久遠の空 ドリーム小説 鬼が辻 2

鬼が辻

update:2011.08.05

鬼が辻 2 

 が西本願寺の集会所の階段を下りると、伊東甲子太郎と内海次郎がいた。
 年若い平隊士たち数人に囲まれて話をしている。

 「参謀、お出かけですか?」
 「ああ、ちょっとね」
 伊東は隊士たちに穏やかな笑みを向けていた。

 「伊東参謀、すみません、お待たせいたしました」
 は草鞋を履き、伊東に近づいた。
 「ああ、、おはよう」
 伊東がに視線を移す。
 「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
 は伊東と内海に頭を下げた。

 そこへ沖田と神谷がやって来た。
 「あれ、さん?」
 「沖田さん、神谷さん、おはようございます」
 「げ、伊東参謀」
 「清三郎、おはよう。朝から君の顔まで拝めるとは、今日はいい一日になりそうだ」
 引き気味の神谷に、伊東がにこやかに話しかけた。

 「伊東さん、そろそろ」
 内海がやれやれと溜息混じりに伊東の羽織を引っ張る。
 「お前はいつも僕のすることを途中で止めるんだな、内海」
 伊東は唇をとがらせてぶつぶつと文句を言った。

 「じゃあ行こうか、
 伊東がの肩に手を置く。
 「え、参謀“と”お出かけなんですか?」
 神谷が眉を寄せた。
 「え、ええ、行ってきます」
 は笑顔を作ったが、神谷の発音に戸惑う。
 「…どちらに行かれるんですか?」
 探るような神谷の目。
 は黙り込んだ。

 土方は伊東を毛嫌いしている。その伊東と、土方の小姓である自分がなぜ土方抜きで連れ立って出掛けるのか、神谷は疑っている。
 周りには別の隊士もちらほらといる。
 衆人環視の中、怪しい動きをしていると目されている薩摩の藩邸に出入りすると公表していいのだろうか。

 「そうですか、行ってらっしゃい」
 神谷を後ろからぎゅっと抱え、沖田が言った。
 「沖田先生、まださんとの話は終わってませんっ」
 神谷がまなじりをつり上げて沖田を振り返る。
 だが沖田はまるで早く行けとでも言わんばかりに手を振った。

 「行ってくるよ、清三郎、沖田君」
 伊東はにっこりと深い笑みをたたえると、と内海を促して歩き始める。
 「ごめんなさい神谷さん、また後で。行ってきます」
 も羽織の裾をひるがえし、その後に続いた。
 答えてもらえずむくれた顔の神谷と、爽やかな笑顔で手を振り続ける沖田、それに境内にいた隊士たちが三人を見送った。


 「伊東さん、ほっといていいんですか」
 内海が耳打ちする。
 「どこへ行くか聞かれただけじゃないか」
 伊東は余裕を持って笑う。
 「薩摩藩邸から戻ってきたら土方君たちには報告するんだ。そうなったら誰にばれようと構わないだろう?」
 「それはそうですが」
 内海は少しばかり後ろを振り返った。
 「心配性だなあ内海は」
 大きく溜息をつき、伊東は少し後ろを歩くに歩を合わせた。

 はまっすぐに前を向いて歩く。
 伊東が顔をのぞき込んできた。
 「喜んで引き受けた割には浮かない顔だね、
 「初めて薩摩藩邸に行くので…緊張しています」
 は顔色を変えずに答えた。
 「薩摩と言えば、あまたある藩の中でも雄藩と言われているからね。君が緊張するのも無理はない」
 伊東はの判断に目を細める。
 は短期間ながら、監察方や会津藩士たちに聞いて回った薩摩藩の情報を頭に思い浮かべた。

 薩摩藩は石高七十七万石、加賀藩に続く大藩であり、代々開明的な思想のある藩主が君臨している。
 特に八代目藩主の重豪は京や江戸、中国、阿蘭陀などの文化を積極的に取り入れ、藩校を設立し、時の将軍家斉に自分の娘を嫁がせるなど、剛腕を発揮した。
 偽金作りや奄美の島民からの収奪、琉球を通じての密貿易など、黒い噂もあったそうだ。

 その薫陶を受けたのが孫で十一代目の斉彬で、特に洋船建造には並々ならぬ意欲を見せ、初の国産蒸気船を幕府に献上している。
 また、養女の篤姫を十三代将軍家定に嫁がせ、一橋慶喜を将軍に押そうとしたが失敗したという面もあった。
 現在は斉彬の実弟・久光が十二代目藩主の父として実権を握っているが、久光は蘭学よりも国学に通じ、斉彬が育てた開明派の下級藩士たちとの間で意見の相違があるとも聞いた。
 藩の上層部とそれ以外のところで齟齬が生じているのは、長州と似ている。

 (今の薩摩藩邸の中では…きっと開明派の藩士たちが多いんだろうな…)
 そうでなければ、自分がこれから翻訳を手伝う人物が薩摩藩邸に呼ばれるはずがない。
 は唇を引き結んだ。

 「? ぼんやりしながら歩くと危ないよ?」
 伊東がの目の前で手を上下させる。
 「あ、すみません、考え事をしていて」
 はふと我に返った。
 「心配かい? 僕でよかったら話を聞こう」
 伊東はに体を寄せる。
 「えっと…では…翻訳の手伝いをさせていただく方は、どんな方なんですか? 参謀はお会いしたんですよね」
 抱かれた肩に目を遣りながらは聞いた。
 「ああ、赤松先生のことか」
 頷いて伊東は話し始めた。

 「赤松小三郎先生は信州上田藩のご出身で、今は三十六歳でいらっしゃる。十八で江戸に出て数学や天文、蘭学を学んで、二十三で再び江戸に出て西洋砲術などの勉強をなさったり、勝安房守様に従って長崎へ赴いて海軍伝習所で航海術を修得したりと、かなりの秀才だ」
 立て板に水のごとく伊東がしゃべる。
 「赤松家を相続されてからしばらく上田で洋式調練を行っていたんだけど、江戸勤務のおりに横浜まで出向いて英吉利の士官から英吉利語を学び、『英国歩兵練法』という本を翻訳している」
 「『英国歩兵練法』…」
 「君に頼みたいのがその本の再翻訳だと聞いているよ。どういった内容なのかは詳しく教えてもらっていないけどね」
 「そうですか…」
 はまだ見ぬ赤松を想像した。
 軍事本の翻訳者で、若い頃から様々な知識や技術を吸収した秀才。
 (怖い人なのかな…)
 とは空を見上げる。
 自分が普段傍にいる土方の顔が思い浮かんだ。
 (土方さんより怖い人はそういないか)
 余計なことを考えた自分に、はぷっと吹き出す。
 「…大丈夫かい?」
 伊東の手がまたの前を上下した。



 西本願寺を出て堀川通を北に向かっていくと、左手に二条城が見えてきた。
 門の前には番人らしい武士が立っているが、時折あくびをしていたりと締まりがない。
 (もしあれが屯所の門番だったら、すぐ土方さんに怒られるな)
 は通りすがりに横目で見て思った。
 新選組の屯所の門番は常に二人で門前を守っている。微動だにすることなく、まるで人形のように直立不動である。
 鬼の住処である以上、西本願寺への参詣客の目に触れる門番がだらしないのは許されない。土方からそう言い渡されているのだ。
 以前、少し足を崩した門番が土方に見とがめられ、その場で蹴り倒されたのをは思い出し、背筋を震わせた。


 たちは堀川通と丸太町通が交差する辻で右に曲がり、御所の角を曲がってさらに北上する。
 御所の角で伊東と内海が立ち止まり、深々と一礼した。もそれにならった。

 公家達の邸宅が建ち並び、西本願寺周辺とは雰囲気が全く異なる。静かで、息を潜めねばならぬような、そんな空気が漂う。
 御所の塀が切れたところで三人が角を曲がると、そこが薩摩屋敷二本松屋敷だった。

 塀の板は黒く光り、御所ほどでないが奥まで長く続いている。
 「えっ…」
 は門の前に立ち屋根を見上げると、その重々しさに言葉を失った。
 黒谷の金戒光明寺も、守護職邸も門は大きい。だがこの門は屋根が大きく張り出していて、今にものしかかってきそうである。

 門番たちがこちらを見て、手にしていた槍をがっと交差させた。まるで番犬のようにこちらを睨みつけている。
 (ま、まだ何も言ってないのに…)
 はその視線に押されて一歩下がった。

 「私は宇田兵衛、赤松小三郎先生とお約束している者です。お取り次ぎ願えませんでしょうか」
 伊東が門番の前に進み出る。
 (偽名…)
 は伊東の名乗った名を心に刻みつけた。
 門番は槍を固く握り、ぼそぼそと話し合う。そして門にある小さな潜り戸を開け、中から顔だけ出した男に何かを伝えた。

 待っている間も門番はこちらを射殺すような目で睨みつけている。
 伊東は門番の前から一歩も動かない。
 は心配になって内海に目で聞く。
 内海は伊東に任せろとばかりに軽く頷いて返した。



 ややあって、潜り戸から男が出てきた。門番たちに声をかけると、槍の交差が解かれた。
 「入れ」
 と門番の一人が言うと、低く重たい音を立てて門が開いた。

 伊東を先頭にして、たちは門の中に足を踏み入れる。
 上京している藩士たちの寝床になっているのだろう、長屋が並んでいる。その先に寺があった。

 三人はその寺の一室に案内された。
 「ここで待っているように」
 と案内をした男は短く言い、ばしんと音を立てて障子を閉めていった。

 「先生には今日訪問する旨を書状でお伝えしてある。待とう」
 伊東は衣服の皺を伸ばし、居住まいを正した。
 内海も伊東の後ろで同じように身なりを整える。
 も襟元や裾を気にして座り直した。


 静まりかえった室内で、三人は人を待ち続けた。



 20110804