鬼が辻 8
京都の北、薩摩藩二本松藩邸。
「お疲れさまでした。失礼します」
今日の翻訳を終えたは風呂敷包みを持ち、藩邸を辞した。
もったりと黒い夜空がの頭の上に広がり、星が暑さで大きく揺らめいている。昼の熱気は頑固に居座り、ひたすらに汗がしたたり落ちてくる。
は、田代五郎左衛門に課せられた翻訳の量が今までの倍になってから、日の入りを拝んでいない。日の出とともに起きるとすぐに薩摩藩邸へ向かい、作業が終わるまでは軟禁状態なのである。
だが、外の情報はの耳にも入ってきていた。田代が逐一、赤松小三郎に報告するのが聞こえてくるのである。
第二次長州征討戦が、表向きは勅許をもって停止となったことも、赤松から聞いた。将軍徳川家茂の喪が発表された翌日のことであった。
長州の勢いは止まることを知らず、九州の小倉で行われた戦で、幕府は敗北を喫した。極秘に家茂の死を知った老中小笠原長行は戦線を離脱、小倉方面の要であった肥後熊本藩、肥前唐津藩も、戦況を判断して兵を引いた。
そんな幕府軍の弱腰に立ち上がったのは、一橋慶喜であった。
長州に自ら乗り込まんと「長州大討込」を宣言すると禁裏御守衛総督と摂海防御指揮を辞し、お暇乞いの参内まで行った。相当の覚悟と見た京の幕府軍は沸きにわいた。
しかし。
守りの最前線である小倉城が落城した知らせを聞いた一橋慶喜は、次の日に予定していた長州出陣を休止したのである。
「小倉ほどの防衛の拠点が陥落しては、今更行っても意味がない」
と慶喜は涼しげな顔で言ってのけ、将軍の喪を理由に、幕府軍、長州軍双方への停戦の勅を引っ張り出し、あれよあれよと言う間に戦を止めてしまった。
そして自らは徳川宗家に収まった。宗家は継いだが、将軍の座は拒むという異例の事態をもって。
「所詮、今の徳川などそのようなものですな! 腰抜けの集まりでしかない! 我々薩摩の後ろ盾ある長州には及びませぬ!」
田代がげたげたと高く笑う。
「だが幕府も仏蘭西と近づいているという噂も聞くでな。腐っても二百六十年の重みある幕府だ、だんだんと軍備は整ってくるやもしれんぞ」
赤松は淡々と本のページをめくる。
「その重みに、今や幕府は潰れようとしておるのですよ。前を見据えている薩摩の手も重なって!」
薩摩が手を回して軍備を整えてやったことに、田代は陶酔しきっているようだ。
赤松が手を止め、田代を見据える。
「よいか田代。新しき技は旧きを打ち倒すものであるのやもしれぬ。が、今の日本をよくよく考えるのだ。旧きも新しきも手を携えていかねば、たとえ新しきものが世を統べたとて、あっと言う間に外国に飲み込まれてしまうぞ」
「また先生はそのような戯れ言を。もうこの国は、徳川幕府では駄目なのですよ!」
田代も負けじと赤松を睨み返た。
赤松は田代の勢いを受け流すように顔を横に向ける。
「、お主はどう思う?」
「…はい?」
は本から顔を上げた。
「お主は、今の日本をどう思っておる?」
「すみません、集中していてよく聞いておりませんで…」
赤松の問いに、は曖昧な笑みを浮かべる。
「先生、こやつに国事のことなどわかりはいたしませぬ。聞くだけ無駄です」
はん、と田代が乾いた声を出した。
は再び本に目を落とし、辞書をめくる。
国事のことはわからない、それは半分当たっていて、半分はずれているとは思う。
この時代の結末は知っているが、そのことについて意見を述べられるほど、考えてはいない。考えないようにしている。
しかし、そのこととは別に、は二人の会話をすべて耳で聞き、心に書き留めた。会津藩に報告するためだ。
自分に課せられた役割を忠実にこなすこと。どこからも文句を言われないようにすること。自分のことで土方に苦情がいかないようにすること。
(今、それだけが、私が土方さんに出来ること)
赤松と田代の声が響く中、は服の上から懐の携帯に手をやった。携帯の中には土方の写真がある。
(土方さん…)
の手に、四角い感触が伝わってきた。
一度訳されているとはいえ、翻訳の作業は厳しかった。むしろ、再翻訳だからこその難しさにはとらわれていた。
すでに翻訳されている文章に引きずられてしまい、間違えている箇所を見落としてしまうのである。疲れていると特に見落としが多くなり、訳しては戻り、訳しては戻りを繰り返してしまうのであった。
その日、は幾度となく見落としをしてしまい、田代にさんざん怒鳴られた。その日にやらなければならない量をこなし、やっと薩摩藩邸を出たのは、いつもよりもだいぶ遅い時分であった。
「はあ…」
はひとりきりになったところで、思わずため息をもらす。
「田代はお主に対して厳しすぎる。気にするな」
と赤松が、田代のいないところで慰めてくれたものの、今日の自分は目が滑りすぎだと反省した。
食事はきちんと支給されているので、夕餉の必要はない。それに、怒られすぎのせいか反省のせいか、深夜になった今も腹は減っていない。
(屯所に戻ったらさっと湯を浴びて寝よう)
本来ならもうこの時間は布団に入って目を閉じている。
はあくびをかみ殺しながら道を歩いた。
昼間はにぎやかな町並みも、夜は何の物音も聞こえない。すでに店のたぐいは閉まっており、闇に込められた熱気に勢いのない犬の遠吠えだけがにじむ。
は少しでも早く帰ろうと、近道をすることにした。裏通りなので少し怖いが、どうせ表通りも人影などない。同じようなものだと覚悟して、は提灯を揺らしながら早足で進んだ。
がたん。
と、不意に、の横の細い道から音がして、の心臓がびくりと跳ねた。
「ああ、あんたはんかいな。こない遅くに…明けてからでもよかったんに」
柔らかな人の声がして、はほっとした。
ところが、次に聞こえてきた声色に、の目は大きく見開かれる。
「すまん」
たったそれだけでもわかる、その声は。
土方のものだった。
は即座に提灯の火を消し、道の角から目だけを覗かせる。
相手の男が持っている手燭に浮かび上がった横顔は、やはり間違いない、土方歳三であった。
土方は、彼の手持ちにはない派手な色柄の着物を着ていた。頭巾を持っていることから、今までそれを被っていたであろうことが推測される。
(あの格好で、あの頭巾を被っていたら…ぱっと見は土方さんだってわからないな…)
息を殺し、手の平ににじむ汗をそっと袴で拭いた。
土方は建物の中に入っていった。
は姿を現し、土方が入っていった場所へと足音を立てずに近づく。
懐紙を取り出すと端を少しだけ切り取り、建物の塀の隙間に差し込んでその場を後にした。
が早足で屯所に戻ると、まだ土方は戻ってきていなかった。
予定していたとおりに、誰もいない幹部用の風呂場に行き、ぬるくなった湯を浴びる。副長室に戻り何食わぬ顔で二人分の布団を敷いて身を横たえた。
それから程なくして土方も戻ってきた。
「おかえりなさい」
は身を起こすと行灯に火を入れる。
「ああ」
土方は短い返事をして羽織を脱いだ。
は土方の羽織を受け取りながら、ちらりと土方を観察した。
羽織の下は、もよく見知っている土方の着物だった。今日は細かい縞が入っている、濃紺の着物である。
(あの派手な色柄物じゃない。じゃあ土方さんは、あそこで着替えてきたってこと…?)
暗がりにたたずむ、裏路地の建物。そこに土方は寄り、この着物に着替えたことになる。
「まだ起きてんのか」
土方が低く問う。
「あ、はい」
は反射的に肯定した。
「神谷を一番隊に戻した。少し手伝え」
「かしこまりました」
土方が紙を何枚かに寄越す。中身を読むと、故郷に近況を知らせる手紙だった。
「清書しろ。明日お前が出るときに、飛脚問屋に頼んでおけ」
「はい」
はすぐに墨を擦り、言われたとおりに清書を始めた。
土方の手伝いをするのは久しぶりである。
だが、つい先日思っていたように、手伝いたい、役に立ちたいという思いはの胸に沸き上がってこない。
それよりも、
(土方さん…いったい何をしてるんですか…?)
疑問という葉を茂らせた蔦が、の心にからまってゆく。
こんな夜遅くにこっそりと、服装を変えてまでどこに出かけていたのか。
それが何を意味するのか。
土方は何も言わないし、文机に向かう背中は鍵のかかった城門のようで、質問を許さない。
は筆を走らせつつ、あらゆる可能性を考え始めた。
土方がなぜ変装してまで外出しているのか、はすぐ知るようになる。
屯所の外で、わざわざ参謀の伊東甲子太郎と会っていることを。
だが、はまだ知らない。
土方が、伊東が何を考えているのかを。
土方も伊東も、ふたりともが自分を利用しようとしているのも。
20110926