暗雲 11 前編
障子の中では、土方が神谷に覆い被さっていた。
二人ともはっとしたようにを見上げる。
「おじゃ、ま、しま、し、た」
は静かに障子を閉めた。
そしてその次の瞬間、だっと勢いよく駆けだした。
門番の隊士の制止の声も聞かず、は屯所を飛び出す。
息が切れ、肺が焼け付くように熱くなっても。
髪が風に吹かれてめちゃくちゃになっても。
はただ、走り続けた。
「あっ!」
は足下の石につまずき転んだ。
何とか立ち上がろうとするが、ずきりと右の足首に鋭い痛みが走る。
「いった…」
は痛みを感じる場所に手をやる。そっとさすって、足首を回してみようとする。
足首が痛みで曲がらない。つまずいた拍子にひねってしまったようだ。
いつから。
いつから土方さんと神谷さんは、そういう間柄だったのだろう。
全く気づかなかった。
いや、自分がいなかった時間などいくらでもあった。
今日もそうだ。
まめに動き、勘も優れ、表には出さなくても女子らしいかわいらしさがにじみ出ている神谷さん。
隊内で誰にでも、幹部にもかわいがられている神谷さんが、気難しい土方さんにも気に入られたとしても不思議じゃない。
もしかして土方さんは、神谷さんが女子だと知っていたのだろうか。
いや、もし知っていたなら、沖田さんが私にあんな気迫で神谷さんが女子であることを黙っていて欲しいと脅すはずがない。
ということは、今さっき、何らかの形で知ったのだろうか。
そうでなければ、衆道を嫌っている土方さんが、男だと思ったまま神谷さんにあんなことをするとは思えない。
神谷さんなら。
隊務にも通じ、小回りも利く。機転も利く。
そして何より、この時代に生きる女子である。
副長である土方さんの相手として…
「いった…」
足首の痛みがどんどん強まってきて、は顔をしかめる。
痛いのは足首だけなのか。
考えたくない。
別のことを考えようとして、は辺りを見回した。
とっくに日が落ちて暗い。
ここがどこなのか判別する景色が何も見えない。
かろうじて少し遠くに家らしき明かりが見える。
どこまで走ってきてしまったのか。
どうでもいい。
痛みから逃れたいのか見てしまった衝撃を忘れたいのか、の思考はゆっくりと停止してきて。
瞼が降りた。
「……さん、さん!」
ぺしぺしと頬が叩かれる感触に、は目を開けた。
背中に手が当てられ、は半身を起こされている。
「ああよかった、気づいて」
「…沖田さん?」
沖田の声だった。沖田は提灯を掲げての顔を覗き込む。
「道端に誰か倒れてると思ったらさんなんですもの、びっくりしましたよ。大丈夫ですか?」
「え、ええ、はい…ありがとうございます」
は地面に手をついて自分で座った。眠っていたのか気を失っていたのか、あのまま倒れ伏していたらしい。
「立てますか?」
沖田がの腕を引っ張る。
「あ、あの、痛っ…!」
はつられて立とうとしたが、足首が痛すぎて立ち上がることができない。
「すみません、捻ったみたいで…」
「そうですか…屯所まで送っていってあげたいのは山々なんですが、今ちょっとそれどころじゃなくて」
沖田が片膝をついて声を低める。
「それどころじゃないって…何かあったんですか?」
は沖田の声に尋常でない響きを感じ取り、身を乗り出した。
「神谷さんが屯所からいなくなってしまったんです。それに、土方さんも」
「…っ」
沖田の簡潔な説明に、の胸は足首同様ずきりと痛む。
あの二人が一緒に屯所から消えたなんて。
もう、何もかもが確定ではないか。
の顔からは血の気が失せ、代わりに目に透明なものが浮かんでくる。
「さん? 二人が消えたことについて…何かご存じなんですか?」
懸命に涙をこらえるを見て、沖田の目が険しくなった。
は何度も瞬きをしながら、答えようとしてふいに口を噤む。
男だということを黙ってこの新選組に置き、自分で神谷を守ろうとしている沖田が、もし神谷のことを好いているならば。
(土方さんと神谷さんのことを話して…いいのだろうか…)
唇を噛み、は下を向いた。
迷うの肩を沖田がぐっと掴む。
「神谷さんが誰かと屯所の前で話した後にいなくなって探してるんです。土方さんも“ご存じ”の方から書状が届いて消えてしまいました。何かいやな予感がするんです。何でもいい、知っているなら教えてください」
「え…?」
二人が別々にいなくなったと聞き、は顔を上げる。
「話してください」
沖田が顔を近づけ、目を合わせた。
「嫌だなあ、それは誤解ですよ」
が見たままを沖田に話すと、沖田はくすくすと笑いだした。
「土方さんはね、さんが出かけたから、帰ってくるまでのつもりで神谷さんを側に置いていたんです。土方さんが神谷さんをあるもので脅してたんで、それを取り合っているうちに喧嘩になっちゃって。ただ単にその最中だったんですよ」
「…そうなんですか?」
「そうですよ。さんにならいいかな、ほら、これがそれなんです」
沖田が懐から布に包まれたものを取り出す。提灯で照らしてみると、中にはガラス板に写された写真があった。
「あ、これ…山南さんのお墓にあった…」
思わずは呟いた。山南の墓参りに行った時、墓の横の土が掘られていたのに気づいて改めてみたら埋められていた、あの写真だった。
「さんも知ってたんですか」
参ったなあと沖田は頭をかく。
「土方さんと争っているうちにこれが割れて、神谷さんは直そうと思ったはずです。それで屯所の外へ出て、何者かと連れ立って行ったのを門番の隊士に目撃されています。でもどこにもいない」
「何者かと…」
は顎に手を添え、神谷が誰と行動しそうか考えた。
斎藤は会津藩の用事で屯所にいない。永倉と原田は巡察に出ている。井上と藤堂は近藤の他出についていって不在だ。
他にも一緒に行きそうな人間はいくらでもいる。しかし、神谷が誰にも黙ってこんな夜に外出するだろうか?
(…だとしたら)
出かけたくない相手と仕方なく一緒という考えもある。
だからこそ沖田に何も言わず、沖田が探してもどこにもいないのかもしれない。
土方もまた、“ご存じ”から呼び出されていなくなった。それが誰なのかはわからない。
花街の妓が男を呼び出す際によく使うのが、“ご存じより”という差出人だ。
(もし本当に馴染みの妓からの手紙なら、土方さんは誰かに行き先を告げて出ていくはず。なのに沖田さんに同行を希望していたということは…)
会いたくない相手と、どうしても会わねばならない状況になってしまったということなのではないか。
カチカチとの中で情報が組み上がっていく。
「沖田さん、参謀は屯所にいらっしゃいましたか? もしかして土方さんは」
とが考えついた結論を口にしようとした瞬間。
叫び声が夜の静寂を打ち破った。
「神谷ーーーーっ!! どこかにいるなら出て来ーーーーいっ!!」
「あの声は」
「ええ」
と沖田は顔を見合わせる。土方の声だ。
少し先の、ぼんやりと家の明かりが光る辺りから聞こえてくる。
二人は同時に駆け出した。
20110623