしているのに誰も理解してくれないと、血でも吐くかのごとき口調で告白したのだ。
慶喜の告白からが感じ取ったのは、寂しさ。
ともに日本国を背負っていこうという気概のある者が側にいない、その孤独をかいま見たような気がして、寂しいのかと問うたのだった。
は慶喜を見つめる。
今の慶喜からも寂しさを感じることは否めない。
しかし、それ以上に、孤独だろうと人材がいなかろうと、将軍職を継ごうとする固い決意が感じられた。
「…今宵は、余を孤独と言ったそちがいればそれでよい。余が酔いつぶれて眠るまで、黙ってここにおれ。帰りは新門に送らせる」
慶喜は杯を前に出して、に酌を催促する。
「かしこまりました」
は銚子を持つ。
思いの外、軽くなっていた。
は入り口の戸を開けると、新門に追加の酒を頼んだ。
20111103