久遠の空 ドリーム小説 暗雲 10

暗雲

update:2011.06.17

暗雲 10 

 近藤たちが帰京する。
 その知らせを受け、西本願寺の一角は喜びと安堵に包まれた。
 局長が戻ってくれば、先の河合に下されたような罰は降りない。可能な限り穏便に済ませてくれるはずだと、一日も早い局長の戻りを皆が待っていた。

 そしてここにも局長の戻りを心待ちにする者たちがいた。
 「部屋の掃除は済んでるだろうな? おいそこ、活けてある花の下に葉が落っこちてるぞ!」
 西本願寺の南、醒ヶ井に設けた近藤の妾宅。幹部は妾宅を持つことが許されているが、屯所から至近であることが条件であり、局長の近藤とて例外ではない。土方はにわか仕立ての室内をくまなく見回り、不手際がないか細かく目を光らせている。

 落籍の話が付いた深雪太夫は、近藤が戻るのに合わせて京都へ呼ぶことになっていた。近藤から帰京の連絡が入ったので、昨日から神谷が深雪を迎えに大坂へ行っている。
 そろそろ妾宅につく頃なので、土方はと沖田をつれて妾宅へ入り、深雪が来るのを待っているのだ。

 「はいはいっと…これでいいですかねさん」
 沖田は土方が指摘した葉を取り除く。
 「いいと思います」
 は生け花の周りを見直し、他に落ちているものがないかを確認した。

 この妾宅は部屋数こそ多くないが、欄間には細かい彫刻が施され、障子の組子もところどころに気の利いた意匠が垣間見える。まるで大事なものをしまっておくための、ちょっと贅沢な小箱のようだとは思った。

 そして障子の向こうに広がる庭に目をやる。
 やや狭めの庭は枯れ山水に仕立てられ、白い敷石が太陽の光を柔らかく反射している。もう今年の花は散ってしまったが、梅の木も植えられていた。印象は地味だが手入れが行き届いていた。

 「土方さん、どちらへ?」
 ひとりでどこかへ行こうとした土方を、沖田が呼び止める。
 「厠だ」
 土方は廊下の奥にある扉の向こうへ消えた。

 (深雪太夫さんか…どんな人なんだろう)
 は部屋の隅に座り、これから来る近藤の妾に思いを馳せた。
 「きれいな方ですよ、とても」
 隣に沖田が腰を下ろす。
 「え?」
 「深雪太夫のことを考えていたんでしょう?」
 「ええ、よくわかりましたね」
 「そりゃあ気になるでしょう、近藤先生の大事な方ですもの」
 は沖田の洞察力に驚いたが、沖田は静かに笑って返すだけだ。

 「あ」
 外から人の声と物音がし、それを聞いた沖田が立ち上がって玄関へ向かう。も沖田に続いた。

 が玄関から外にでると、駕籠が止まっている。駕籠の垂れの前に神谷がいた。
 「神谷さん、お疲れさまです」
 は神谷に歩み寄る。
 「さんも来て下さったんですね! お疲れ様です!」
 神谷が大坂への往復の疲れも見せずに、元気よく挨拶をした。

 「さ、深雪太夫」
 神谷が声をかけると、上げられた垂れの奥から、静かに、ゆったりとした動作で、その女が道に影を落とした。

 (うわあ…本当に…きれい…)
 は輿の奥から出てきた深雪の姿に目を見開いた。
 着物は日の当たり方によっては白にも薄い金にも見える生地に色とりどりの花が咲き、若々しい葉が一面にのびている。京では見たことのない柄だった。
 それを何の違和感もなく着こなしている。着物の美しさは黒く艶めく髪と相まって深雪の白い肌を際だたせ、優雅な身のこなしにぴたりと沿い、醸し出す雰囲気の添え物でしかなかった。

 (さん、さんってば)
 ぼんやりと深雪を眺めるを、神谷が肘でつつく。
 (ほら、深雪太夫にご挨拶して)
 (あ、はい)
 深雪は沖田に挨拶を済ませ、が声をかけるのを待っていた。
 「ご挨拶が遅れまして。新選組副長付き小姓を勤めさせていただいております、山口と申します。以後お見知りおきを」
 は頭を下げる。
 「深雪と申します。こちらこそ、以後どうぞよろしくお願いいたします」
 深雪は深い笑みを見せながら、ゆっくりと、まるで美しい人形のように頭を垂れる。動いた深雪から甘い香の香りが漂ってきた。

 これが、この時代の太夫という誰もが憧れる女性が町に降りてきた姿なのだろうか。
 見目形といい、動作といい、とても今の自分と同じ女だとは思えないとはため息をつく。

 (ね、きれいな方でしょう)
 沖田が小声で問うと、はこくこくと頷いた。
 今や泣く子も黙る新選組の長の妾として、これ以上ふさわしい女性はいないのではないか。にはそう思えてきた。

 神谷を先頭として皆が邸内に入ると、ちょうど土方が手を洗っているところだった。
 す、と深雪が土方に手ぬぐいを差し出す。
 「深雪と…申します。以後よろしくお願いいたします」
 たちにしたのと同じように、深雪は柔らかくたおやかな挨拶をした。
 土方は手ぬぐいを受け取らず、何も言わず深雪をじっと見つめた。

 (土方さん…?)
 はどうしたのだろうと土方の様子をうかがう。
 (まさか、もしかして)
 どきりとの心臓が音を立てる。
 これだけ美しく、素早い気遣いもできる深雪である。局長の妾だからまさかとは思うが、土方も深雪に心を奪われてしまったのではないか。
 は平静を装いながら、袖の中でそっと拳を握りしめた。

 「副長の土方です」
 ややあって、土方は口を開いた。近藤のために大坂からやってきた深雪にねぎらいの言葉をかけ、一両日中にも戻って来るであろう近藤を労ってほしいと頼んだ。
 土方の声はいつも通りで、しかももう帰ろうと廊下を歩き出している。は杞憂であったかと、深雪に軽く頭を下げて自分も土方の後に続こうとした。

 しかし、土方は不意に足を止め、肩越しに深雪を振り返った。
 「あなたはこの上もなく美しいが、その髪型だけは頂けませんな」
 それだけ付け足し、土方は妾宅を出て行った。

 “この上なく美しい”
 はその言葉に、縫い止められたように動けなくなってしまった。

 (やっぱり土方さんも、深雪さんを見てそう思ったんだ…)
 女性に関しては伊達に修行を積んじゃいないと自負する土方が、思わず言葉にしてしまうほどの、美人。
 男装している自分には、もちろん自分が美人でないことはわかっているが、一度もかけてくれたことのない言葉。
 完璧な見た目に、太夫まで上り詰めたぐらいだからおそらく教養も高いだろう、何一つ自分に敵うことなどない。

 そこまで考えては頭を振る。
 そもそも自分が土方に恋をしていること自体許されないと言うのに、嫉妬するなんて。

 …こんなにも、心焦がすなんて。

 はやっと妾宅の外へ出たが、だんだんと歩みが遅くなり、他の三人から遅れ始めた。

 「さん? どうしたんですか、大丈夫ですか?」
 神谷が駆け寄る。
 「ええ、すみません、大丈夫です」
 は神谷に笑顔を向けるが、自分でもひきつっているのがわかった。
 「少し休んで行ったほうがいいんじゃないですか? 深雪太夫に一室お借りして」
 神谷はの肩に手をかけて後ろを振り返る。
 「いいえ、本当に大丈夫です」
 またあの美しい笑顔を見なくてはならないのかと思うとはいたたまれなくなり、神谷の手を振りきるようにして自分でしっかりと立った。

 先を歩く土方と沖田に遅れまいと、は早足で歩く。
 「さん、深雪太夫と近藤局長が初めて会った時の話ってまだしてなかったですよね? 谷先生が大坂で厳しくしてて、局長が下坂して事を収めたのって覚えてます?」
 神谷はを元気づけようと、深雪と近藤の出会いや、大坂における新選組の定宿である京屋に頼んで落籍の仲立ちをしてもらった話などを次々と繰り出した。
 は神谷の気持ちには感謝したが、何も頭に入らなかった。


 ところが、近藤を妾宅に案内したきり、土方は深雪のいる妾宅を訪れる気配が一向になかった。それどころか、土方は神谷を毎夜近藤の妾宅に泊まり込ませ、様子をうかがっているのである。

 そうこうしているうちに近藤は、深雪の妹で大坂で太夫をしているお孝も身請けしたいと言い出した。土方はしぶしぶながら了承し、妾宅に迎えることになった。

 さらにその話は進展する。 
 ある日、深雪がお孝を連れて屯所へやってきた。
 (深雪さん? 具合悪いんじゃなかったっけ…?)
 は神谷から、深雪の体調が悪くなり、妾宅から知人の療養所へ移ったと聞いていた。だが今局長室へ向かってくる深雪の足取りはしっかりとしている。

 「、しばらく近藤さんをこっちへ来させるな。近藤さん、話は俺がつける。あんたは出てくるなよ」
 土方はの腕を掴み、局長室へ押し込んだ。
 近藤は真摯な表情でひとり座っている。
 はその雰囲気に何も聞けず、近藤と隣室への襖の間に座った。

 副長室に深雪とお孝が通された。
 深雪が近藤に、自分を裏切った首代と大切な妹を差し出す代金として二百両寄越すよう、土方に迫っている。

 (二百両?)
 は目を丸くする。太夫を身請けするのにいくらかかるのかは知らないが、相当な金額だったに違いない。
 (遊郭という籠から姉妹揃って請け出してもらって、さらにお金を要求するなんて…深雪さん、何を考えているんだろう…)
 は近藤を見る。
 「全て私が悪いんだ」
 近藤はそう言うと力強く頷き、の前を通って副長室への襖を開いた。

 近藤は深雪に二百両を払い、深雪は近藤との縁を切った。一月にも満たぬ、短い短い蜜月であった。
 「かっちゃんがいいって言うんならそれでいいだろ」
 と土方はなかばヤケである。
 「そんなことより、あの女狐に払ったカネをどう補うかが問題だ。ぼったくりやがって」
 がりがりと土方が頭をかく。
 「女狐って…言い過ぎなんじゃないですか?」
 は顔を曇らせる。
 「あ?」
 土方が眉を寄せた。
 (美人だって言ってたじゃないですか…照れ隠しですか?)
 言葉には出さず、は土方から目をそらせる。

 「馬鹿かてめえ」
 土方はにいざり寄ると、ぴしりと額をはたいた。
 「いった」
 「かっちゃんにあんな思いをさせて、大金までむしりとって行ったんだ。女狐ぐらいじゃ本当はあきたらねえっつんだよ。化粧が濃いのも上方風吹かせてるみてえだし」 
 「え…」

 それは、もしかして。
 深雪のことは、何とも思っていなかったどころか、近藤のためを思っていろいろ我慢していたのか。美しいと誉めたのも、近藤の妾だからだったのか。

 「何にやけてんだ、気持ち悪い」
 土方が目をすがめる。
 は両手で顔を探ってみた。知らず頬が緩んでいたようだった。



 深雪が消えるのと入れ替わるように、今度は伊東が広島から戻ってきた。伊東は近藤と別行動をとっていて、帰りも一足遅くなっていた。
 「お疲れ様でした、伊東参謀。ご無事で何よりです」
 近藤は局長室へ挨拶に来た伊東を見てほっとしたようだった。
 「ええ、意外と話せばわかってくれる方が多かったので」
 伊東も茶に口を付け、くつろいだ様子だった。
 伊東が回ってきた西国は幕府への視線が厳しい。そのことは、直接現地を見てきた本人同士にしかわからないのだろう。

 「ただいま土方く…」
 「では俺はこれで。、お前も来い」
 話しかける伊東を無視して土方は立ち上がる。
 ついてくるよう言われたも土方の後に続いた。
 土方は伊東と二ヶ月ほど顔を合わせていなかったが、その間に伊東に対する苦手意識は全く払拭されていないようだ。

 「
 「はい」
 部屋の障子を閉めたは土方の声に振り返る。
 不意にの目の前が陰り、暖かい感触がを包み込んだ。
 (えっ…ちょっと…土方さん?)
 立ったまま抱き締められ、はうろたえる。
 (でけえ声出すな)
 土方が耳元で囁き、息を押し殺した。
 
 しばらくすると、土方は身を離した。
 は抱き締められた部分をそっとさする。
 (何、今の…)
 何でこんなことをされたのかわからず、はただ目をぱちくりとさせた。


 次の日の夜も、土方の腕はにのびてきた。
 風呂から上がり髪を拭くの後ろから、土方が覆い被さってきたのだ。
 「…」
 低い声が耳に流し込まれる。
 「土方さん、あの…どういうおつもり」
 なんですかと聞こうとした瞬間、の体は床に倒された。

 (ちょっと土方さん、何ですか昨日から)
 は小声で抗議する。
 (障子の影を見ろ)
 土方は至極冷静に言う。
 が視線だけを動かしてそちらを見ると、障子にぼんやりと人の影が映っていた。
 (あれは…伊東参謀?)
 影の形から察するに、障子の外に伊東がいる。

 (俺と伊東を二人きりにするな。お前はしばらく英吉利語の勉強と木屋町での医術の勉強を休め)
 (え?)
 (わかったな)
 土方は早口で伝えると、をぐっと腕の中へ抱え込んだ。

 「俺には、お前が必要なんだ」

 (…まさか、しばらくこれ続くんですか?)
 は深く息を吐く。
 「黙れ。俺を拒むな」
 土方がの喉元に顔を埋めた。
 
 はちらりと障子に目を向ける。
 伊東らしき影はまだそこにあった。

 土方が自分をどう使ってもらおうと構わない。
 けれども、こういった“使い方”は勘弁して欲しい。
 早く伊東がそこから消えてくれることを願いながら、はもう一度心の底から深い深いため息を吐いた。


 土方の接近はしばらくの間、夜毎に続けられた。
 その度には自分の心が膨らんでいくのを必死で押さえることになった。

 しかしある日、松本良順が大坂へ出向く用事があり、南部から午前中だけでいいから手伝って欲しいとの連絡が入った。
 「午後すぐに戻りますから」
 この日の昼間は、局長室に近藤も神谷もいた。短い時間ならいいだろうと土方の了承も得て、は木屋町の南部の家へ向かい、治療を手伝った。

 それが思ったよりも長引いた。
 引きも切らない患者の行列を見て帰るに帰れず、ずるずると手伝いをしてしまったのである。
 は暗くなってしまった道を走りに走って屯所へ戻った。

 「土方さんごめんなさい、遅くなりました」
 は挨拶もそこそこに、副長室の障子を開く。

 行灯の明かりに照らされて。
 の目に飛び込んできたのは。


 土方と神谷が、重なり合っている姿だった。







 20110616