久遠の空 ドリーム小説 暗雲 8

暗雲

update:2011.06.03

暗雲 8 

 「では一番隊と三番隊、巡察に出かけます」
 局長室で沖田と斎藤が立ち上がる。
 「うむ、頼んだぞ総司、斎藤君」
 近藤が腕組みをして沖田を見やった。
 「頑張ってくださいね!」
 怪我が治りきっておらず、完治するまで局長付きになった神谷が笑顔で手を振る。
 「あなたは頑張りすぎないでくださいよ、また傷が開いたら困るでしょう」
 沖田は苦笑いを返した。
 「私は大丈夫です! いつでも巡察に戻れます!」
 神谷が拳を固める。
 「うるせえ、さっさと行け!」
 近藤の隣で土方が怒号を飛ばした。
 「はいはい。じゃあ行ってきます」
 おどけたように肩をすくめながら沖田が障子を開く。
 「ご無事のお戻りを」
 は土方の後ろで頭を下げた。
 斎藤は終始無言を貫き、ただ小さく頷くだけであった。

 「ここのところ、どうも不穏なんですよねえ…」
 神谷が肩を落とす。
 まだ正月で賑わっている京には、正体の掴めない黒い影が見え隠れしているのである。
 その大元が長州、薩摩、そして土佐の坂本龍馬であることは、まだ誰も知らない。

 隊に復帰したものの傷の癒えない神谷が局長付きになり、伊東が薩摩の大久保利道と会見した二日後、一月四日に木戸貫治(桂小五郎)が大坂に入った。そして八日には淀川をさかのぼって伏見に到着、西郷隆盛ら薩摩の出迎えを受ける。この時、木戸と西郷は初めて対面した。

 木戸がわざわざ三田尻から京都まで出てきた理由はただひとつ。
 薩長同盟の締結である。

 それにともない薩摩や長州の志士たちが京師に集まってくる。いくら秘密裏に動いていても、不穏なざわめきは隠せない。
 新選組は昼夜の見回りを一層厳しくし、監察方も影で動いていたのだが、かかるのは雑魚ばかりという日が続いた。

 「局長、私も監察に加えていただけないでしょうか? 剣を振るうのはお許しいただけなくても、何かを探したり尾行したりならお役に立てると思います!」
 神谷は拳を堅く握る。
 「馬鹿野郎、何のために近藤さんがお前を局長付きにしてくれたと思ってやがんだ。余計なこたあしねえで、少しはおとなしくしてやがれ」
 土方が神谷を睨みつけた。
 「はは、神谷君、気持ちだけありがたく受け取っておくよ。今日は書類の整理を頼みたいのだが、やってくれるかな?」
 近藤が神谷に籐で編んだ籠を渡す。中には紙がどっさりと入っていた。
 神谷は土方の言葉に尖らせた口を緩め、書類の中身を改めはじめた。

 土方とは局長室を出る。
 副長室に戻って、土方は文机の前に陣取り、は出かける支度を調えた。
 「行って参ります」
 が土方の背中に声をかける。
 土方は思考の淵に入り込んだらしく、何かを書き付けながら短く返事をするだけだった。


 守護職邸に向かうは、それとなく辺りを見渡しながら歩く。
 人の流れはいつもと何も変わらない。店先には品物が並び、店主と客が買う買わないの駆け引きを繰り広げている。その足下には小さな子どもがおり、鼻の頭を赤くしながら、長い待ち時間にじれ始めそうな様子を見せている。

 道の途中で、こんな会話が耳に入ってきた。
 「今、新選組のご用改めがあったってほんまなん?」
 「ほんまほんま。言葉はやーらかかったけど、怖かったわあ」
 「確かに新選組らしい集団が歩いてると、目つきの悪いもんはどっか行きよるけどな」
 「新選組も怖いけど、最近柄の悪い連中が増えてきたような気いするわ」

 は女たちが話していたような、目つきの悪い者が顔を出していないか視線を横に散らす。
 店を区切る細い路地に目を向けてもごみが風にもてあそばれて転がり出てくるだけだ。
 暗い物陰は、不穏といえば不穏に感じられるし、そうでないと思えば普通に見える。
 はっきりしないのが気持ち悪く感じられ、は襟巻きを引き上げて息をはいた。



 新選組はいつもの巡察に加え、伏見奉行所からの要請で市中の探索までも行っている。どの隊も休みなくかり出され、隊内は常に緊張をはらんでいた。
 そんな中、伏見奉行所から新選組に新たな出動要請が下った。
 「坂本龍馬が伏見に?」
 近藤からその男の名を聞いた神谷は、驚きで棒立ちとなる。さらに土方が報告書から読み上げた内容で、顔色を失った。

 前回、伏見奉行所は、坂本龍馬を人斬りの下手人として追うよう指示してきた。しかし今度はまた別の件で捕らえるよう命令してきたのである。
 坂本龍馬は武器商人であり、犬猿であるはずの薩摩と長州の仲を取り持っているふしがあると言うのだ。

 (坂本龍馬が…武器商人…薩摩と長州の仲って…)
 は記憶の底を浚い、歴史の授業で学んだ坂本龍馬の業績を思い出す。坂本は日本で初めての会社を設立し、薩摩と長州を結びつける役割を果たしたと、教科書に書かれていたはずだ。

 (まさかこれが薩長同盟…?)
 の目が大きく見開かれる。
 このまま薩摩と長州が結びつけられてしまったら、遠からず徳川幕府は終焉を迎えることになる。薩摩と長州を中心とした軍が仕立てられ、徳川幕府は滅んでしまうはずだ。

 「この後夕刻まで局長室は幹部会議になるから終わるまで暇をつぶしてくるんだ! いいな!」
 土方の大声が神谷を廊下へ追い出した。その声では我に返る。伏見で坂本と対面している神谷は、坂本を説得するため自分を伏見に派遣してくれるよう局長に食い下がっていたが、蔵の整理を言いつけられて追い出されてしまった。
 「、てめえもボヤボヤしてんじゃねえ、会議の内容を書き留めろ!」
 「は、はい」
 は土方の声に弾かれたように立ち上がり、急いで筆と紙を用意して文机の前に腰を下ろした。

 巡察に出ている隊以外の幹部が局長室に集まってきて、幹部会議が始まった。
 土方が中心となり、伏見奉行所からの要請や坂本に関する情報を説明する。また、幹部たちからは町の様子や情報を聞き、いつどこに探索の隊を派遣し、坂本や他の浪士たちをあぶり出すかが話し合われた。

 「今、一番隊だけを伏見に派遣しているようだが、隊を追加しないのかい?」
 伊東が土方につつと寄りながら意見する。
 「参謀にしては上出来な意見ですな。ですが巡察との兼ね合いで、急遽出動出来たのが一番隊だけだとはご存じないようで」
 近づいてくる伊東を腕で制して土方が言い放った。


 会議が終わり、土方は厠へ行った。
 は発言を書き留めた紙を確認し、書き留めきれなかった部分を思い出しながら追記する。
 そこへ近藤がこそりと耳打ちしてきた。

 (君、最近トシの様子がおかしくないか?)
 (あ…はい…)
 は筆を置いて畳に目を落とす。
 (トシはもともと言うことが的を射すぎているから厳しく聞こえるかもしれないが、それにしても、何というか…)
 (はい…)
 近藤が眉を寄せて、副長室との境になっている襖を見る。
 はどう答えていいものやら、思案に暮れた。

 土方は伊東を嫌っている。その伊東に自分は何かと話しかけられている。それを知った土方がいい気分でないことは百も承知だ。
 だが、たったそれだけのことで土方がとげとげしい空気を発するわけがない。
 きっと何かがあるはずだ。自分の知らないところで。
 近藤もそう感じているからこそ、こうして自分に話してきているに違いない。
 だが、土方との付き合いがもっとも長い近藤にすらわからないことを、どうして自分がわかるだろうか。
 には近藤へ答える言葉が見当たらない。

 (いつも言うけど、君、トシのことは頼むよ)
 (え?)
 (あいつは目的のためには手段を講じない時があって、それをひとりで抱え込もうとする。トシの考える手段に間違いはないんだが、目的を達する途中で潜む危険を、ひとりで受けようとすることがあるんだ)
 近藤は襖から目を離さない。その目は局長という組織の頂点に立つ雰囲気は消え、友を思う優しい目に変わっている。
 (そんな時にひとりで傷ついて立ち尽くしていたら、そっと後ろから抱き締めてやってくれないか?)
 (え…?)
 近藤の言っていることが抽象的すぎるように聞こえ、はきょとんとした。
 (あ、すまん、妙なことを言って。トシは衆道を毛嫌いしているから、そんなことをしたら君が怒られてしまうか)
 ふっと近藤は笑い、顎をさすりながら厠に行った。

 紙の上の墨が乾くのを待ちながら、は近藤に言われたことを何度も思い返す。
 (土方さんは、そんなことで私を必要となどしていない…)
 土方は何でも自分で解決してしまう。それに傷ついた男を慰めるのは、女の役目だ。自分は土方にとってそういう存在ではない。時を超えてきた荷物を寡黙に預かっている、ただそれだけなのだ。

 自分がそんな土方の役に立てることと言ったらーーー
 先ほどまで近藤が座っていた席の隣には、土方がいた。
 さらにその隣にいたのは…。
 の目がそろりと動き、その一点でぴたりと止まった。




 西の空を、赤とも青ともつかぬ色が焼き、西本願寺の大きな門が閉じられようとする頃。
 駕籠がひとつ、屯所に入ってきた。
 「きょ、局長! 副長! 大変です!」
 駕籠にのせられた人物を見た隊士が局長室に駆け込んでくる。
 「どうしたんだ?」
 「何事だ」
 近藤は腕を組んだまま、土方はがまとめた会議録から目を離さずに聞く。
 「神谷が…神谷が伏見にいて、一番隊の探索先である寺田屋で沖田組長に殴られて…護送されてきました!」
 「え?」
 「何だと?」
 近藤と土方は同時に顔を上げた。

 大声で報告された内容は副長室で本を読んでいたにも聞こえた。
 何が起こったのかと廊下に踏み出ると、一番隊の相田がやってきた。
 「局長、副長、失礼します」
 相田は局長室に入るなり、事の経過を話し始めた。

 一番隊は伏見奉行所の要請を受けて、伏見にある船宿・寺田屋の改めに赴いた。坂本龍馬が逗留しているとの噂があるのでそれを確認し、いたら捕縛せよとのことだった。
 ところが寺田屋に坂本はいなかった。
 いたのは、掃除を言いつけられた蔵から出てきた僧衣をまとった神谷だった。
 宿の裏から逃げようとした神谷を見つけたのは沖田であった。沖田は見るなり神谷を殴りつけ、神谷は失神する。
 相田は沖田に言われ、神谷を駕籠に乗せた。そして神谷を屯所まで連行してきたのだった。

 伏見には坂本がいると言われ、その坂本と面識のある神谷が該当の宿にいた。しかも神谷は坂本を説得しようとさえしていた。
 坂本に肩入れした神谷が、新選組の改めを密告し、坂本を逃がそうとしたのではないか。
 そう思われてもおかしくない状況だった。

 神谷は沖田が伏見から戻るまで、蔵籠めにされることになった。
 近藤と土方は、沖田から話を聞くまではと神谷を話題にすることはしなかった。
 (まさか神谷さんが…)
 は根も葉もない噂に心を沈ませる。
 流れているのはあくまでも噂だ。本人から直接聞かねば真相は得られない。
 は神谷が籠められている蔵に向かおうと、そっと布団を抜け出して厠に行く振りをしようとした。

 が障子に手を掛けた時、すっとそこに隙間が出来、細い目が覗いてきた。
 「さ…斎藤さん?」
 「副長、お話が」
 には答えず、斎藤は室内に入る。
 土方は身を起こして羽織を肩に掛けた。

 「先ほど、蔵に坂本の情婦が訪ねて参りました」
 斎藤の声が、たんたんと事実を告げた。
 「え?」
 坂本の情婦、つまり女が神谷を訪ねてきたということは、やはり神谷と坂本側に何かしらの繋がりがあるのだろうか。は胸元をかき合わせ、白い息を漂わせる。
 一方、土方は微動だにせず斎藤の報告の続きを待った。

 「情婦は器用なようで、蔵の鍵を開けて神谷を連れ出そうとしました。しかし神谷は、新選組を裏切るわけにはいかないと、はっきり断って情婦を追い返していました」

 「じゃ…じゃあ、神谷さんは…」
 「ああ」
 張り詰めた空気が斎藤の言葉で溶けていく。
 「…ということですが、いかがでしょうか副長」
 斎藤が土方をじっと見つめた。
 「ああ、ご苦労だった。明日総司が戻るのを待て」
 土方の表情は暗がりで見えない。だが声はこころなしか明るいような気がする。はそう思いながら、音もなく部屋を出て行く斎藤の背中を見送った。


 翌日、沖田が屯所に戻ってきて、すぐに神谷の詮議が行われた。
 結果は無実であった。ゆうべ斎藤が土方の元に持ち込んだ話が、最終的に新選組を裏切ったことではないとの証になった。
 詮議が行われた局長室の外では、神谷が所属していた一番隊の面々をはじめ、神谷の身の上を心配した多くの隊士たちが聞き耳を立てていた。
 男たちの間から神谷の無罪を喜ぶ声が上がり、当事者である神谷も沖田も、切腹を覚悟していただけに赦免を喜んだ。


 「よかったですね」
 も一足先に朗報を聞いていたとはいえ、沖田の報告次第ではどうなるかわからなかったので、最良の結果に胸をなで下ろした。
 「心配かけてすみませんでした」
 神谷がえへへとばつが悪そうに笑う。
 「だから頑張りすぎないでって言ったじゃないですか。伏見までこっそり往復しようとするなんて、無理もいいところですよ」
 安堵からか、沖田が神谷の頭を小突いた。
 「本当に本当にほんっとうに! 申し訳ありませんでした!」
 神谷が沖田に深々と、膝に頭がつくのではないかと思うほどに頭を下げる。
 沖田は神谷に頭を上げさせると、前髪を嫌というほどかき回した。それに続き、他の隊士たちも駆け寄って、神谷をもみくちゃにした。


 喧噪の最中、はふと視線を感じて振り返った。遙か向こうの、集会所の階段に立っている人物がいる。
 伊東だった。笑みを湛え、伊東がこちらを見ていた。伊東はの視線に気づくと、内海を連れて太鼓楼脇の門のほうへと急ぎ足で歩き去った。

 (伊東参謀も神谷さんのことはお気に入りだから、ご心配だったろうな…)
 は背中でざわめきを聞きながら、伊東が消えた階段のほうを見やる。
 (でも…それならどうしてここにいないのだろう…って、え?)
 はふと思い立ち、神谷を取り囲む男たちの顔を確認する。
 (中村さんがいない…?)
 伊東とはまた異なった、純粋とも言える気持ちで神谷を追いかけている中村五郎の姿がない。
 神谷が護送されてきたことはあっという間に広まっていたはずだから、それを聞きつけた中村がこの場にいないはずがないのだ。
 それどころか、伊東の取り巻きが一人もいないことには気づいてしまった。
 (参謀…?)
 胃の中にころりとしたものでも入っているかのように、は違和感を覚えたのであった。


 の違和感は的中していた。
 神谷の無罪が証明された翌日、新選組が捜索したはずの寺田屋で坂本龍馬が伏見奉行所に襲われ、間一髪で逃れる事件が勃発した。
 それが寺田屋事件であった。

 そして事件の三日前には、が懸念していた薩長同盟が、すでに成立していたのである。
 同盟を結ぶに当たり、京には薩摩や長州の浪士たちが活発に出入りを繰り返していた。
 伊東は薩長とより深く接触して話し合うため、自分に心酔する者たちを使って情報を集めたり、面会の手はずを整えたりしていた。中村も、伊東が誰と 会うなどは知らせてもらえなかったが、会談場所である料亭の手配などを行っていた。神谷のことを心配していても、その時は屯所にいなかったのだった。



 伊東は薩長同盟成立を知り、自分も西国の面々との繋がりを強く太いものにしようと意気込み始める。
 新選組にいるのだから、そう簡単に信用が降りないのも十二分に理解していた。
 しかしその伊東の意気込みに吹かれ、薩摩藩邸へ出入りさせられるハメに陥ったのは、誰であろうであった。



 20110603