鬼が辻 4
は翌日からひとりで薩摩藩邸に向かうことになった。
伊東と内海はの紹介と挨拶に来ただけであるし、翻訳には関わらない。
は土方の部屋で持ち物を確認しながら、今後はひとりであの番犬のような門番に声を掛けて中に入らねばならないことに溜息をついた。
そしてそっと後ろに視線を向ける。
土方が文机の前で書状に目を通していた。
ゆうべは、戻りが遅くなってしまったので、土方とろくに話をしていない。
無事に赤松との面通しが行われたことを喜んだ伊東が、おごるから食事をして帰ろうと言いだし、寄り道をして帰ってきたのだ。
屯所に戻ると、土方は局長室で近藤と話していた。
もう遅い時分だったので、は簡単な報告だけをして副長室に下がった。
そして床をのべると、緊張の糸が切れたのかすぐに眠ってしまった。
だから、土方とまだ詳しい話はしていない。
薩摩屋敷がどんな様子だとか、赤松がどんな人物だったのか、今後はどうすればいいのかなど、話しておきたいことは山ほどある。
今、土方はに何も聞かず、背中を向けている。
空気は張り詰め、話しかけられるような雰囲気ではない。
土方だって気にしているはずだとは思う。
不安定な立場にいる薩摩の実情を、きっと知りたいはずなのだ。
(忙しいから、なのかな…)
長い間ともにいるから察することの出来る、声を掛けてはならない雰囲気。
は隙のない背中にそれを感じ、黙って部屋を出ようとした。
「おい」
土方のほうからふいに声がかかった。
「はいっ」
はぱっと振り向く。
土方は声こそかけたものの、背を向けたままだ。
「お前が薩摩藩邸に出入りすることは、とりあえずゆうべ、幹部連中には話した。もしかしたら組の中にも伝わってるかもしれねえ。何か聞かれても、余計なことはしゃべんじゃねえぞ」
「はい、わかりました。いってきます」
「ああ」
は副長室を出て、太鼓楼の門へ向かって歩き出した。
土方が厳しい雰囲気を解いて話しかけてくれたことが嬉しい。
の頬が緩む。
しかしはすぐに表情を戻した。
これから薩摩藩邸に入るのに、にやにやしながら入るわけにはいかない。
が屯所の階段を下りて境内に入ると、隊士たちが素振りをしたり話をしていた。
彼らはを見て急に眉をひそめる。
(薩摩は今、長州討伐に参戦するかどうかの態度を保留しているんだろう?)
(幕府に恭順する姿勢が揺らいでるらしいな)
(まあ、元々薩摩はあやしいからな)
(そんなところへ出入りするなんて、何を考えているのか…)
ひそひそと、しかし聞こえよがしに会話が聞こえてくる。
土方が言ったように、が薩摩藩邸に出入りする話がさっそく広まっているようだった。
はその声の中をさっさと歩いていく。
自分が薩摩屋敷へ出入りすることは、会津藩の指示である。
局長である近藤も、参謀の伊東も、そして副長の土方も了承していることなのだ。こそこそすることは何もない。
門の前に、をじっと見つめながら立っている影がある。
神谷と沖田だった。
神谷は探るような目でを、なかば睨みつけている。
「薩摩藩邸に出入りしてるって、本当なんですか」
に気づくと、神谷は早足で近づいてきた。
「神谷さん…」
は足を止めた。
「薩摩なんて、今、長州討伐に加わるか加わらないかではっきりしてないって聞いてますよ。そんなところへ出入りなんて、何考えてるんですか?」
神谷がにくってかかる。
襟を掴まれたは、よろりとよろけた。
「神谷さん、おやめなさい」
横から沖田が神谷を止めた。
「沖田先生だってご存じのくせに。敵地に飛び込むようなもんじゃないですかっ」
神谷は激しく沖田を振り返る。
「まだ敵と決まったわけじゃないでしょう」
沖田が神谷の肩に手を置く。
「だって…だって、さん、こんなに頼りなさげなのに…万が一のことがあったらどうするんですか…」
神谷の目は赤くなりかけていた。
は自分にしがみつかんばかりの神谷を見る。
神谷はの腕をぎゅっと掴んでいる。
(心配して、くれてるのかな…)
昨日の朝、神谷に行き先を告げなかったことが、の胸にちくりと突き刺さった。
「あ、の、神谷さん」
ごめんなさい、とが言おうとした時、沖田が口を挟んだ。
「いいかげんになさい神谷さん。さんは肥後守様のご命令で薩摩屋敷へ出入りしているんですよ。万一のことがあっても、それは覚悟のうちでしょう」
少し大きめなその声に、周りの隊士たちも口をつぐむ。
神谷もそれは理解しているように唇をかむ。
「…でもっ」
その唇の間から、未練の声が漏れる。
「さんだって武士なんですから、神谷さんが心配するには及びません。ね、さん」
沖田はに視線を移した。
同時に神谷もを見上げる。
自分を心配してくれている神谷。
自分を信じてくれている沖田。
どちらの気持ちもありがたく、あたたかいとは感じた。
どちらにも、これ以上負担に思われないようにせねばならない。そうしたい。
「はい」
とは笑った。
は二人に見送られて門を出た。
神谷は薩摩藩邸までついていくと言い出したが、沖田が神谷を門前で押しとどめた。
「言い出したら聞かないんだから」
沖田が苦笑いする。
「だって、心配なんですっ」
「大丈夫ですから。いってきます」
は手を振った。
は徳川葵の紋付きをひるがえし、振り返らずに道を進んだ。
頭の中にふと土方の影がちらつく。
まったく心配しているような雰囲気が見えない、鬼の後ろ姿だ。
土方は、神谷や沖田が見せてくれたような気遣いを一切見せない。
(当たり前だ)
は唇を引き結ぶ。
土方は新選組という大きな船の舵取り役だ。いちいち自分のような小物に気を回している場合ではないだろう。
(土方さんはお忙しいんだ。せめて土方さんの重荷にならないように、慎み深く、目立たずに動こう)
そう決めたの胸元を、青い葉の香りが通り過ぎていった。
昨日と同じ道を辿り、は薩摩藩邸二本松屋敷に入った。
今にも落ちてきそうな大きすぎる門の前には、昨日と同じように、厳しい顔つきの門番が立っていた。
「あの、会津藩の山口と申します。赤松小三郎先生にご用が」
「聞いている。入れ」
門番は渋い顔のまま、横にある潜り戸を顎で示す。
はそそくさと潜り戸を通った。
昨日案内された寺の前まで来ると、は四文銭を財布から取り出し、賽銭箱に放り込む。
手を合わせて、昨日はお参りをしなかったことを心の中で詫びた。
そして、ここで願い事をするのではないとわかっていながらも、
(どうか、翻訳がうまくいきますように…)
と願わずにいられなかった。
寺の中に入ると、今日は寺の小坊主がいた。
「赤松小三郎先生に、山口が来たとお伝え願いたいのですが」
「かしこまりました」
小坊主は笑顔で頭を下げると、たたっと早足で廊下の向こうに消えていく。
すぐに戻ってくると、を赤松の部屋に案内してくれた。
「おお、来たか」
赤松は嬉しそうにを迎え入れる。
「おはようございます、参りました」
は頭を下げた。
「昨日は肝心な話をせずにすまなんだな」
「あ、いいえ」
肝心な話とは翻訳のことだ。そう言われれば、昨日はずっと待たされた上に、訓練された兵士たちの様子を見ただけで帰ってしまったので、翻訳の話はしなかった。
の前に分厚い本が置かれた。深い赤の皮で覆われたそれは、黒地に金箔の題字がおしてある。
「"FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY"…?」
は題字をそのまま読んだ。
「ほう、なかなか美しい発音だな。これが“英国歩兵練法”の原本だ」
「開けてみてもいいでしょうか?」
断りを入れると、赤松はうむと頷く。
はずしりと重たい本を手に取り、皮の表紙をめくった。
目次からして、細かい文字が続いていた。
小さな活字が延々と続き、軍事用語と思われる単語があちこちにちりばめられている。
「で、こちらが翻訳したものだ」
今度は和綴じの本が数冊提示された。
が中を改めると、日本語で書かれた歩兵訓練法が、絵付きで載っていた。
原本ではまったくわからなかったことが、すいすいと頭に入ってくる。
「どう思う?」
赤松が腕を組む。
「素晴らしいと思います。これだけの厚さがある本を、よくここまでわかりやすくなさって…」
は感嘆の声を上げた。
「しかしだな、これには誤訳が多いと、後から気付いたのだ。そのために一度改訂版を出したのだが、まだ足りぬ」
赤松は顎をさする。
「拙者も横浜で英吉利人から英吉利語を学んだのだが、どうしても翻訳しきれぬところもあり悩んでおった。薩摩がこの本に目をつけ、薩摩の中でも英吉利語を身につけている者にも見てもらってしても、まだまだだ。そこへ大坂の薩摩藩邸から伊東殿を通じておぬしの紹介が来た」
「そうですか…」
伊東には大坂の薩摩藩邸との繋がりがある。は胸の奥にそれを書き留めた。
「原本を徹底的に洗い出し、今度こそ完璧な訳本を作りたいと拙者は考えている。頼むぞ、山口殿」
赤松は力強い口調で言う。
「はい、では早速」
は風呂敷を広げ、自分の道具を取り出した。
道具の中にはもちろん、ハーバーたちと作った辞書もある。
今は亡き師も、ともに学んだ仲間も、きっと見守ってくれているはずだとは思った。
「おぬし用の文机を借りてまいれ」
と赤松に言われ、は廊下へ出た。
先ほどの小坊主に言えば借りられるに違いないと思いながら廊下の角を曲がる。
すると小坊主が拭き掃除をしていたので、は文机をひとつ所望した。
すぐに小坊主は文机を用意し、に渡した。
思いの外、大きな文机だったので、は気をつけて廊下を進む。
しかし、角を曲がったところで人にぶつかってしまった。
「いてえ!」
ぶつかったのは、昨日に散々嫌みを言った田代五郎右衛門であった。
「す、すみません、よく前が見えなくて」
はよりによってまずい相手とぶつかったと思い、たらりと冷や汗を流す。
「ちっ」
舌打ちをしながら、田代はから文机を取り上げた。
「自分で持って行きますから」
は軽々と机を運ぶ田代の後を行く。
「またぶつけられてはかなわぬし、赤松先生からも伊東殿からも、おぬしの扱いは丁寧にと言われているからな」
ひょろいくせに、と田代は呟きながら歩く。
は、田代にますます邪魔そうな目で見られてしまい、溜息をつきながらこめかみに手をやった。
20110827