鬼が辻 5
は分厚い「英国歩兵練法」の翻訳と戦うことになった。
にとっては初めての“本の翻訳”である。
軍事のことは何もわからない。関連のある単語も当然知らない。
仲間と共に培った、文章を読み解く技術だけが、彼女の武器だ。
救いなのは、この本が一度訳されていることだった。
おおよその筋はすでに解きほぐされていることになる。
は最初に訳された本を読み、書かれている内容を頭にたたき込むことから始めた。そうすれば、知らない単語が出てきても、すでにある訳文と照らし合わせて、単語を推測できるからだ。
「何も知らぬところから始めるとは、ずいぶんと暢気なものだな」
田代五郎右衛門が鼻で笑う。
田代は赤松の身辺を世話し、赤松やが書いた下書きを清書する役割も兼ねていた。
しかしそれは表向きのことである。
身辺を世話するのは、薩摩から俸録を出して翻訳をさせているのに、翻訳の内容が外へ漏れ出さないかを執拗に見張っている。清書は検閲なのだ。
「すみません、厠に…」
とが立ち上がる。
すると田代も立ち、の着物の袂をよくよく確かめる。
「すぐ戻ってこい」
田代の許可が下りると、ようやく厠に行けるのだ。
こうして、たかが厠に行く際にも余計なものを持ち出していないか厳しく見られ、は廊下でやっと和らいだ息を吐く。
だがこれも自分に与えられた仕事だと思うので、は堪えた。
堪えねばならないことが、にはもうひとつあった。
土方に避けられ気味なことである。
薩摩藩邸に出入りするようになってから、土方はあまり口を利いてくれなくなった。
「おはようございます」
「ああ」
「朝餉をもらってきました」
「そこに置いとけ。後で食う」
「では行ってきます」
「ああ」
「ただいま戻りました」
「ああ」
「おやすみなさい」
「ああ」
一事が万事、こんな感じなのである。本当に必要最低限のことしか返事をしてくれなくなった。
土方には、きっと何かの考えがあって、自分を遠ざけているに違いない。そうでなければ、自分をこの副長室に置いておくことすら許さないはずだ。
わかっている。
「はあ…」
わかってはいるが、土方が発する空気が鋭すぎていたたまれない。
は夜の闇に支配された廊下を伝って、集会所前の境内に出た。
昼は大勢の参拝者で賑わっている西本願寺の境内も、門を閉じて人っ子一人おらず、静寂だけが辺りを包んでいる。
昼間の蒸し暑さは夜になってもなかなか収まらない。だが土方との間の苦しさよりはましである。
は生ぬるいままの空気を胸一杯に吸い込む。
そして土方の考えを察しきれない自分のぬるさを吐き出した。
さりさりと、石畳の上を草履の裏が擦る音が近づいてくる。
誰だろうとは身構える。
「俺だ」
「斎藤さん?」
声は斎藤だった。
は緊張を解いた。
「どうした」
「え、ええ、ちょっと夜空を見たくて」
土方と一緒に居づらいとは言えず、はとっさに言い訳をした。
斎藤はじっとを見つめる。
ややあってぱちくりと瞬くと、おもむろに口を開いた。
「居づらいのはわかるが、早めに部屋へと戻ったほうがいい。副長が心配する」
「えっ」
いたたまれず部屋を出てしまったことを見透かしているような斎藤の言葉に、は思わず顔を上げる。
「どんなことがあっても、副長を信じているのだろう?」
斎藤は口の端を微かに上げて笑う。
その笑顔は土方に絶対の信頼を置いていることを表していた。
「はい」
は斎藤の笑顔に、自分の中のぬるさが吹き飛んでいく。
大丈夫、心配することなどない。ただ土方を信じていればいい。
斎藤と同じように、も笑った。
(あんたに話がある)
斎藤は急に声を潜めた。
(何でしょうか)
その声色に、の背筋に力が入る。
(会津からの言づてだ。そろそろ薩摩藩邸の様子を報告してほしいと)
(薩摩藩邸の…ですか)
はごくりとつばを飲み込んだ。
が薩摩藩邸に出入りして赤松の手伝いをするよう話を持ってきたのは伊東である。
しかし、その話を正式に許可したのは会津藩だ。薩摩藩邸の様子を探ってこいとの命令付きで。
(すっかり忘れてた…)
は額に手を当てて天を仰ぐ。
まだそう日は経っていないが、少しでもわかっていることを、斎藤を通じて報告しろということなのだろう。
(それだけ…会津は薩摩を怪しいと見ているのか…)
は斎藤にここ数日の薩摩藩邸であったことを報告した。
初日、伊東たちと延々と待たされたこと、田代に赤松から伊東宛の書状を捨てられてしまったこと、英国歩兵練法の翻訳に入ったことなどを短くまとめて聞かせた。
斎藤はひとつひとつの報告に頷きながら聞いていた。そしてが告げた内容を正確に反復した。
「すみません、お伝えをお願いします」
はぺこりと頭を下げる。
「ああ。今後もこうして報告してくれ」
斎藤はこくりと頷いた。
「用は済んだ。先に戻れ」
斎藤は夜空に目を向ける。
「斎藤さんは? 戻らないんですか?」
すでに隊士部屋の明かりは消されて、ほとんどの隊士は休んでいる。余程の用事がない限り起きていない時刻だ。
「どうも眠れそうにない」
「ちょっと湿気がありますもんね。寝苦しいですか?」
はじっとりと汗ばんでいるのに気がついた。
「それもそうなのだが…」
斎藤は珍しく口ごもった。
「何か起きそうな気がするのだ」
そう言うと、斎藤は遠くに視線を投げた。
「何か…ですか」
いつも表情がうかがい知れない斎藤が、固い顔つきをしている。
斎藤は会津から何かを聞いているのだろうか。
自分が告げた薩摩藩邸の様子と関係があるのだろうか。
も同じ方向を向いてみるが、そこには西本願寺の塀と、空にちりばめられた星しか見えない。
と斎藤は、しばしその方向を、西の空を眺めていた。
翌日、が薩摩藩邸から戻ってくると、太鼓楼脇の門前に幹部たちが集まっていた。人影がわいわいと盛り上がっている。
何だろうとが近づいていくと、彼女に気づいた原田が抱きついてきた。
「〜〜〜!!! 生まれた! 生まれた!」
「え?」
何のことか、にはすぐにわからなかった。
「ややが生まれたんだよ! 男だぜ、男!」
「あ、とうとう生まれたんですか!」
原田がの手を掴んでぶんぶんと勢いよく振る。
はその理由を得て、口元をほころばせた。
原田の妻、おまさが子を宿したことを聞いたのはいつのことだったろう。
それから十月十日、腹の中で慈しみ、大事に守り育ててきた命が誕生したのである。
「おめでとうございます」
は原田の手を握り返した。
「おお、ありがとなー! 玉のようにかわいいかわいい男の子だ。今度連れてくるからな!」
原田の顔は緩みっぱなしである。よほど嬉しいのだろう。嬉しくないわけがない。
「原田さんったらさー、今、全部の隊士部屋に報告してきちゃったんだよ」
藤堂がふつふつと笑う。
「生まれたてのほやほやを屯所に連れてこようとして、おまさちゃんにも産婆のばあさんにも怒鳴られるしよ」
と永倉が原田を肘でつつく。
「左之助の家の前で、若先生は涙流して自分のことのように喜んどったし、トシさんもほっとしたみたいだな」
井上が言う。
「局長も土方さんもいらっしゃったのですか?」
「おまささんに万一のことがあったらと、神谷が南部先生を呼びに行った時に偶然居合わせたらしくてな」
「偶然に…?」
「総司と神谷は南部先生を木屋町まで送っていっとる。それにしても遅いわな…おまささんのところで赤ん坊の顔をもう一度見とるのかな」
井上がきょろきょろと門の外を見渡した。
「おっといけねえ、俺も早く帰らなきゃ!」
原田が慌てて駆け出した。
「気をつけて」
は手を振る。
原田は背を向けたまま手を挙げ、矢のような早さでおまさのいる我が家へと戻っていった。
も原田に負けず劣らずの早足で部屋に戻った。
(土方さん…南部先生のところなんて…何の用事だったんだろう。病気でなければいいけど…)
障子の前で深呼吸をしてから障子を開く。
土方は文机の前で書状を呼んでいた。
「ただいま戻りました。原田さん、お子さんが生まれたんですってね」
「そうだな」
土方は素っ気なく返事をした。
押し黙る土方の背を、は静かに見つめた。
どこかをかばって座っているようには見えないし、声も普通だ。一見、具合が悪そうには見受けられない。
南部は数日に一度、新選組の隊士を検診に来ている。南部に話があれば、その時に話せばいいはずだ。
(わざわざ南部先生のところへ行くなんて、何の話をしに行ったんだろうか…)
原田に子が生まれ、おめでたいはずなのに。
斎藤の言葉と相まって、はどことなく不安が胸に沸き上がるのを感じた。
斎藤の勘。
土方が南部を訪れた際に聞いた話。
の不安。
それらは混然となって、的中した。
第二次長州征伐の戦端が開かれ、幕府軍が押されて終わったのである。
20110905