久遠の空 ドリーム小説 暗雲 11 後編

暗雲

update:2011.06.24

暗雲 11 後編

 その家は伊東の妾宅だった。中から、物が飛んで壊れる音と土方の叫び声が聞こえてくる。
 沖田が先に、がその後ろにつき、庭に回り込んだ。

 庭先から見えた光景は。
 土方が刀を抜き、今にも伊東に斬りかかろうとしているではないか。

 伊東が、近藤だけでなく、とうとう土方にも害をなそうとしたのか。
 「動くな!」
 は懐から素早く短筒を抜き、伊東の眉間にぴたりと照準を合わせた。

 「堪忍してくださいっ。副長はこう見えて案外ウブなんですっ!!」
 同時に、伊東の後ろから神谷が現れ、伊東に跳び蹴りを食らわす。
 「神谷さんそっちじゃありません!」
 沖田も剣を抜き、土方の前に回り込むと、銀の軌道を受け止めた。

 修羅場だった。
 障子は折れ曲がり、豪華な食事は膳ごとひっくり返り、酒が畳を濡らしていた。
 「こいつが悪いんだぜ」
 土方は沖田に制止され、やっと冷静になって剣を収めた。
 土方は、広島での近藤暗殺未遂の件で、腸がずっと煮えくり返っていた。だが明確な証拠はない。伊東を斬る理由がない。
 しかし伊東は土方に近づいてきた。近藤を大名にしてみせると豪語して。近藤の人望、土方の統率力、そして自分の知略があればそれは可能だと、甘く囁いた。
 もちろんそれを土方がのむわけがない。いや、むしろ汚らわしいとすら思っている。ついに切れた土方は、伊東を斬り殺す寸前までーーー法度で禁じられている私闘を行ってしまうところだったのだ。

 神谷と沖田の介入でそれは未遂に終わった。
 神谷は土方をおびき寄せるため、伊東の側近である内海にさらわれてきたのだった。
 近藤を守りたいという共通の目的の元、三人の絆は固まったのであった。

 「あれ?」
 逃げるように伊東の妾宅から出てきた沖田は、きょろきょろと辺りを見回す。
 「どうかしましたか沖田先生?」
 神谷が聞く。
 「…さんがいない。どこに行ったのかな」
 「も来てるのか?」
 土方が眉を吊り上げる。
 「ええ、参謀の妾宅へ一緒に入ったはずなんですが…」
 「何だと?」
 沖田の言葉に土方は振り返り、元来た道を全速力で戻った。

 「、まさか君まで来ているとは思わなかったよ」
 庭の隅で横たわるを、伊東が見つけて抱き起こす。
 「…参謀」
 は痛みに顔を歪めながらも伊東を睨みつける。
 「土方さんに、何を…っ」
 「おや、随分今日は情熱的な目で見つめてくれるじゃないか」
 ふっと伊東は笑みを浮かべた。
 「僕は別に土方君に何もしていないよ。局長を大名にするという目的は同じはずなのに、ちょっと警戒されすぎなんだ」
 「…本当ですか」
 は強い視線のまま伊東に問う。
 伊東は緩やかな笑みを浮かべたまま、首を縦にも横にも振らなかった。

 「! いるんだろう、出てこい!」
 土方の声が庭に近づいてくる。
 「おっと、お迎えが来たようだ」
 伊東はを抱えるようにして支えて立たせた。
 「君とはまたいずれゆっくり話し合いたい。君だけにしか出来ない仕事を用意しているところなんだ。ぜひ引き受けて欲しい」
 「“組のため、土方さんのため”ですか?」
 伊東が自分に何かをやらせるための口説き文句だ。の目が暗く光る。
 「わかっているじゃないか。けれど今度はさらに」
 伊東は笑みを深くすると、の耳にそっと唇を寄せる。
 「日本国のためでもある」

 庭に土方が入ってきた。
 「、てめえいつまでちんたらしてやがんだ」
 「土方さん」
 はひょこひょこと足を引きながら土方に近づいていく。
 「君の小姓はお返しするよ。実にいい人材だから惜しいのだけれど」
 伊東は笑顔を土方に向ける。
 「俺だけでなく、こいつにも余計な手出しは無用に願いたい」
 土方はを腕の中に抱え込むと伊東を射殺さんばかりの目で睨んだ。
 「優秀な人材を育てたいというのは当然の心持ちだと思わないかい、土方君」
 「余計なことだ」
 笑みを湛える伊東に背を向け、土方はを引きずるようにして伊東の妾宅から出て行った。


 痛む足をかばいながらは歩き、土方の歩みから少しずつ遅れ始めた。
 土方は足を止め、の前にしゃがんだ。背中に乗れということらしい。
 だがは躊躇して立ち尽くす。

 「ったく」
 土方は大きなため息をつくと、を往来の物陰に引っ張り込んだ。
 「何勝手に誤解してやがんだ」
 上から降ってくる声に、は肩を震わせる。脳裏に土方と神谷が重なっている場面が映し出された。
 「…別に、誤解なんて」
 「じゃあその態度は何なんだ」
 土方の声が強まる。

 誤解なんて、してない。
 さっき沖田が証明してくれたのだから。
 ただの嫉妬だ。
 時を越えてきた身の上で分不相応に、こんなにも土方に心を寄せるなんてあってはならないのに。
 誤解も解けているのに、醜くも、妬いている。
 こんな気持ちのまま、土方の背に負ぶわれるなんて出来なかった。

 の体がぐらりと傾く。
 次の瞬間、は土方の腕にすっぽりと包まれていた。
 「土方さん?」
 苦しくなく、かと言って逃げられるほどでもないちからで、は土方に抱き締められる。

 土方の指がの後ろ頭を梳く。
 きっと土方は自分の心を宥めようとしてくれているのだろう。それが彼特有の、いわゆる無自覚のタラシの技だとしても、落ち着く。
 柔らかな指の動きに、は目を細めた。

 その指がの耳のそばの髪をかき上げて。
 土方が耳朶をそっと噛んだ。

 「っ、何するんですか」
 は土方の腕の中でかくりと膝を落とした。
 「何って、噛んだ」
 しれっと土方が答える。
 「そうじゃなくて、何てことするんですかって意味です」
 「わからなきゃもう一度してやってもいいが」
 「だから、そうじゃなくて」
 「うるせえな」

 押し問答の果てに、土方はを横抱きにした。
 「ひえっ」
 思わずは土方の首にしがみつく。
 「最初からそうやっておとなしくしてりゃいいんだ。本当にお前は人様の好意を無碍にしやがる」
 土方はやれやれと大げさに息を吐いた。

 「降ろしてください、一人で歩けます」
 「ああ、治ったらな」
 「大丈夫ですから、降ろしてください」
 「何度も言わせるな、治ったらっつってんだろ」
 「だから、歩けますってば」
 屯所までの長くはない道のりで、二人は同じことを何度も言い合った。




 数日後、近藤は新選組が見回っている区域の状況を報告しに京都守護職邸へ赴いた。それには伊東もついていった。
 二人は夕方に屯所へ戻ってきて、夕餉の前に土方とを呼び出した。
 土方だけなら守護職邸であった話の報告があるからともかく、自分まで呼び出されるとは何だろうと思いながら、は土方の斜め後ろに座った。

 「君、君を呼び出したのは他でもない。重要な任務を頼みたい」
 近藤が緊張の面もちでを見る。
 「伊東参謀」
 「はい」
 近藤に促され、伊東が襟を正す。

 「今、どの藩も洋式の軍備を整えているのは君も知っているだろう」
 「はい」
 伊東の言葉には頷く。御預である新選組も、会津藩から役人が派遣されて、洋式調練を行っている。

 「実は今、この京の薩摩藩邸に、英吉利式調練の大家が招聘されているんだ。調練とともに、兵学の本の翻訳を手伝ってくれる人物を求めているらしい」
 「え…」

 の手に、じわじわと汗がわいてくる。
 まさか。
 伊東が妾宅で自分に引き受けてほしいと言っていた仕事の中身は、これのことだったのか。

 「ついては君に、薩摩藩邸二本松屋敷に出入りし、洋式軍学を修め、翻訳の一端も担ってほしい。肥後守様にはもう話をとりつけてある」
 伊東はそこまで言うと目の奥を鈍く光らせた。

 「さらには、ここのところ長州との黒い噂が絶えない薩摩の内情も、さりげなく調べてきてほしいんだ。やってくれるね?」

 「何だと…!」
 土方は目を見張る。
 男なら、これほどやりがいのある仕事は喜んで引き受けるだろう。
 女子であるを敵陣のど真ん中へつっこませるわけにはいかない。
 土方はを見た。

 はまっすぐに伊東を見つめる。
 これがあの時言っていた、組のため土方のため、そして日本国のための仕事なのだろうか。
 伊東はまるでの心の内を見透かしているように、大きく頷いた。

 細い手が畳の上に置かれる。
 「喜んで、お引き受けいたします」
 は深々と頭を下げた。







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