鬼が辻 6
第二次長州征伐の報は、現地に赴いている諸藩の物見や監察から、京へ続々と入ってきた。
幕府と長州は四カ所で交戦を行った。ゆえにこの戦いは、後に四境戦争とも呼ばれるようになる。
新選組には斎藤を通じて会津藩から、変装して長州に潜り込んでいる監察方の山崎烝や吉村貫一郎から、戦況が伝わってきた。
「何っ…!」
土方は山崎からの密書を読んで目を見開いた。
数では圧倒的に勝る幕府軍が、たかが一藩の長州にいいようにあしらわれているのだという。
六月七日に勅許が降りると、まず幕府軍は瀬戸内海に浮かぶ周防大島を占拠した。この島は村民だけが守っており、幕府は蒸気船から一方的に砲撃を仕掛け、上陸を強行した。
初戦は幕府軍の勝利で終わった。
しかし、同時にこれが幕府軍唯一の勝利でもあった。
長州藩は島民の悲惨な訴えに応え、高杉晋作率いる軍艦を送り込んで、幕府の軍艦に夜襲をかける。
すっかり長州をなめきっていた幕府軍は突然の夜襲に慌てふためいたが、蒸気船は蒸気を上げて始動するまでに時間がかかり、反撃できない。
高杉は小型蒸気船で幕府軍艦の間をすいすいと進み、砲撃をしかけて悠々と戻っていった。損害はたいしたことはなかったが、わずか五百人の奇襲に恐れおののいた幕府軍二千人は周防大島から撤退してしまったのであった。
「この高杉って野郎…着流しに扇子一本で指揮を取っただと? ふざけやがって…」
夜襲が必ず成功すると踏んでいたのであろう高杉の格好に、土方は報告書を握りつぶした。
長州藩の勢いは止まらなかった。
周防大島の奪還を皮切りに、芸州口では二万人、石州口では三万人、九州に渡り肥前小倉口では何と五万人もの幕府軍を撃退してしまった。
報告書が副長室に持ち込まれるたび、土方は頭を抱えることになった。
幕府軍は十二藩の大連合軍、それに対し、相手はたった一藩なのである。戦力も十万人対三千五百人というケタ違いだ。
この内容を、これから近藤に話さねばならない。
気が重かった。
気が重いと言えば、もうひとつ土方には気にかかっていることがあった。
時の将軍家茂が病の床に臥していることだ。
先日、松本良順に神谷の病状を聞こうとして、木屋町の南部宅を訪れた。
ところが松本は不在だった。そこで南部が土方に極秘で教えてくれたのである。
たかが西国の単一藩ごときに押され、幕府の権威は失墜するだろう。
そんな今、年若く跡継ぎのいない将軍に万が一のことがあったら、幕府はどうなってしまうのか。
(暗いだけのこんな話、かっちゃんにどう言えってんだ)
土方は報告書を放り投げてごろりと寝ころんだ。
だがこれも副長の仕事である。
土方は皺の寄った報告書を拾い上げると、自分に活を入れて局長室に向かった。
案の定、山崎からの報告書に目を通した近藤は落胆し、
「やはり我々も討って出るべきだったのではないだろうか」
と深いため息をついた。
新選組は今回の戦にお呼びがかかっていない。
「堪えてください局長。我々は、万が一長州が京の町まで攻め込んできた時が活躍の場です」
伊東が諭す。
「よもや大樹公の兵が…数で勝る幕府軍が負けるなど…」
近藤は拳を震わせた。
「何が大樹公の兵だ。やる気ねえんだろ」
土方が首の汗を手で拭った。
「お稽古剣法で、幕府の権威と数だけで押しゃあ勝てるなんて思ってる奴らと、後がねえ死に物狂いの軍隊だろ。どっちが勢いで勝ってるかなんざ、火をみるより明らかじゃねえか」
「トシ!」
土方の言葉に、近藤は目をつり上げる。
「土方君、さすがだね」
伊東が身を乗り出した。
「局長、僕も土方君の言う通りだと思います」
「伊東参謀、あなたまでそんなことを」
近藤が苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
伊東はさらにたたみかけた。
「今の幕府は、江戸の首脳部と京都の派遣部隊の意見が分かれ、統一されておりません。こたびの長州戦も、幕府の命令だから仕方なく従っている藩もあると聞いています。どこぞの大藩に至っては、出兵命令自体を拒否しておりますし」
「そ、それはそうだが…」
どこぞの大藩とは薩摩藩のことである。
幕府から長州を攻めるよう命令が下されたのだが、今回の長州征伐には意義が見いだせないとして、静観を決め込んでいるのだ。
しかしその実、一月に薩長同盟が結ばれ、おおっぴらに武器を購入できない長州に代わって薩摩が外国から武器を輸入していた。
長州は民草までもが一丸となって洋式調練に励み、今回の戦でその威力を大いに発揮しているのだ。
「もしこれで長州が京まで上ってきてしまったとします。我々新選組には、幕府軍にはないやる気がある。必ずや長州を討つことができる。そうでしょう、局長?」
ふっと口元をゆるめ、伊東が笑みを見せた。
「あ、ああ! もちろんそうだとも!」
がっくりと肩を落としていた近藤は、伊東の言葉に乗せられて急に勢いがよくなった。
「失礼します、山口です。入ってもよろしいでしょうか」
障子の外から声がかかった。
「君か、遠慮しないで入ってきたまえ」
近藤が明るく言う。
さっと障子が開き、がするりと入った。
「薩摩藩邸から今戻りました」
「お帰り。今日もご苦労だったね」
伊東が優しくいたわりの言葉をのべる。
「何の用だ」
土方が鋭く言った。
「はい、これを土方さんにと言付かりました」
は副長室に戻る途中、隊で雇っている小者に出くわし、土方宛の書状を渡されたのだった。
土方は書状を広げて中身を改める。
それはまたも山崎からの密書で、やはり戦況は芳しくないという内容だった。
忌々しく舌打ちしながら、土方はそれを近藤に回した。
「部屋に戻っていいぞ」
土方は素っ気なくを追い払おうとする。
「待って。今、長州征伐について話していたんだけど、君は薩摩から何か聞いていないかい?」
下がろうとしたを伊東が止めた。
「ちょうど今日、聞いてきましたが」
は振り返って言った。
「ぜひ聞きたいな」
伊東が頼み込むような視線を投げる。
「かしこまりました」
とは話の輪に加わった。
が長州征伐の話を聞いたのは、薩摩藩邸であった。
早朝に屯所を出ていかつい門をくぐると、敷地内で鍛錬を行っている藩士たちがいつもより多くいる。
何かあったのかもしれないと注意しながら、は「英国歩兵練法」翻訳のために用意された部屋の障子を開こうとした。
「まさしく洋式軍学の勝利ですな、赤松先生!」
と興奮した声が外まで響いてきた。一緒に翻訳の仕事をし、赤松の身の回りの世話をしている田代の声だ。
「おはようございます、山口です」
とは声をかけ、障子を開いた。
「山口、入っていいか聞いてから入室せんか!」
田代が怒鳴りつける。
「おお、お主もそこへ座って話に混じれ」
赤松は自分の傍らを指さした。
「先生、こいつは会津の人間ですよ? それなのに聞かせるんですか?」
田代があからさまにいやな顔をする。
は、自分が聞いてはまずい話かと思って赤松の顔をうかがう。
「構わぬ構わぬ。ささ、早う座れ」
赤松は笑顔で再び自分の横の畳を叩く。
は頷いて赤松の隣に腰を下ろした。
田代は舌打ちして口を噤んだ。
「幕府が長州を討たんとしておったのは存じているな。その戦況が伝えられてきたのだ」
赤松が居住まいを正して話し始める。
「長州は洋式軍学で、幕府軍を撃退しているらしいぞ」
「幕府軍を、撃退…?」
はごくりと喉を鳴らした。
幕府が諸藩に号令して大軍隊を組織し、長州征伐に当たったことはもおぼろげながら聞いていた。
長く日本を治めている徳川幕府が結集した軍隊が、たかが一藩の軍隊に押される。そんなことが起こりうるのだろうか。
「長州の武器は何といっても最新式のミニエー銃であるからのう、弾丸の飛距離も的に当たる正確さも、ゲベール銃の比ではない」
赤松が続ける。
「そうですなあ。もう滑空銃など古い古い。あんなのただの空気鉄砲です。これからはライフル銃でないと」
田代が鼻息を荒くした。
滑空銃とは、内側が滑らかな筒から弾が発射される銃のことで、ゲベール銃がそれにあたる。
一方、ライフル銃とは、螺旋を描く筒の内部を、弾が回転しながら発射される。ミニエー銃がこれにあたるのである。
螺旋は弾に回転を与え、軌道を安定させる。そして空気抵抗が少なくなり、遠くまで飛ぶ。つまり、命中率が高くなり、遠くまで飛ぶのだ。
「幕府軍は届かない弾を打ち続け、長州は面白いほどに届いてばったばったと相手を倒しているそうです。愉快ですなあ」
田代は豪快に笑った。
「洋装も功をそうしたと言うではないか。やはりこれからの戦は、道具も服装も洋式でなければならぬ」
赤松は立ち上がり、自分の服装を示した。
は自分の服装に目を落とす。確かに袴は、たとえ股立ちを取ったとしても足捌きはよくない。旅用の裁着袴とて同様だ。
「お主も早く洋装にいたさぬか、」
赤松は座りながらに話しかける。
「ええ、まあ…」
元いた時代では毎日のように洋装だったが、こちらに来てからは和装である。洋装はまだまだ異端なのだ。は言葉を濁した。
「若いゆえ金がないか? はは、それもそうか。この翻訳が終わったらまとまった金が入る。拙者が買い与えてやろう」
赤松はの肩をぽんぽんと叩いた。
の翻訳能力は赤松を充分に満足させているらしく、いつの間にかを名前で呼ぶほど気に入ってしまった。
「赤松先生、こんな奴を甘やかしてはなりません!」
田代がを睨みつけて威嚇する。自分のほうが長く赤松に付き従っているのに、が自分より取り立てられているのが気に入らないらしい。
「またお主はそのようなことを…悔しければお主もと同じぐらい翻訳が行えるようになってみるがよい」
赤松は苦笑いをしながら田代を宥めた。
ぎり、と田代は歯ぎしりをする。の翻訳が見事なのは、清書を行っている田代にもわかっている。過去に訳された文章と比べても、わかりやすく、矛盾していた部分がほどかれている。その領域まで行き着くことは容易ではないと、充分に承知しているのだ。
田代は再びに視線を向ける。その目には炎が燃えたぎり、いつか見ていろといわんばかりである。
には田代と争う気はまったくない。ただ自分の仕事をこなすのみである。さりげなく目を逸らした。
「そういうことだったのか…」
近藤はの話を聞いて、なぜ幕府軍が大敗を喫したのか理解したようだった。
「局長、お聞きの通りです。新選組も洋式化を急いだほうがよろしいかと。勇猛な上に強い軍備を整えれば、我が組の前に敵はございません」
伊東がすかさず提案する。
「そうだな…よし、伊東参謀、副長と相談して、洋式調練について強化を進めてくれ」
近藤は素直に伊東の言葉を受け入れた。
「承知いたしました」
伊東は満足そうに口の端を上げながら近藤に頭を下げた。
「、君にも協力してもらいたい。薩摩藩邸で行っている翻訳、その内容を組の調練に反映させたいんだ」
伊東がに流し目を送る。
「えっと…でも…」
紙一枚を持ち出すことも許されない厳しい監視下で行っている翻訳の内容を外へ漏らしていいのだろうか。は戸惑った。
「新選組のためなんだ。協力してくれるね?」
伊東がの手を取って包み込む。
伊東が新選組のためと言うときは、ひいては土方のためと決まっている。伊東はそんな目つきでを見つめた。
は土方を見た。
土方は腕を組み、何も言わずにを見つめ返している。
「…はい」
とは頷いた。
土方の強い視線に、背中を押されたような気になったからだ。
「ありがとう! やっぱり君を赤松先生の元に送り込んで正解だったよ」
伊東がの手を、大きな手でぐっと握った。
はもう一度土方へと視線を投げた。
土方はまだ先ほどと同じ眼差しでを見つめている。
本当に駄目なら土方は自分を止めるはずだ。そう思い、は本格的な洋式軍学を新選組へもたらす覚悟を決めた。
そして時期をほぼ同じくして、土方が懸念していた事態がとうとう起こってしまった。
病に臥していた将軍家茂が、身罷ってしまったのであった。
20110915