鬼が辻 1
西本願寺を照らす爽やかな朝日の元、若き緑の葉が地面に影を作る。
は一橋慶喜からもらった上等な着物に身を包んでいた。
背を伸ばして正座をし、静かに目を閉じている。
これからは、薩摩藩邸二本松屋敷を訪問するのだ。
英吉利式調練の先生の元で洋式軍学を修め、兵学翻訳の手伝いをする。新選組の中では、ならでのは任務だ。
一方、薩摩藩邸の様子も探ってくるという極秘任務のほうは、いささか不安を抱える案件である。
幕府四賢候の一角と謳われる薩摩藩は、最近、外国と密貿易をして利益を蓄えているとか、討幕派の長州と繋がっているとかの黒い噂が絶えない。
そんな場所へ幕府寄りの組織である新選組の一員が出入りするのは危険きわまりない。火を見るより明らかである。
しかし伊東が持ってきたこの案件を、は一も二もなく引き受けた。
理由は簡単だ、土方の役に立ちたいからである。
伊東の行動は時が経つにつれ怪しさを増している。その伊東の指示で動けば、こちらにいては見えざる伊東の行動が見えてくるに違いないとは考えた。
新選組にあって、副長の小姓でありながら、戦の戦陣に立つ事は出来ない。
こんな任務の時ぐらいしか隊士らしい事が出来ないのだ。
「本当に行くのか」
土方は腕を組んでを見据える。
「はい」
は目をそっと開いた。
土方は何度もを説得しようと試みた。
が男なら何が何でも行かせる任務である。
うまくいけば最先端の軍学を新選組に導入することが出来るし、薩摩藩の内情も探ることが出来る。
薩摩の情報を会津藩に渡して恩を売ることだって可能かもしれないのだ。
だが、は女だ。
もし女だとばれでもしたら、何をされるか。
男だけのはずの新選組に女がいて、それを敵方の薩摩に覚られてしまったら。
が薩摩の男達にどんな目に合わされるか、土方はしたくもない想像をしてしまう。
当の本人はそんなことをおくびにも出さずに言う。
「組の中で、行ける条件が整っているのは私だけです。それに、もう肥後守様にまで話がついているのなら、断ることは出来ないでしょう」
は伊東が話を持ってきた時のことを思い出した。
伊東が近藤とともに守護職邸に行ったあの日。
伊東はこう説明した。
「僕は広島へもう二度ほど行かせてもらっている。西国の人たちは幕府がいつ攻撃してくるかとぴりぴりしていた。そこで僕は出来る限り温厚な態度で彼らと接し、まず話を聞くことから始めたんだ」
伊東が話し上手なのはも知っている。江戸行きの際に長い道のりを退屈せず過ごせたのは、馬上で伊東があれこれと話をしてくれたおかげでもあるからだ。
そして話し上手は聞き上手とも言う。伊東ほどの話し上手なら、相づちをうちながら相手から話をうまく引き出すことも巧いのだろう。
「だんだんと人を紹介してもらえるようになってね。遂には薩摩藩の人物とも接触できるようになった」
「薩摩と?」
土方の目がつり上がる。
「俺もさっき、肥後守様の御前で初めて聞いたが、お見事な手腕ですな、伊東参謀」
近藤は満足そうに頷く。
は伊東の言葉に耳を傾け、一言も聞き漏らすまいとしていた。
伊東は続ける。
「そして広島から大坂に至った時、大坂の薩摩藩邸に立ち寄って、三日ほど過ごしてきた。留守居役殿と話をして、薩摩が今何を考えているのかなどを聞き出そうと思ったのだけれど、今は幕府の動きを見るだけで精一杯だと繰り返されるだけだったよ」
「そりゃそうだろ。薩摩は表向きはまだ幕府になびいている。堂々と“怪しい動きしてます”なんて言うか」
土方が言い放った。
「そこでだ」
伊東が扇を懐から出し、ぱしりと音を立てて開いた。
「薩摩藩も洋式軍学を取り入れていると聞き、僕は新選組も洋式軍学の訓練をしていることを話してみた。薩摩藩ほどの大藩なら、さぞかしよろしい訓練をされているのでしょうと持ち上げたら、今、京の薩摩藩邸に洋式軍学の先生をお招きしていると得意そうに教えてくれたんだ」
くすりと伊東が笑う。
(誉め上手は参謀の得意なところだ…彼の講義についていく隊士たちも多いし…)
は腹の底でごちた。
「京に戻ってからその先生のことを調べさせてみたら、何と私塾を開いていらっしゃって、誰にでも洋式軍学を教えてくれるとのことじゃないか。今は薩摩藩邸に招聘されていてほとんどそちらにいるそうだ。だから大坂の留守居役殿に書状を出して、ぜひ新選組の隊士も学ばせていただきたいと頼んだんだ」
伊東は扇子を平たく倒し、その上で書をしたためるまねをする。
(いつそんなことを調べたんだろう? 参謀の配下にも優秀な人材がいるんだな…)
は伊東寄りの隊士の顔を思い浮かべ、誰がそんなことをしそうか考えてみる。内海次郎か新井忠雄あたりだろう。
「よくそれで相手が納得したな」
新選組は肥後守の預かりである。つまり幕府寄りの組織である。これから反目するかも知れない組織の人間の出入りを、よくも許可したものだと土方は鼻を鳴らす。
「もちろん最初は断られた。でも僕は諦めなかった。先生に直接頼みに行ったんだよ」
伊東がに目を遣る。
「うちの組にこういった経緯で英吉利語が得意な人物がいると言ったら、ぜひとも来てもらいたいと逆に頼まれてね。薩摩藩側も先生に君ほどの人材を提供できていなかったから、諾と言うしかなかったのさ」
「…肥後守様はすでにご承知なのですね」
がおもむろに口を開いた。
「君は会津藩士だからね、肥後守様の許可を得ておかないといけないと思ったから、先にお話させてもらったよ」
伊東が扇子を立てる。
「肥後守様は、明日にでも君に守護職邸に来て欲しいとおっしゃっていた。君にひと声おかけしたいそうだ」
近藤が言う。
「かしこまりました、明日一番でおうかがいします」
は頷いた。
「君なら喜んで引き受けてくれると思っていた。そして成果を上げてきてくれることも信じている。頼んだよ」
伊東がの両肩に手を置き、ぐっと掴んだ。
伊東の微笑みには考えを巡らせる。
本当に新選組のため、幕府のために自分を潜り込ませようとしているのか。
それとも、薩摩に取り入ろうとして、翻訳能力のある自分を送り込もうとしているのか。
西国を訪れた伊東が、誰と何を話したのかが見えない。敵を欺くには味方からと言うが、伊東にとってどちらが敵で、どちらが味方なのだろう。
伊東が本当に新選組を裏切ろうとしているのか。
それを確かめるしかない。
土方によけいな手を煩わせないよう、犠牲は最小限にせねばならない。
自分がそう考えた以上、自分で行くのが当然だ。
は伊東の懐に潜り込むことに決めたのであった。
は松平容保と面会し、激励の言葉をもらった。
そして一橋慶喜にも面会を申し込み、薩摩屋敷へ通うことを報告した。
慶喜は第二次長州征伐の準備で忙しい中、たまたま京へ戻ってきていた。
「へえ、面白いことするじゃねえか」
世を忍ぶ仮の姿、浮之助の顔でにやにやと慶喜公は笑う。
「だが」
急にその笑いを引っ込め、慶喜はに詰め寄った。
「相手は薩摩だ。藩邸はもともと治外法権だが、薩摩ってとこは国元では滅多なことじゃ余所もんに薩摩の土を踏ませることはしない。それを忘れるな」
薩摩は余所ものには厳しいと、目の中に影を潜ませて慶喜がつぶやく。
「はい」
は同じ影を目に宿した。
「ま、もちろん何かあったら俺の名前を出せばいいからな。それと、前に俺がやった着物あったろ、あれ着ていきな。葵の紋は伊達じゃねえぜ」
慶喜はとんとの胸元を押すと、座を離れた。
は深呼吸をひとつする。
清い空気が体中に行き渡っていく。
ゆっくりと立ち上がると袴がさらりと音を立て、細い縞目がまっすぐに伸びる。
「行ってきます」
風呂敷包みを手にし、は副長室を静かに出ていった。
その背を土方は黙って見つめていた。
2011727