鬼が辻 9
は土方の様子を探ることにした。
(でも…どうしたらいいんだろう…私は早く屯所を出てしまうし、夜は遅いし…)
情報を得る手段が思い浮かばず、は考え込みながら顔を洗った。
「のう、」
が朝餉の食器を片づけに台所へ行くと、井上源三郎が声をかけてきた。
「はい」
は食器を賄い方に渡しながら返事をする。
「ちょっとこっちに」
井上はの背を押して、台所の戸から外へ出た。
(お前さん、どう思っておる)
辺りを気にしつつ、井上が耳打ちする。
(どうって…何のことですか?)
は問い返した。
(トシさんのことじゃよ。いいオンナが出来たみたいじゃが)
井上がしゃべりだした。
(ここのところ、トシさんが島原へ頻繁に出入りしてるらしい。最近ご無沙汰だったじゃろ、見かけた妓どもが騒いでおってのう)
(そうなんですか…)
(そうなんですかではあるまい。お前さんが翻訳だかコンニャクだかで朝早くから夜遅くまでいないから、トシさんが浮気しとるじゃないか)
(浮気って…別に私はそんな風には)
(はは、そこは冗談じゃよ)
が顔の前で手を振ると、井上は急に真顔になった。
(トシさんのことが心配なんじゃ。昔っからトシさんは…ああして一人で何か大事なことを抱え込む節があってのう。ワシも情報を集めてみるから、お前さんも少し手伝ってくれんか)
井上はの手を握った。
大きく温かな井上の手。
は久しぶりに人の温もりを感じた。
(私の方こそ、お願いします)
は頭を下げる。
(私も土方さんのこと、気にはしていたんですけど…)
(そうか、お前さんもそう思っててくれたか。相談してよかった)
井上がほっとしたような笑顔を見せる。
(じゃあ何かわかったらすぐ知らせるでな)
(はい、私もそうします)
そう約束し、二人はその場を離れた。
は副長室への廊下を戻っていく。
(よかった。土方さんのことに気づいていたのは私だけじゃなかった)
井上は試衛館時代から、いや、もっと前から土方のことを知っている。きっといい助言をくれるに違いない。
心の底にふつふつと希望がわいてくる。はぐっと拳を握りしめた。
数日後、はいつもより早く起きて薩摩藩邸に入り、全力で翻訳の仕事をこなした。その結果、夕方にはこの日の作業が終わり、は日のある内に藩邸を辞すことが出来た。
田代からは、
「やれば出来るではないか。やはり今までやらずにおったのだな」
と嫌みを言われたが、は、
「お先に失礼します」
とだけ言い残してさっさと部屋を出ていった。
嫌みなど気にしている場合ではない。
それに、今日の作業がうんと早めに終わったのには理由がある。
膨大なページ数のある「英国歩兵練法」だが、図説で占められているページも多い。は図説が多いページが固まっているところが何日後なのかを計算しておいたのだ。
建物が夕焼け色に染まる。
家路を急ぐ人の波に逆らい、は町中を歩いた。
の唇が乾いてゆく。
今日は土方の行動を探るために、早く仕事を終わらせてきた。
あの夜、土方は何のために派手な着物を身につけて、しかも深夜まで出かけていたのか。それをつきとめるのだ。
は先日通った道をたどり、土方を見つけた店の前に立った。少し奥まった路地に、ひっそりとその店はあった。
塀を見ると、自分が差し込んでおいた小さな紙切れがまだ刺さっている。
(この店で間違いない)
は紙を引き抜いて袂にしまった。
店の前に看板はなく、何屋なのかわからない。
は暖簾をくぐって中に入る。
「おこしやす」
初老の男がをちらりと見た。
男が座っている畳は一段高くなっていて、着物やら羽織やらが無造作に置かれている。
それだけではない。下駄や鍋釜、果ては大刀小刀まであった。
「あんた、初めてのお客はんやな。どれ預けるん? いくら欲しいんや?」
男が草履をつっかけて土間へ下りた。
「どれ…? いくらって…?」
男の勢いに、は一歩下がる。
「ここは損料屋や。ものを預かって金貸すのが当たり前やろ。まさかあんた、ここが何の店か知らずに入ってきたんか?」
男がを探るような目で見上げてきた。
(損料屋…なるほど)
は頷いた。
損料屋とは貸物屋とも言われ、損料と言われる貸し賃をとって物を貸し出す店である。
布団や蚊帳など大きな物も借りることができるため、収納のない狭い家ではよく利用されている。
(古着屋や質屋などが兼業していることも多いって、原田さんが言ってたな…)
いつだったかは忘れたが、原田とそんな会話をしたことがあったのを、は思い出した。
「借りるのか、借りないのか。はっきりしとくれやす」
男は黙ったままのに詰め寄る。
「借りようと思ったけど、今回はいいです。またおじゃまします」
何の店かわかれば用はない。は軽く会釈すると店を出た。
はいったん大通りへ出て、茶店に入る。ぬるい茶を飲みながら考えをまとめた。
(土方さんは、損料屋で着物を借りて、着替えてどこかに行ってるんだ)
そのどこかは、井上が巡察中にさりげなく調べを入れておいてくれた。
そのどこかとは、島原である。
常ならぬ格好をした土方を、遊郭の花たちが目撃していた。
いつもと異なる格好をしていても、夜の帳が降りきる前の薄闇の中で、彼の姿は目立つのかもしれない。
だが、その姿は郭の中全域でぽつりぽつりと目撃されており、最終的にどこへたどり着いているのかまでは、井上にも調べられなかった。
は茶をすすりながら表通りを見張る。
例の損料屋に出入りする道は一本しかなく、ここで見ていれば必ず見つかるはずだ。
格子越しの日が陰りを帯びてくる。
えへん、と茶屋の店主がに近づいて咳払いをした。
「あ、すみません、お茶もう一杯とお団子ください」
は道をじっと見たまま注文した。
運ばれてきた団子をほおばりながら、は瞬きも忘れたように見張りを続ける。
井上の話では、最近の土方は毎晩島原に出向いていて副長室を留守にしているそうだ。
きっと今夜も、土方は現れる。
はそう信じて、次の団子を店主に頼んだ。
四本目の団子を食べ終わろうとしたその時。
「!」
道の向こうに土方の姿が見えた。
土方は辺りにさっと目を配ると、損料屋のある路地へと消えていく。
「ごちそうさまでした、お勘定ここに」
は財布から金を出すと、店主が釣銭を渡そうとする声を捨てて店を飛び出した。
日はまもなく落ちようとしており、買い物客でざわめいていた道も店じまいで静かになろうとしている。
は戸板を動かして今にも閉じようとしている店の影に滑り込んだ。
店と店の間の細い隙間で静かに息をする。
しばらく待っていると、金糸の入った深い青の着物と、太い縞の袴に身を包んだ土方が道を通っていくのが見えた。
は袴の股立ちを取り、土方の後を付けて行く。
頭巾をかぶった土方は島原の大門をくぐり、早足で夜の街に紛れた。は土方を見失わないように小走りで進む。額から流れる汗がそのまま首筋を伝った。
さんざん無駄に道を曲がり、遠回りを繰り返して、ついに。
土方は、とある店の暖簾を揺らした。
は物陰から頭だけを出して、店の明かりを確認する。
「“木津屋”…」
店の前へ目を移すと、石畳が続いており、その左右には季節の樹木がきれいに植えられていた。石灯籠には百目ろうそくが燃えている。
店の暖簾が割れ、女将らしき女性と土方が出てきた。
はあわてて頭を引っ込めた。
店の前庭を突っ切り、二人は奥へと消えていく。
ややあって、女将だけが戻ってきた。
(ということは、土方さんはあの中に…)
は意を決した。
物陰に手荷物を置き、草履を脱ぎ捨てて木津屋の前庭にするりと身を潜り込ませた。
物音をたてないように。
袴も脱いでくるべきだったかもしれない、さわりと衣擦れの音がする。
庭の奥には、敷石に導かれて数寄屋(茶屋)があった。
そこから明かりと、かすかな話し声が漏れてくる。
はゆっくりと明かりの漏れている窓の下へ近づいた。
「毎度毎度めんどくせえ」
土方の声が聞こえてきた。
もし妓ならば、土方が変装する必要はない。身を偽ることなど不要だ。
だとしたら。
(相手は誰…?)
は全神経を耳に集中した。
「だったらそんな派手な格好はやめてくればいいのに。僕の好みじゃないなあ」
(えっ?)
今の声は。
(伊東参謀…!)
の目が光を帯び、大きく見開かれた。
どうして、なぜ土方と伊東がこんなところで。
まるで密談でもしているように、こっそりと。
話があるなら、毎日屯所で顔を合わせているのだから、その時に話せばいいのに。
「ぐっ…」
緊張感からか、は胃の底から何かがせり上がってくるような感じがし、口元を押さえた。
「誰だ!」
土方の鋭い声がし、入り口の戸が開け放たれた。
するとそこには女将が傘を持って立っていた。
「雨が降りそうなので、傘お持ちしましたえ」
「あ、ああ」
女将は優雅な笑みをたたえ、傘をふた張置くと、会釈をして店に戻った。
数寄屋の戸が閉められた。
は口元を押さえた瞬間、女将がすたすたと足音を立てて歩いてくるのに気づいて、数寄屋の裏手に隠れたのだ。
息を詰めたまま、は木津屋を後にした。
まるで過呼吸でも起こしたかのようには息を乱して、屯所まで走った。
手荷物は拾ったが、草履は暗闇と急ぐ心に紛れてどこにあるのかわからなかった。
ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきた。
「い、井上さんっ」
西本願寺の屯所に戻ったは、井上の部屋に急いだ。
「、どうした…あ、あれか?」
を見るなり井上は用件を悟り、を廊下の隅に連れていった。
「わかったんじゃな」
「は…はい…」
は息を整えながら頷いた。
「どんな太夫よりも…美しくて…頭の切れる方でした…」
「は? 誰じゃそれは」
「あの…」
眉を寄せる井上に、はその名を囁く。
「まさか…まさか、じゃったなあ…」
井上も驚き、言葉を失う。
「はい」
は尻をついて座り込んだ。
「…しばらくは、様子をみよう」
しばし黙った後、井上が提案した。
「トシさんのことじゃ、考えはあるに決まっとる。それが何なのか、慌てずに見極めるのだ。焦っては仕損じるぞ」
「はい」
「お前さんは、とりあえず今日のことは忘れるんじゃ、よいな」
「わかりました」
はこくりと頷いた。
雨が知らぬ間に強くなり、廊下の縁を濡らし始めた。
20111006