暗雲 9
「これでよし、と」
守護職邸の奥、英吉利語の勉強のために設けられた一室。は勉強の道具を片づけると、暮れてゆく陽の当たる障子を閉めて部屋を出た。
講師であるハーバーが亡くなって約半年。教えてくれる者がいなくなり、京の情勢も穏やかならぬとあらば、生徒である藩士たちも自然と足が遠のく。
もまたその一人であった。
他の生徒のように警護に回ったりはしないが、会津御典医である南部と幕府の法眼である松本に医術を教わったり、新選組で土方の手伝い、つまり本来の小姓としての仕事が増えたりしている。
そして何より、金戒光明寺から守護職邸へ場を移動したとしても、英吉利語の勉強をしていれば、ハーバーがもういないという事実を嫌でも思い出してしまう。師がいなくなった今、が勉強に使っているのは、ハーバーが自国から取り寄せてくれた教本の数々なのだ。
もう何度いなくなってしまった師を偲んだだろう。
の懐にはいつもハーバー形見の金時計が入れてある。服の上からそっと手を当て、ハーバーの魂に祈りを捧げた。
「君!」
長い廊下の隅で佇んでいたに声をかける者がいた。
黒い紋付きを着た近藤が向こうからやってきた。頬が紅潮し、早足というよりも駆け足気味である。
「君、聞いてくれ!」
近藤はがしっとの両肩を掴む。
「は、はい」
は近藤の勢いに何を言われるのかと身構える。
「俺は再び広島へ行くことになったぞ!」
瞳に炎をたぎらせ、近藤は言い放った。
近藤とが急ぎ足で屯所に戻ると、副長室には土方と伊東がいた。
「トシ! おお、伊東参謀もいらしたか。聞いてくれ!」
入室許可の声がけもなく、部屋の障子が勢いよく開かれる。土方がはっとしたように顔を上げた。
「また広島だと?」
近藤が土方に広島行きを告げると、土方は秀麗な眉を寄せて訝った。
「ああ、先だっての広島行きでの働きが評価されたとのことで、肥後守様直々にご下命をいただいたんだ」
近藤は守護職邸に呼ばれ、会津松平肥後守より直々に、次回の長州訊問使とともに西へ行くよう言い渡されたのだ。
「長州に食い下がったのは局長だけでしたからね、幕府も局長の胆力をおおいに買われたのでしょう」
土方の部屋にいた伊東が手を合わせて喜ぶ。そして、
「僕もご一緒させていただいて学ぶことが多くありました。次の西下にもぜひ同行させていただけないでしょうか」
と申し出た。
「ぜひお願いしようと思っていたところでした!」
近藤は身を乗り出す。
「却下だ!」
土方は烈火のごとく怒って反対する。
怒鳴り声には身をすくませた。
土方が反対するのも無理はない。伊東はこの前の広島行きの際、金で長州の浪士を雇って近藤を襲わせたのだから。
はそれを自分に告げた時の土方の顔を思い出す。あんなに悔しさと無力感を滲ませた表情の土方など見たことがなかった。
眉をつり上げる土方の正面に伊東が立った。襟を正し、伊東は整然と告げる。
「近藤局長は僕が必ずお守りする」
その目つきが常と違い、光る真剣のような雰囲気を放つ。
土方は気圧され、部屋を出て行ってしまった。
「おい、トシ?」
どすどすと大きな足音を立てる土方の後を追い、近藤も副長室から消えた。
部屋には伊東とだけが残された。
「どうしたんだろうね土方君は。僕も一応、江戸では一道場主だったんだから、もっと信用してくれてもいいのに」
伊東が扇子を広げながら言う。
「そうだ、も一緒に行かないか? 江戸に行った時のように楽しく行けると思うよ」
「え、あの…私は何もお役に立てませんので。それにまた体調を崩すとご迷惑をかけますし。今度は幕府の正式な御使者と一緒なのに、そうなったら局長に申し訳ないですから」
は言葉を選んで断る。
「ふふ、君のそういう謙虚なところが好きだよ。お土産を持ってきてあげるから、いい子で待っててくれたまえ」
伊東はの髪をさらりと撫で、副長室を出ていった。
参謀が副長の部屋を訪れる。それは仕事の面から見ればごく自然なことだ。
しかし土方の場合、伊東を徹底的に寄せ付けないようにしているのをは知っている。
何か話し合わねばならない時には、局長である近藤を交えての鼎談、あるいは他の幹部を集めての話し合いとしている。伊東だけを呼んだり、伊東の元を土方が単独で訪れることなどまずない。
伊東が土方の元へやってくるのはよくあるが、たいてい土方はすぐに叩き出しているし、さりげなく(あるいは露骨に)近藤を呼んだり、自分がそばにいたりなので、土方と伊東が二人きりで話している場面は滅多に目にしないのだ。
(局長と私が部屋に入って来た時、土方さんは少し動揺していた…)
あの、はっとした土方の顔。
(すぐいつもの冷静な表情に戻っていたけど…伊東参謀と何を話していたんだろう…)
土方の態度には伊東による何らかの影響があるに違いない。は目を細め、皆が出ていった障子の敷居を見つめた。
二月四日、近藤は伊東をはじめ数人の隊士とともに、長州処置の全権である老中・小笠原長行らについて広島へと旅立った。
連れだってゆく隊士の面々は前回とほとんど変わりがなかったが、ただ一人、武田観柳斎が、伊東の腹心である新井忠雄と入れ替わった。
これはもちろん伊東の押しである。伊東を信用しきっている近藤は一も二もなく了承した。しかし降ろされた当の本人はかなり機嫌を悪くし、広島出張組の見送りにも顔を出さなかった。
朝焼けの中を静かに歩いていく近藤の背中。それを見送る土方の顔は晴れやかなものではない。は土方の横で手を振りながら、ゆうべのことを思い出した。
ゆうべ、土方は広島に同行する山崎を副長室に呼び、
「いいな、命に代えても局長を死なせるな」
と低く言った。
「もちろんです。副長の代わりと言っては口幅ったいかもしれませんが、必ずお守りいたします」
山崎も承知し、畳にすりつけんばかりに頭を下げて誓った。
山崎が出ていった後も、土方はなかなか布団に入らなかった。行灯に火も入れず、文机に頬杖をついていた。は眠った振りをしながら、いつ土方が横になるのか待っていたが、が眠りに落ちるまで土方は動かなかった。
近藤が広島に行ってしまうと、隊内は緊張の度合いが高まった。
「まただな…」
「そうだな…気をつけねえとなあ…」
隊士たちが顔色を悪くする。
局長である近藤が不在とあらば、隊の頭は土方が代行することになる。
そしてそんな時には決まって、落ち度のあった隊士たちに厳しい処分がーーー悪くすれば切腹がーーー下されるのである。
今回こそは誰も処断されずにいてほしいと誰もが願ったが、その願いはむなしく裏切られることとなる。
数日が経ち、広島に到着した近藤から文が届いた。
一行は無事に着き、長州藩との面会を重ねているところだと書いてあるのみだった。
しかし同時に届いた山崎からの密書には少し異なることが書かれていた。
全権使一行はすぐに長州藩の重役を呼び出し、削封十万石、藩主父子は隠居と蟄居などの処分を伝えようとした。
しかし重役たちは病気と称して欠席し、出てきたのは前回と同じ面々で、またも言葉巧みに交わされるだけであったそうだ。
「妾宅の準備、ですか」
神谷と二人、局長室で夕餉をとっていたは箸を止めた。
は近藤がいない間、一時的に近藤の手伝いをしている神谷と食事をすることにしているのだ。
「そうなんですよ」
神谷がぱくぱくと煮物を口に運びながら頷いた。
「局長からの手紙が届いて、その時副長に暇なら勘定方の手伝いでもしてこいって怒られたんですけど、あ、どうでもいいか、局長が大坂で一目惚れした太夫を身請けしてあげるんだそうですよ」
「手紙が来て…?」
どこか神谷の話が飛んでいるような気がして、は首を傾げる。
「神谷さん、それはちょっとはしょりすぎじゃあないですか?」
からりと障子を開き、沖田が膳を持って入ってきた。
「ご一緒してもいいですか?」
「いいですかって、そんなもの持ってご一緒する気まんまんじゃないですか沖田先生」
「まあまあ神谷さん。こちらへどうぞ、沖田さん」
「ありがとうございます」
沖田は、向かい合わせになっていると神谷の間に膳を据えて座った。
「今日、広島から近藤先生のお手紙が届いたんです。元気だと書かれていたんですけど、山崎さんからの密書では長州がなかなか折れないらしくって」
ぽりぽりと沖田が漬け物をかじる。
「だから近藤先生はきっと今までにないほど気疲れなさっているんじゃないか、ゆっくり休んでいただくためには妾宅を用意したらいいんじゃないかって土方さんが」
「へえ…」
は神谷と沖田の話を合わせて考えてみる。
広島で疲れ果てて帰ってくるであろう近藤に妾を迎え、妾宅を用意しておく。そういうことなのだろう。
「だから明日、私が大坂に行って深雪太夫を落籍する算段を整えてくるんですけど、そんなに局長が大事なら副長が自分で行けばいいのに」
神谷は使い走りにされるのを厭い、勢いよく茶を啜った。
「そんな、誰でもいいって任務じゃないですよ? 相手は人気の太夫なんです。必ず落籍を約束してこられる人じゃなきゃいけないんですから」
ね、と沖田は神谷にほほえみかける。
「そうですか?」
神谷がぱっと笑顔に変わる。
「もちろん…っと」
沖田は、神谷の手元がお留守になった隙を狙い、神谷の膳から小豆の煮物をさらった。
「あーっ沖田先生! とっておいたのに!」
神谷が悔しさのあまり涙目になる。取った当の本人は、素知らぬ顔でもぐもぐと、小豆の甘さを堪能している。
「神谷さん、よかったら私のを…」
が小豆の小鉢を差し出す。
「いーです! それはさんのなんだからっ」
神谷は小鉢を押し戻した。
「あ、じゃあ私がもらいましょう」
横から沖田がひょいと箸をのばす。
「沖田先生、いい加減にしてくださいっ」
神谷の拳骨が飛んだ。
「ごちそうさまでした、いたた」
頭のてっぺんを押さえ、沖田がつぶやいた。
「まったく、沖田先生は…」
神谷が膳を重ねて立ち上がる。
「あ、神谷さん、自分のは自分で片づけますよ」
が腰を浮かせた。
「いいですよ、これぐらい」
三人分の膳を持ち、神谷は一人で台所へ片付けに行ってしまった。
神谷の足音が遠のいていく。
(さん、あの、神谷さんのこと黙っていてくれてありがとうございます)
沖田が側に寄り、ひそりとに耳打ちする。
(近藤先生のお側で仕事をしていても、女子だとは感づかれていないようで…)
(そうですか)
それは神谷の努力のたまものだと思い、はにこりと笑った。
そこへ、副長室から続く襖が開かれた。
「おい、メシ食い終わったんなら茶…」
土方が顔を出した。
しかし次の瞬間、と沖田が肩を寄せて仲良さそうにしているのを見て固まった。
「はい、お茶ですね。すぐお持ちします」
はすっと立ち上がり、台所へ向かった。
は茶を入れ、土方の元へと持っていった。
「お待たせしました」
ことりと文机の上に茶が置かれる。
だが土方は返事をせず、書状に目を通していた。
最近、土方とは本当に最低限の会話しかしていない。神谷のことを秘密として抱えてからだとは思う。
互いに口数は多くないし、仕事のことはしゃべるので、不自由はしていない。
(でも…ちょっと寂しい…かも)
は白い息を闇の中に吐く土方の背を眺める。
だが自分の視線を一向に気にしていないようだ。は布団を敷き、支度を整えて風呂に入りに行った。
神谷は大坂に向かい、深雪太夫落籍の話を取り付けた。
しかしここで悲劇が起こる。
落籍金を用意できなかった勘定方組頭の河合耆三郎が切腹になってしまったのだ。
実は今までも一両二両と、隊の公金が消える事件が起きていた。実家が金持ちの河合はそれを、誰にも内緒にして自腹で補填していた。
しかし今回は五十両という大金、しかもよりによって局長の妾を落籍する金を用意せねばならないその日にそれが発覚してしまったのだから、隊の名折れであった。
神谷や沖田の口添えで切腹までの期間が延ばされたが、補填を頼んだ河合の実家から金は届かず、河合は切腹となった。
後日、五十両の公金を盗んだ犯人が処断された。
河合と同じ勘定方の小川信太郎だった。小川は馴染みの妓に貢いでおり、今まで少しずつ消えていた金も、小川の仕業だと判明した。
こうした犠牲の上に、近藤の妾は京へやってくることになった。
それは同時に近藤の、そして伊東の帰京を意味するものでもあった。
20110609