久遠の空 ドリーム小説 鬼が辻 7

鬼が辻

update:2011.09.23

鬼が辻 7 

 慶応二年七月二十二日。
 江戸幕府第十四代将軍、徳川家茂が亡くなった。
 まだ二十一歳という若さだった。
 新選組にも会津藩からの使者が極秘にやってきて、大樹公の訃報が伝えられたのであった。

 「将軍様が…」
 薩摩藩邸から帰宅したは、土方からその訃報を聞いた。
 「ああ。正式な発表は八月二十日になるそうだ。それまでは誰にも言うな」
 「かしこまりました」
 土方はそれだけを言うと、に背を向ける。行灯を机近くに引き寄せて、文箱の手紙に手を伸ばした。


 幕府の長である将軍が亡くなってしまった。
 次の将軍が誰になるかは知らないが、決まるまではきっと慌ただしいであろうことは、にも推測できた。

 (でも今は…タイミングが悪すぎる…)
 幕府は長州と戦争をし、しかも劣勢なのだ。そんな中、将軍逝去の報が流れれば、ただでさえ厭戦気分が漂う幕府軍は総崩れになるだろう。

 もし、今の世を統べる幕府が負けてしまったら。
 将軍が空位である最中に、たとえば長州が覇権を握ってしまったら、日本はどうなってしまうのだろう。

 (…違う)
 はふるふると頭を振った。
 自分は知っている。今は幕末で、それが何年なのかも覚えていないが、遠からず幕府は崩壊して新しい世がやってくるのだ。“もしも”も“どうなってしまうのだろう”もない。


 「…何やってんだテメエ」
 土方の低い声が聞こえ、は顔を上げた。土方が頬杖をついてこちらを見ている。
 「い、いいえ、何でもないです。ちょっと考えごとを」
 未来のことを口にしてはいけない。は慌てて手を振って誤魔化した。
 「…ふん」
 土方は再び背を向けてしまった。

 は改めて土方の背を見る。
 小さく揺れる行灯の火に、土方の背中が浮かび上がる。
 見慣れている広い背中。その向こうにかろうじて見えている土方の頬はこけ、隠しきれない疲労がにじみ出ていた。

 会津藩からの使者から事態を知らされて、今日の土方はきっと忙しかったことだろう。
 土方の部屋に入る前に、近藤の部屋から明かりがもれているのを見た。将軍逝去を知らされ、将軍第一の近藤は相当落ち込んでいるに違いない。土方はそんな近藤を慰め、鼓舞し、副長としてあれこれと必要な手を打ったのだろう。
 しかしそれは、いつかは徒労に終わってしまうのだ。

 「あの、土方さん」
 気持ちより先に、の口が動いた。
 「何かお手伝いすること、ありますか?」
 「あ?」
 土方が肩越しに振り返る。
 「お手紙の清書とか、書類の整理とか、何でも」
 は身を乗り出した。
 「それは今、昼間に神谷がやっている。お前がやる必要はない」
 「そ…そうです、か」
 が薩摩藩邸に出入りしている今、多忙な土方には神谷が付き添っている。自分の出る幕ではなかったのを思い出し、はぺたりと座り込んだ。

 は何もできない自分に唇を噛む。
 少しだけでも、今だけでも、土方の役に立ちたいのに。
 広い副長室に、鈴虫の鳴く声が妙に大きく響いてきた。

 「お風呂、いただいてきますね」
 何も出来ないと悟り、せめて邪魔にならないよう、は支度をすませて風呂場へ向かった。

 静けさが戻った副長室では、土方が額に手を当ててうなだれていた。
 「まだこれからだ。歳三、お前は鬼になったんだろうが」
 そう呟き、土方は額に当てた手を握ると机に振りおろした。
 大きな音に、庭の虫たちの声が一瞬止まった。



 「翻訳を急いで、ですか?」
 翌日、薩摩藩邸に到着したは、田代五郎左衛門からそう伝えられた。
 「そうだ。我々薩摩も、長州に後れをとってはならんからな。一日でも早くこの本を完成させ、日の本一の軍隊を作り上げねばならん」
 田代が色めき立つ。長州が幕府軍を押しまくっている報が伝わり、藩邸の上層部から洋式軍学の整備を急ぐように命令が出たのだ。
 「一日に翻訳する量を定めるゆえ、それが終わるまで帰宅はまかりならんぞ。わかったな」
 を睨み下げ、田代は「英国歩兵練法」の本を取り上げた。まだ翻訳出来ていないページ数を数え、日にちで割る。

 「このぐらいだな」
 と田代が提示したページ数は、が朝から夕方までかかって終える量の倍もあった。
 「この量は…どう考えても無理です」
 は率直に申し述べた。
 「無理もくそもあるか! 貴様はこの薩摩に雇われているのだぞ! 出来る出来ないではない、やるかやらんかだ! だいたい貴様は毎日の翻訳の速度が遅すぎるのではないか? 全力でやれ全力で!」
 田代が大声を張り上げる。

 翻訳する速度は、同じ部屋で学んだ会津藩の仲間内では決して遅いほうではなかった。しかし、雇い主の期待に応えられる速さでないことは確かなのである。
 「申し訳ございません、善処いたします」
 は畳に手をついて頭を下げた。

 「赤松先生、先生もそのようなものは打ち捨てて、翻訳に集中していただきたい」
 赤松が書いているものを、田代が見咎める。
 「すまん、思いついたことは書き留めておかねば忘れてしまうでな」
 赤松はしたためていた紙を机からふわりと下ろし、代わりに翻訳の原稿を載せた。
 「しかしな田代。長州の例で洋式軍学のちからもわかったであろう。これ以上日本の中で小競り合いをしている場合ではあるまい」
 田代はわざとらしく大きなため息をつく。
 「そこが先生のお悪いところです。この腐り果てた徳川の世は、武力を持ってすればすぐ終わりになるのです。それこそ、長州の例にておわかりでしょうが」
 そう言い捨て、田代は部屋を出て行った。


 は、赤松が書いていた紙に目を落とす。そこには長い長い文字の列が続いていた。
 「これはな、幕府への口上書である」
 赤松が紙を拾い上げた。
 「、お主もこたびの長州征討は、幕府に勝算のないこと、明らかとわかっているであろう」
 「お話を聞く限りでは」
 「うむ。陸海の兵制は早急に改めねば、諸外国と対等に渡り合うこと相かなわぬ。さらに今は世界各国との交渉を迫られる非常の時、門地家禄にとらわれず、優秀な人材を登用せねば乗り切れぬであろうて」
 赤松は眉間に厳しい皺を刻む。
 「拙者は十八で上田から江戸へ遊学し、長崎の海軍伝習所にて学び、江戸勤務中に横浜の英国士官の元へ通って英語を学んでいた。自然と諸外国の事情に通じるようになり、旧態のままの幕府は、今こそ変わらねばならぬと思っているのだよ」

 その時、部屋の障子の向こうをひとつの影が歩いてきた。
 「私もその通りだと思います、赤松先生」
 失礼、と言いながら入ってきたのは、伊東甲子太郎であった。

 「伊東殿。久しぶりであるな。今日はどうなされた?」
 赤松は伊東に席を勧めた。
 「うちの優秀な人材の働きぶりを見たくてお邪魔いたしました」
 伊東はゆったりと笑い、に流し目を送る。
 「いかがですか先生、はお気に召していただけましたか?」
 「もちろんだとも。今までの誰よりも、正確で的確な訳をつけてくれる。伊東殿、いい配下を持たれましたな」
 赤松は上機嫌で答えた。

 「ところで赤松先生、先ほどのお話ですが」
 伊東がぱっと扇を広げる。
 「長州での戦、もはや幕府に勝ち目はないと私も見ております」
 「伊東殿もそう思われるか」
 「はい。洋式の軍学が戦の場を制するようになった今、刀で斬り込む時代は終わりを告げようとしています。それを理解せずに、古来のままの軍備をかたくなに守っている幕府に勝機はありません」
 「ふむ、その通りだ」

 「そして、優秀な人材は野にいくらでも咲いているのに、高いところからはその花がかすんでみえるようですね」
 ふふっと伊東は笑い、扇でそよそよと風を立てる。
 「ああ、まったくだ。正直なところ、高禄のものほど知識もなく使い物にならぬ。そのような愚物を排除し、有能な者の禄を増やして召し上げればよいと、拙者は思うのだが」
 赤松が腕を組んで考え込む仕草をする。
 「さすが先生。高いご見識、この伊東感服いたしました」
 伊東は満足そうな笑みを浮かべて頭を下げた。

 「今、薩摩の一部はそれを成そうとしている。それゆえ、拙者も誘いを受け、翻訳に協力しておるのだ」
 「はい」
 「今、幕府を動かせるのは、大藩である薩摩を置いて他にない。薩摩が幕府を後押しし、富国強兵に努めてくれればのう」
 「左様でございますな」

 二人は考え方が合うようで、次々と話を繰り出している。
 は静かに赤松と伊東の様子を見ていた。


 しばらくすると、どすどすと音を響かせて田代が戻ってきた。
 さっきのまま座談に興じているを視界に入れると、目をつり上げて腹の底から怒鳴りつけた。
 「山口、何をしているか! 自分で終わらぬ量だと言っておきながら! 早く取りかからぬか!」
 「は、はい」
 は素早く自分の文机の前に座り、本を開く。

 田代はさらに、伊東にも目を向けた。
 「伊東殿。せっかくお越しくださって申し訳ないが、この部屋はご覧の通り大変忙しい。お帰りいただけないだろうか」
 「あ、ああ、そのようだね。お邪魔して悪かったよ」
 伊東は田代の剣幕に驚いたらしく、目を白黒させていた。
 「、一緒に帰りたかったけど今日は無理なようだ。又の機会にしよう。赤松先生、失礼いたします」
 と伊東は言い、部屋から退散した。


 は翻訳作業に没頭することになった。
 膨大な量の翻訳に、日が暮れても部屋から出してもらえない毎日が続いた。
 だが、どんなに遅くなってもは薩摩藩邸には泊まらず、屯所に帰った。
 もし泊まっている間に隙を見せ、女であることがばれたら事だからである。

 それに、何より、土方に会いたかった。
 どんなに冷たくされても、夜遅くなって土方の寝ている背中しか拝めなくても。
 ただ土方の気配を感じることが出来れば、それだけでよかった。

 振り返ってもらえなくても、自分の全ては土方のためにある。
 その想いだけがを突き動かしていたのであった。



 20110922