久遠の空 ドリーム小説 暗雲 7

暗雲

update:2011.05.27

暗雲 7 

 年が明け、慶応二年。
 はまだ暗いうちに目が覚めてしまった。
 隣を見ても、土方の姿はない。
 ゆうべ近藤の部屋で酔って寝てしまい、そのまま戻ってきていないようだ。

 は布団から抜け出す。襟元から入り込む空気が痛い。布団の上にかぶせてある綿入れを着込み、障子を少しだけ開いた。
 元日の朝だというのに、灰色とも紫色ともつかぬ雲がたなびいており、その向こうから形のない太陽がゆらゆらと立ち上るのが見える。
 吉兆とは思えない空の色のせいか、はたまた底から這い上がってくる冷気のせいか、はふるりと身を震わせた。


 「おはよう、「
 不意に廊下の暗闇から声がした。
 しずしずと真っ白い足袋が進んできて、細い縞の袴が揺れる。
 漆黒の紋付きを身につけたそれは、伊東甲子太郎であった。

 「あ、伊東参謀、おはようございます」
 は手櫛でさっと髪を撫で、障子から顔を出した。
 「今日は君も休みだろう? もしよかったら僕の部屋で、少し話し相手になってくれないか?」
 伊東が美しい笑みを広げる。
 は一瞬迷った。
 ここで断ったら伊東にどう思われるだろうか。
 ここで断らず着いていったら、何が待っているのだろうか。

 「そんな顔をせずとも、別にとって食ったりしないよ。ただ皆が起きてくるまで、静かに君と話がしたいだけなんだ」
 伊東が眉を寄せて笑う。
 寝起きでまだぼんやりしていて思考が定まらず、考えていることをうっかり顔に出してしまった。いけない、とは唇をきゅっと引き結んだ。

 新年になって土方に挨拶どころか顔も合わせていないのに、伊東の元へ行くなど本当はしたくない。
 しかし、土方がもっとも警戒している男の情報が、少しは手に入るかもしれない。
 隠し事をしている部分を少しでも穴埋めしたいとの思いも、の中に沸き上がってきていた。

 「…わかりました、着替えたらお部屋にうかがいます」
 は白い息を吐きながら伊東に答えた。
 「ありがとう、じゃあ僕は部屋で待っているとしよう」
 伊東は目を細め、また廊下の闇に消えていった。

 は身支度を調えながら、隣の局長室の様子に耳を澄ませた。
 局長である近藤も、ゆうべからそちらにいる土方も、起きているような気配は感じられない。

 袴の紐を結ぶの手が止まる。
 同じ屯所内にいるのだから大丈夫だろうか、それとも一声掛けてから行くべきだろうか。
 いや、滅多にない休みの日だ、ゆっくり休んでいる邪魔をしてはいけないと、は軽く頭を振った。

 しゅっと音を立てて羽織に袖を通し、紐を結ぶ。
 洗った顔の両頬を軽く叩くと、は障子をそっと開けて、伊東の部屋へと向かった。


 「参謀、お待たせいたしました、山口です」
 が伊東の部屋の前で声を掛ける。
 「どうぞ」
 と中から声がし、は参謀の部屋に入った。

 伊東は部屋の中央に小さな膳をこしらえ、を待っていた。
 「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 障子を閉めたは、その場に座って伊東に頭を下げる。
 「こちらこそよろしく頼むよ。来てくれて嬉しいな。さあ、こちらに座りたまえ」
 「はい」
 は伊東に示されるまま、伊東の正面の座布団に腰を下ろした。

 「広島行き、お疲れ様でした」
 は膳の上に塗りの銚子があるのに気づき、それを取って伊東に傾ける。
 「ありがとう、ちょうどその話を聞いてもらいたくてね」
 伊東は盃を手にして酒を受ける。
 「…ひどいものだったよ、広島行きは」
 注がれた酒をぐっと一気に飲み干すと、伊東はにも酒を注ぎながら話し始めた。


 時はやや遡って、慶応元年。
 十一月十六日、近藤や伊東たちは十二日間の旅を経て、長州訊問使永井尚志らとともに広島に到着した。
 二十日には国泰寺において長州藩の使者・宍戸備後之助らと会談し、長州藩の情勢について不審に思うこと八箇条を訊問した。しかし長州藩側は巧みにはぐらかし、はっきりとした回答を打ち出さなかった。

 会談の後、永井は長州藩の使者に、近藤をはじめとする新選組から連れてきた者たちの名前が書かれている書状を取り出してこう言った。
 「この者たちは元新選組であるが、このたび特別に召し抱え、供として連れて参った。我々を入国させずともよい、この者たちを長州に入れて見聞させてくれまいか。親しく見聞させてくれれば、幕府の疑念も晴れよう」

 長州藩の使者たちは顔色を変えた。
 新選組と言えば、長州にとっては京坂で自藩や勤皇派の志士たちを追い回し、捕縛し、殺害する悪鬼の集団である。
 その輩を藩内に入れ見聞させるなど承伏できるわけがない。
 「恐れながら、そのような方々を今、藩に招き入れますことは、いたずらに藩の民の心を乱すことになります。万が一、民が皆様に危害を加えようものなら、収まりのつかないことになりましょう。どうか今回はお引き取りください」
 と、宍戸備後之助は丁重に頭を下げた。

 ここで引き下がらなかったのが近藤だった。
 「心配には及びませぬ。決してそのような不覚はとりませぬゆえ、どうぞご案内ください」
 近藤はどんと胸を叩いて前に出た。
 しかし宍戸は何度も頭を下げて断る。
 「局長、まだ話し合う時間はあります。今日の所はこれで」
 伊東が割って入った。宍戸の肩が細かく震えてきたのをめざとく見つけたからだ。
 「…では、次こそはよい返事をお待ちしています」
 近藤は引き下がったが焦りは隠せない。幕府の要請でここまで来たのに、長州に一歩も踏み入れることなく京へは戻れないと強く思っていた。

 この後も永井は使者同士の会談を持ち、近藤は長州入国を働きかける。会談の度に入国を依頼したり、長州藩士の宿を訪れて頼み込んだり、広島藩の藩士に紹介状を書いてもらって岩国へ入国を要請したりした。
 しかし十二日間に及ぶ近藤の熱意はついに実を結ぶことはなかった。失意のうちに近藤は京への帰着を余儀なくされたのであった。


 「局長の説得にも、耳を傾けていただけなかったんですね…」
 は驚いた。近藤の人を引き込むちからはとても強い。まったく聞く耳持たぬ態度をとられたなど、は聞いたことがなかった。
 「相手の頑固さには僕も参ったけど、局長もかなり気落ちしていたよ。帰りの道ではほとんど口も聞かなかったほどにね」
 「そうですか…」
 「局長の器は十二分に大きいと思っているのだけれども、それでも長州が一歩たりとも入国を受け入れてくれないなど、本当に信じられない」
 はあ、と伊東は酒気の混じる息を吐き出した。

 人を引きつける魅力を持つ近藤と、話の上手い伊東が揃っていてもまったく相手にしてもらえなかったとは、長州は一筋縄ではいかないのだろう。
 これまで近藤はどんな状況も何とかしてきた。寄せ集めの浪人どもと馬鹿にされても、徐々に認められて幕府の正使の供が出来るまでになった。きっと近藤にとっては胸を張ってやり遂げたい仕事であっただろうに。

 はふと思い出したことがあり、伊東を見つめた。
 今、目の前の男は心底近藤を憂いているように見える。
 本当に、土方が言ったように、伊東は近藤を誰かに襲わせたのだろうか。

 「あの…参謀」
 「何だい?」
 「広島で、賊に襲われたと聞き及びましたが、お怪我は」
 「見ての通りどこも斬られていないよ、ありがとう。局長にも助けていただいたんだ」
 伊東は両腕を広げて、何ともないことを示した。そして斬りかかられた時には近藤が敵を斬ってくれたことも話した。

 (今のところ、参謀のお言葉に怪しいものは見当たらない…)
 は伊東の言動を細かに観察し、頭の中にたたき込みながら話を聞いた。

 「でも心配しないでくれ。向こうにも多少話のわかりそうな人物はいたんだ」
 伊東はふっと笑った。
 の耳がぴくりと反応した。
 「長州藩の使者たちの宿に、なかば押しかけて入国を頼みに行ったこともあってね。もちろん断られたんだけど、僕が局長を宥めて宿に戻ろうとした時に、使者の一人がこっそりと僕を呼び止めてね、こう言ったんだよ。“お互い頑固で苦労しますな”ってね。僕も“まあ”って笑って返したんだけど」
 ほんの少しでも国内を見せてくれればよかったのになあと伊東は深いため息を吐き出した。

 伊東が、僅かにでも長州側と個人的な接触を持った?
 近藤暗殺未遂事件と繋がりがないかを探し、の心臓は常になく高鳴る。

 「、どうしたんだい? 顔色がよくないよ」
 伊東が自分の席を離れ、の肩に手を掛けた。
 「な、何でもありません。少し酔ったようです」
 は下を向き、顔を袖で覆った。
 「大丈夫かい、少し横になるといい」
 伊東はの肩を抱き、座布団の上に横たわらせようとする。
 「いいえ、そろそろ副長室に戻ります。お邪魔しました」
 はその手から逃れ、ふらつきながら立ち上がった。



 ちゅんちゅんと、愛らしい鳴き声を発しながら雀が飛ぶ。
 賄い方は遅い朝餉の準備に大忙しのようで、ゆうべのうちに届いていた正月の料理を並べたりする音や、雑煮のかぐわしい香りが漂ってくる。

 は伊東に支えられながら副長室まで戻った。伊東の話を聞きながらちびちびと盃の酒を飲んでいたのが意外と効いたらしい。
 副長室の障子を開くと、土方はすでに部屋に帰ってきており、黒羽二重の紋付き袴を身につけていた。

 「どこ行ってやがった」
 ぎらりと土方の目が光を帯びる。
 「すみません、早く起きすぎたので参謀とお話しさせていただいてて」
 は口元を抑えながらゆっくりと座る。歩いてますます酔いが回ってしまったようだ。
 「それはちょっと違うな。僕が誘ったから君がついてきたんだろう」
 くすりと伊東は笑みを浮かべる。
 「どっちでも構わねえ。参謀、それを置いてさっさと消えてくれ」
 土方は心底嫌そうな顔をして、しっしっと手を振った。
 「土方君、君のその嫌そうな顔も美しいからもっと見ていたいけど、をゆっくりさせてあげたいから退散するよ。じゃあね、
 伊東はから手を放し、あっさりと部屋から出て行った。


 伊東の影が障子から消えると、土方はを睨みつけた。
 「てめえ、元旦からいったい何のつもりだ」
 「すみません…」
 は肩で息をしながら土方に向かい、頭を下げる。
 頭が下になると、胃から何かがこみ上げてくる。伊東の話を聞きながら、いったいどれだけ勧められるままに飲んでしまったのだろう。何も食べずに酒を飲んだのもいけなかったのかもしれない。
 しかしは吐き気を堪えながら、伊東と話したことを一つ残らず土方に伝えた。
 「そうか」
 土方は聞き終わると一言だけ言って腕を組んだ。

 「…とりあえずお前」
 土方が顎をさする。
 「はい」
 は何かを言いつけられるのかと思い、顔を上げた。
 「吐くんなら厠に行け。真っ青だぞ」
 「…そうさせて、いただきます」


 が厠に行き、井戸で口をすすいで戻ってくると、部屋の隅に布団が敷いてあった。
 「これから局長室で新年の幹部挨拶がある。静かにしてろ」
 「はい…」
 は目が回って仕方がないので、おとなしく布団に潜り込んだ。

 「土方さん」
 部屋を出て行こうとする土方を、はかすれた声で呼び止めた。
 「あ?」
 土方が振り向く。
 「今年も、よろしくお願いします…」
 は布団から目だけ出して、小さく頭を下げた。
 「そんなとこから言う台詞じゃあねえな」
 くっと土方は笑い、廊下に出て障子を閉めた。


 局長室から近藤の声が聞こえてきた。幹部だけの新年の挨拶が始まったらしい。
 大きな声で話しているのでにも内容が聞こえてきた。
 近藤は長州行きの顛末を話し、幕府の意に沿って長州を内覧出来なかったことを悔やんだ。
 「しかし、もし次があるなら必ずやり遂げる!」
 一際よく通る大音声に、近藤の並々ならぬ決意が伝わってきた。

 幹部の集まりということは、伊東も来ているはずだ。今の近藤の演説を聞いて、伊東はどう思ったのだろう。
 そして本当に伊東は近藤の暗殺を企てたのだろうか。
 長州の誰かと話したらしいが、伊東の言うとおりちょっとした挨拶程度だったのだろうか。
 浮かび上がる疑問と酔いに頭をかき回され、は眠りの淵に落ちていった。


 翌日二日から、新選組は通常の隊務に戻った。朝晩の巡察、稽古、武器のぬかりない手入れなどで、屯所はいつものざわめきを取り戻す。
 西本願寺も参拝者で大変な人出となり、屯所との境界に作った竹矢来が一部倒れるほどであった。

 も今日からまた守護職屋敷や南部の家への出入りが始まる。
 今日は守護職邸で英吉利語の自主勉強だ。はあまりにすごい境内の人混みを避けて、脇の塀についている小さな門から外に出た。
 すると、伊東が少し前を歩いていた。
 「伊東参謀、昨日は失礼いたしました。お出かけですか?」
 は酔っぱらって部屋まで送ってもらうという失態を詫びた。
 「あ、ああ、か。うん、ちょっと碁を打ちにね」
 伊東は何か考え事をしていたようで、に後ろから声を掛けられて驚いたようだ。
 「碁ですか」
 「最近、碁を教えてくれる御仁と知り合ってね。どうしても今日でないと会えないと言うものだから」
 伊東は少しの間と並んで歩いていたが、途中で別の道へと入っていった。

 (碁かあ…参謀なら得意そうだけど、誰かに習うなんて熱心なんだな…)
 は荷物を抱え、守護職屋敷で新年の挨拶をせねばならない面々の顔を思い出し、口上を何度も繰り返しながら道を歩いて行った。



 (…君はどうして偶然にも出会ってしまうんだろうな)
 伊東は早足で目的地へと向かう。袴の裾も白い足袋も土埃にまみれてしまうが仕方がない。
 「ここか」
 古ぼけた宿の前で伊東の足が止まる。看板の名前を確かめ、伊東は宿の中に入っていった。
 「いらっしゃいませ」
 店の主人が出てきた。
 「皆吉正助殿はおられますか?」
 伊東が柔らかく微笑むと、店の主人は伊東を中へと案内した。

 「よくお越しくださいました」
 伊東が通された部屋は薄暗く、これから日が差し込むところであった。
 部屋には痩せこけた男がひとり座っている。
 「お会いできて光栄です、皆吉殿。いいえ…大久保利通殿」
 伊東は男の前に座って、まなざしを鋭くした。

 伊東が会っている人物は、薩摩藩の大久保利通であった。
 元は下級武士であったが取り立てられ、薩摩藩主・島津久光の側近として働いている男だ。

 (これが薩摩藩の大久保…)
 幾人ものを人を辿り、伊東はやっと薩摩藩の重役と繋がるつてを手に入れた。
 うすうす勘づいていたが、もう徳川幕府の力は以前ほど及んでいない。今回の長州行きで、図らずもそれが浮き彫りになってしまった。たったひとつの藩を従わせることすら出来ないのだ、今の幕府には。
 長州や薩摩といった南国の大名がちからをつけ、幕府からの脱却を図ろうとしている。その流れに乗れなければ、これから時代の波を乗り切ることは出来ないと、伊東は考えていた。

 この日、伊東が大久保と話したことが、一月後ににも関わりを持つことになる。
 しかしそれよりも先に、歴史に残る大事件が起きた。
 京都伏見にある船宿・寺田屋で、坂本龍馬が発見されるも、逃げられてしまう。
 世に言う寺田屋事件である。







 20110524