鬼が辻 12
「田代さん、終わりました」
「も、もう終わったのか?」
が今日の分を差し出すと、検閲兼清書係の田代が目を見開いた。
「はい」
は頷く。
田代は障子に目を遣った。まだ西日と言うには早い、迂路の薄い陽が障子紙を照らしている。
田代はひったくるようにが差し出した紙を受け取った。
「倍の量など無理だと言っていたのはどこの誰なんだ」
「すみません、私もあの時はそう思っていたので」
は頭をかく。そう、本当に倍の量などこなせはしないと思っていたのだ。
「やってみれば意外とそのようなものよ。のう、」
赤松小三郎が紙面から顔を上げる。
「え、ええ、まあ。赤松先生、お手伝いするところはございませんか?」
は赤松の元にいざり寄った。
「うむ。拙者もあと少しで終わるゆえ、気遣いは無用」
赤松は手元にある本を指し示す。あと数枚で、本日の分をあらわす付せんにたどり着くところだった。赤松もの翻訳速度につられて、早く進むようになってきている。
「では、私はこれで失礼します」
は身の回りの片づけをすると部屋を出ていこうとした。
「待て山口」
田代が呼び止める。
「はい」
「帰るのならこれを持っていけ」
と田代が差し出したのは、紙包みだった。手のひらに乗せると、小ささの割にはずしりと重みがある。
「これは…?」
「西郷様が、我々のねぎらいに菓子を買うようにと金子をくださったのだ。この前お会いした時に、お前が菓子をもらって嬉しそうにしていたのを覚えていらっしゃってな」
「西郷、様が」
は西郷の姿を思い出す。元いた時代で見たことのある肖像画どおりではなかったが、体格のよさや丸い目はそっくりであった。
「三食のほか、毎日菓子が出る。西郷様に感謝しろ」
必ずしろ、と田代は念を押した。
「ほう、西郷殿からいただいた金をひとりのものとせず、我らにも施しをくれるのか」
赤松が顎をなでる。
「当たり前だ! 西郷様は大恩あるお方、西郷様のお気持ちを裏切るような真似はせぬ!」
突然田代が叫んだ。
「そうであったのう、お主は西郷殿に取り立てられて京にやってきたのだったな」
赤松はうんうんと頷いた。
(なるほど…)
はふたりの会話を聞いて得心した。
田代が自分たちに厳しいのは、恩義のある西郷に報いたいからなのだろう。
自分もそうだ。別の時代からやってきた自分を、黙って置いてくれる土方や斎藤に報いたい。
「何だ、にやけおって」
じっと見つめるを田代が睨む。
「西郷様のこと、思っていらっしゃるのですね」
田代も自分と同じなのだと思うと、は自然と口元が緩んできた。
「や、山口! 貴様、茶化すでない!」
今まで無駄な口を叩かずひたすら仕事のみをしてきたから意外な言葉を聞き、田代はうろたえた。
「すみません。これ、いただいていきますね。西郷様によろしくお伝えください」
田代が振りあげる拳をさっとかわし、はくすくすと笑いながら部屋を出た。
「あの野郎、少しばかり出来るからと言って調子に乗りやがって…!」
田代は乱暴に座り込んだ。
「ははは、田代、一本とられたなあ」
赤松も眉をくつろげる。
「赤松先生! 先生もふざけていないで早くお進めくだされ! カワヤに行って参る!」
赤松にまでからかわれ、田代は障子をばしんと開け放って廊下へ出た。
ふと顔を上げると、がひょこひょこと門のほうへ歩いていく背が見えた。
「山口…」
その視線が今までと異なる色味を帯びてきたのに、田代本人ももまだ気づいていなかった。
は相変わらずいかつい顔の門番に頭を下げ、薩摩藩邸を後にする。
翻訳の速度が上がったのは自覚している。
それは土方のことが心配で、彼の元に早く戻りたいと思っていたら、自然にそうなってきたのだ。
伊東が不在で気にすることは少ないはずなのに、土方の陰りは日に日に濃くなっていく気がする。いったいどうしてなのか、にはまだわかりかねて首を傾げる。
(参謀がいない今なら、話してくれるかもしれない)
井上と、しばらく土方の様子を見るように話はしている。が、そろそろどうだろう、この菓子を一緒に食べながら、本人に思い切って聞いてみてもいいのではないか。
はもらった紙包みを懐へ差し込んだ。
屯所に戻ると、集会所の階段を一番隊の面々がぞろぞろと上がっていくところだった。
「さん、お帰りなさーい!」
一番後ろにいた神谷がに気づき、元気いっぱいに駆け寄ってくる。
「ただいま戻りました。巡察ですか、お疲れさまです」
は今日の夕方の巡察が一番隊の担当だったことを思い出した。
「沖田さんは?」
一番隊の中に沖田の姿がない。
「今、局長室に行かれましたよ。伊東参謀がお戻りになって、ご挨拶とかで」
神谷が棒読みの口調で答えた。
は急ぎ足で廊下を歩く。
(ひと月はかかるって参謀自身が言っていたのに、たったの十日でどうして戻ってきたの?)
土方に聞いてみようと思った矢先に、とは唇を噛んだ。
副長室につくと、土方はいなかった。隣の局長室から複数の声が聞こえてくる。土方もそちらにいるに違いない。
は荷物を置くと、局長室の前に立って襟元を正す。
入室の許可を得ようとして息を吸い込んだ時、すっと向こうから障子が開いた。
「おっとさん、お帰りなさい」
沖田が出てきた。
「ただいま戻りました」
は頭を下げる。
「ああ、かい? お帰り。というか、僕もただいま」
背の高い沖田の向こうから、伊東の声がした。
「お帰りなさいませ、お疲れさまです…」
やっぱり伊東が戻ってきている。は沖田の影に隠れて、密かにため息をもらした。
「じゃあ近藤局長、私はこれで」
沖田が振り返って近藤に会釈する。
近藤が、うむと頷く。
は沖田に出入口を譲るために、一歩下がった。
すると沖田がの肩を掴んで、そのまま廊下の隅まで押しやった。
「お、沖田さん?」
暗がりに引き込まれ、はどきりとする。
「さん、いけないなあ、隠し事は」
沖田が口元だけで笑った。
(えっ…)
隠し事って。
何がばれたのだろう。
実は女子であることか。
土方が最近おかしいのを探っていることか。
それとも、薩摩藩邸に翻訳で出入りしているはずなのに、密偵まがいのことをしていることだろうか。
思い当たることばかりで、の背を、たらりと冷たいものが伝う。
「それ」
と、沖田がの胸元を指さす。
がそこに視線を落とすと、菓子の袋の頭が顔を出していた。
ひゅっと沖田の手が伸び、紙包みを引き抜いて開いた。
「やっぱりようかんですか。おいしそうですねえ。巡察から戻ってきておなか空いてるのに局長室に呼び出されて、尾張がどうとか聞かされて、もう疲れちゃいました。いただいてもいいですか?」
「え、あ、は、はい」
予想していなかった問いには面食らった。
と同時に、予想していたいずれの質問とも異なることに脱力する。
「おいしかったあ、ごちそうさまでした。それじゃあ」
沖田はずしりとしたそれをぺろりとたいらげ、糖分が補給されて笑顔になった。
「はい、大変お疲れさまでした…」
はいつの間にか額にまでにじみ出ていた汗を拭いながら局長室へと戻った。
沖田はぱたぱたと廊下をゆくの背を見守る。
「本当にいけませんよ、隠し事はね」
闇間にぽつりと、沖田の低い声が落ちた。
が局長室に入ると、伊東が待ちかねたように乗り出してきた。
「改めてただいま、。代わりはなかったかい?」
「はい、参謀もご無事なようで」
は丁寧に頭を下げる。
「ふふ、ありがとう」
伊東は優雅に笑って扇子を広げた。
は室内を見渡す。
近藤と土方と伊東がコの字型に座っている。伊東と近藤が相対し、その間に土方がいた。
眉間に皺を寄せ、腕を組んでいる。そして、体からぴりぴりとした空気を放っていた。
「どうした」
土方がの視線に気づいた。
「あ、何でもないです、お話中失礼いたしました」
は障子を閉めて局長室を辞した。
副長室に戻ると、は局長室との間を隔てる襖に寄り、息を潜めた。うっすらと中の会話が聞こえてくる。
“視察の旅は、尾張までしか行かなかった”
“ご家老様と話をさせていただいて、やはり世情を鑑みて戻ってきた”
“局長のおっしゃるとおり、将軍不在の今、京を長く空けるのは得策でないと思い直した”
伊東が立て板に水を流すがごとく、報告をしていた。
(もっともらしい言いようだけど…本当なのかな)
伊東は常に何かを腹に隠している。鵜呑みにするのは危険だと、は感じた。
その勘は当たっていた。
伊東は視察などではなく、慶喜の将軍職就任を阻止し、尾張前藩主の徳川慶勝を将軍に据えるための工作に出向いていたのである。
しかしそれは失敗に終わった。
すでに慶喜が徳川宗家は継いでいる。この国難の折に将軍職を受ければ、日本国の舵取りにあわてふためくことは目に見えている。慶喜からそしりを受け続けることは確実なのに、どうして将軍職を受けることがあろうか、というのが、慶勝の考えであった。
そうなれば年齢や家柄、実績などを考えても、慶喜以外に将軍職を受けるものがいない。慶喜が将軍になるのは時間の問題であった。
慶喜の将軍就任。
伊東の慶勝説得の失敗。
このふたつがの運命を大きく揺さぶっていくのである。
20111026