鬼が辻 3
、伊東、内海の三人は、案内された寺の一室で赤松小三郎を待った。
外は静かで、人の気配はない。
(まるで誰もいないみたい…)
そう思ったが、は伊東たちが黙って座っているので、何も言わずにいた。
ところが、どれだけ待っても赤松は現れない。
三人がこの部屋に通されてから、畳に落ちる障子の影は随分と角度を変えている。
は足がしびれてきたので、そっと身じろぎをした。
客人をもてなす茶の一杯も運ばれてこず、赤松に来訪が伝わったのかも定かではない。
は前に座る伊東と内海の背中へ目を遣る。
二人は正座を崩さず、最初の姿勢のまま、微動だにしていなかった。
暑くもなく寒くもなく、むしろ爽やかなのに、待たされすぎているせいだろうか、の背を嫌な汗が伝う。
(本当に…赤松さんって人は来るのかな…)
伊東に聞いてみたくても、伊東の背は声を掛けるのを拒否しているかのような空気を発している。
この後どのぐらい待たされるのだろうと思いながら、は足のしびれをごまかし続けた。
部屋の中が薄暗くなりかけた頃、外が急にがやがやと騒がしくなった。
土を踏むたくさんの足音や、人の話し声が聞こえてくる。
何があったのかとが顔を上げると、廊下を足早に踏みしめる音がしてきた。
「なぜもっと早くに知らせてくれなかったのだ! かなり待たせているではないか!」
「演習中でしたので、お知らせするのはどうかと判断いたしまして」
男たちの声が近づいてきた。
足音はたちのいる部屋の前で止まり、長く閉められたままだった障子が開いた。
「すまん宇田殿、いや伊東殿、お待たせいたした」
そう言いながら入ってきた男は断髪しており、短い髪を後ろへなでつけていた。
そして、着流しでも袴姿でもなく、軍服姿だった。
(えっ…この時代にこの京でこんな格好を…?)
はその男をつま先からてっぺんまでしげしげと眺めた。
この時代に来てから、京で普通に洋装を身につけているの見たのは、師匠のハーバーやイギリス外交官のアーネスト・サトウだけだ。
彼らは外国人だったから、その格好でも当然だった。
しかし目の前にいるのは生粋の日本人で、ハーバーのようなスーツ姿ではなく、軍服なのである。
「おぬし失礼だぞ、先生をじろじろ眺めおって!」
洋装の男の後ろに続いてきた人物が大声で怒鳴りつける。
「し、失礼いたしました」
はびくりと肩を震わせ、畳に手をついて頭を下げた。
「いくら軍服が珍しかろうと、そのような目で見るなど無粋にも程がある。これだから新選組などという無頼の輩は…」
怒鳴った男は聞こえよがしに呟く。
「そういった目で見られるのはいつものことだ、よいではないか」
軍服姿の男は笑い、たちの前に腰を下ろした。
「赤松先生、ご多忙なところお邪魔いたしまして申し訳ございません」
伊東が柔らかな口調で挨拶をした。の前に見える背の雰囲気も和らいだように見える。
「こちらこそ、朝から来ていただいていたのにもう夕刻だ。が…」
謝りながらも、赤松と呼ばれた男は解せぬ顔つきになった。
「確か拙者、今日は薩摩藩の演習場におるゆえ、そちらにお越し願いたいと返事を書いたはずだが」
「は…?」
伊東は眉を寄せ、内海に確認の視線を送る。内海はそんな手紙は届いていないと、横に軽く頭を振った。
すると、怒鳴った男がこほんと咳払いをして言った。
「内容が内容でございましたので、自分が処分させていただきました」
「…何だと?」
赤松が目をつり上げる。
「敵か味方かわからぬ相手に薩摩の手の内を見せるなど、到底出来ることではございません。ですから書状は自分が焼き捨てました」
「田代、貴様…よくも勝手な事を…!」
赤松は軍服の腰に手を伸ばすと、黒い塊を引き抜いて、田代と呼んだ男に突きつけた。
黒光りするそれは、短筒だった。
は自分の懐にも同じようなものがあるのを思い出し、着物の上から存在を確かめる。
「せ、先生…」
胸の真ん中に銃口をあてがわれ、田代は顔色を失う。
「よいか田代、拙者はこの日の本を守りたいと思うならば誰にでも兵法を教えよう。拙者が学んできた兵法を役立ててくれるなら、薩摩であろうと幕府であろうと、新選組だろうと構わぬ。この信条を邪魔するのであれば、いかなるものであろうと許さぬ。そういう約束で塾をたたみ、薩摩藩邸へ教授に来ているのを知らぬわけではなかろう」
細い体からは予想も出来ないほど強い眼光が田代を射す。
「今後再び拙者のすることに口出しいたすとあらば、薩摩藩邸への出入りは二度といたさぬ。よいな」
「はい…大変失礼をいたしました…」
赤松が銃をしまうと、田代は深々と頭を下げた。
「…という次第のようだ。伊東殿、堪忍してくだされ」
赤松は伊東に向き直った。
「いいえ、田代殿が慎重になられるのも無理はございません。我々はこれから信用を築いていくのですから」
伊東は笑みを浮かべて赤松と田代を交互に見た。
双方、気を取り直して自己紹介をすることにした。
「拙者は赤松小三郎と申す。信州上田の出で、報国の志止みがたく上田を飛び出し、こうして薩摩藩邸にて英吉利式の兵学を教えておる」
赤松はたち三人を見渡し、挨拶代わりに頷いた。
「こちらは田代五郎左衛門、薩摩の藩士で、拙者の弟子だ」
先ほどから怒鳴ったり青くなったりしている男は、赤松に紹介されても眉一つ動かそうとしない。
それどころかたちを鋭い目で睨み続けている。
「これ、田代」
赤松がたしなめるが、田代はただ睨むばかりであった。
「僕は宇田兵衛、もとい伊東甲子太郎です。田代殿、よろしくお願いします」
伊東は常と変わらぬ穏やかな口調で田代に挨拶をした。
(自分宛の手紙を棄てられたというのに…参謀はやはりすごいな…)
普段から土方に袖にされてもまったく意に介さないところを見ているは、それが他の相手にでも同じなのだと思うと、伊東の精神力の強靱さを認めざるを得ない。
「こちらが僕の腹心で内海次郎、そしてこちらが前にお話しいたしました、英吉利語に精通している山口です」
伊東が二人をそれぞれ紹介した。
「おお、そなたが翻訳を手伝ってくれる山口殿か! 待っていたぞ!」
赤松はぱしりと膝を打つ。
「薩摩の者たちもそこそこ翻訳は出来るのだが、まだ力が足りぬ。山口殿は英吉利人から直接言葉を教わっていたそうだな。おおいに頑張ってもらいたい」
「お役に立てるかはわかりませんが、力を尽くして働かせていただきます。よろしくお願いいたします」
は再び頭を下げた。
「…伊東殿、そいつが例のいけにえか」
不意に田代が口を利いた。
「え?」
いけにえとは何のことかと、は伊東を見やる。
「人聞きの悪い言い方はよしていただきたい」
伊東は扇子を懐から取り出してぱっと広げた。
「僕は赤松先生が翻訳のことでお困りだと聞いたので、お手伝いできる隊士を連れてきたまでのこと。よい翻訳書が出来て、薩摩と新選組の間にもよい絆が生まれれば、帝のおわします京の都をお守りするのに強力な仲間となり得ると思いますが?」
物言いは柔らかいが、最後の抑揚にちくりとするものがある。
田代もそれは感じ取ったようで、舌打ちをしながら横を向いた。
「せっかく来られたのだ。伊東殿、内海殿、山口殿、少し歩兵の動きを見ていかれよ」
赤松が立ち上がる。
「先生、もう日暮れです。兵たちも訓練で疲れておりますし、またの機会にされては」
田代も素早く移動し、障子の前に立ちはだかった。
「拙者の言うことを聞いておらなんだか、田代」
赤松は田代を押しのけて障子を開き、たちを外へと誘う。
田代はおおげさな溜息をついて、赤松の後に渋々ながら従った。
長屋に戻った藩士たちが数十人ほど呼び戻され、寺の境内に集められた。
「今日は北にある薩摩藩の演習場で訓練をしておってな。形がようやく定まってきたところだ」
が藩士たちに目を向けると、手拭いを首からかけ、汗を拭いているものが大勢いた。
朝からの訓練を終えてやっと藩邸に戻ってきた藩士たちは、疲れ切ったまなざしでたちを見る。
何でまた訓練をと面倒そうな目でを見た瞬間、藩士たちがざわめきだした。
「あの細っこいのが来ている羽織見ろよ、あの紋…」
「げっ、あれは…豚一公の…」
ざわめきはあっという間に藩士たちの間に広まった。
は今更ながら、自分が一橋慶喜から借りた着物を着ていることを思いだした。
夕日に照らされた羽織に、白く葵の御紋が浮かび上がっている。
全員の視線が自分に釘付けになっているのに気付き、恥ずかしい。
隣では田代が葵の御紋に目を見開いていた。
「ほう、これはこれは…部屋の中では薄暗くてよく見えなんだが…」
赤松も驚きを隠さない。
「この山口は、豚一公にも個人的にご用を仰せつかることがあるのでね。扱いには気をつけていただきたい」
伊東が田代に囁く。
「…はい」
田代は悔しそうに歯がみした。
「では参る。全員右へならえ!」
赤松が手を挙げると、藩士たちは四列に並んでぴしりと姿勢を整えた。
地面からは埃がゆらゆらと立ち上がるが、隊列は微塵も動かない。
「後列後ろへ、進め!」
赤松の言葉に従い、一番後ろの列が後ろを向き、ざっざっと足音を揃えて隊列を離れる。
「止まれ、隊列閉め、進め!」
離れた列は一度足を止めると再び元の場所に戻って隊に合流した。
銃砲の扱いも見事であった。
「肩へ、筒!」
と赤松が号令すれば、全員が肩へと銃をあずける。
「覆へ、筒!」
と号令が下れば即座に脇へ銃を抱え込む。
足並みは一分の狂いもなく揃い、全員が赤松の言葉一つで自在に隊列を変え、動く。
伊東も内海も、そしてもその精緻さにただ感心するばかりであった。
「ざっとこんなものだが、いかがかな」
赤松が藩士たちを整列させた。
「お見事としか言いようがございませんな。うちの組でもこうはなっておりません」
伊東は心底感心したように溜息をつく。
「烏合の衆と一緒にしてもらっては困る」
田代がふふんと侮蔑の笑いを漏らした。
(これだけの動きが出来る兵法の本を翻訳するの…?)
文法はわかる。単語もわかる。だがそれは一般的なものに関してだけだ。
軍事のような専門的な用語になったら、果たして訳しきれるのだろうか。
は胸が急に苦しくなってきた。
「赤松先生、うちの山口をお預けいたしますので、ぜひご活用ください」
伊東は興奮気味にの背を押し、赤松の前に差し出した。
考え込んでいたはよろけて足元を乱し、田代にぶつかった。
田代はとっさにの肩を掴む。
「も、申し訳ありません」
はすぐに体を離した。
「こんなひょろっこい体で何が出来ると言うのだ」
田代は汚らわしいものにでも触ったかのように、ぶんぶんと手を振る。
「翻訳のみならず兵法も学んで行くのなら、もっとがっしりせんとな」
赤松がの背をばんばんと叩いた。
自分をここに連れてきた伊東は、預ける気満々である。
赤松も翻訳を頼りにしているようだ。
田代は自分を邪魔そうな目で見ている。
前途多難な幕開けだと、は即答でこの話を受けてしまったことを反省した。
20110817