暗雲 6
神谷が怪我をしてからひと月が経過し、屯所に戻ってきた。
松本法眼から帰営の太鼓判をもらっての、堂々たる復帰であった。
「神谷、ただいま戻りました!」
局長室に元気な声が響き渡る。
「お帰り、神谷君。トシから話は聞いていたが、よくなったようで何よりだ」
八日ほど前に広島から戻ってきていた近藤は、げんこつが入ると言われるほどの大きな口を横に開いた。
「君も、神谷君の介抱ご苦労だったな」
「は」
はねぎらいの言葉を受け、深々と頭を下げた。
「そうそう、局長! さんの介抱、とってもうまいんですよ! 松本法眼と南部先生から教わりはじめてまだふた月ぐらいしか経ってないのに、てきぱきこなしちゃうんです」
神谷がを指し示す。
「そんな、ただ消毒して晒しを取り替えて抜糸しただけです」
は否定の手を振る。毎日決まった時間に傷の手当てをし、松本らの指導の元で抜糸をした。ただそれだけである。
消毒中に見た神谷の白い肌がふと頭に浮かぶ。神谷が女子だということは、気づいていないかのごとく黙っていなければならない。は拳を握ると、胃の辺りにぐっと押しつけた。
その横で斎藤がぼそっとつぶやく。
「神谷をおとなしくさせるのも上手かったがな」
「げっ、兄上、余計なこと言わないでくださいよ」
神谷が口の先に指を当てた。
「どういうことだ」
土方の目が険しく光る。
「あの、神谷さん、少しよくなるとすぐにお手伝いしようとしてくださるのはありがたかったんですけど、何分怪我人ですので横になってていただかないといけなかったのですが…」
は土方の視線に口を割らされた。
「勝手に敵の前に飛び出して怪我しておいてそれか」
フンと土方は不愉快そうに鼻を鳴らす。
「トシ、それは総司を助けようとしての結果じゃないか」
「そうです、神谷さんの怪我に関して責めを負うべきは私です」
神谷がぐっと言葉に詰まった瞬間、近藤と沖田が素早く口を挟んだ。
土方はだから何だと言わんばかりにそっぽを向いた。
部屋の主である近藤以外が局長室を出ると、廊下の向こうに隊士たちが固まっていた。一番隊全員を含む、かなりの人数が、神谷との戻りを待っていたのだ。
彼らは年末の煤払いの途中のようで、手には笹だのはたきだのを持っている。
「うわー、皆、久しぶりー!」
神谷は局長室での緊張から解き放たれ、小走りにそちらへ向かう。
「まったく、今頃煤払いとかどうなってんですか?」
神谷が皆の顔をぐるりと見渡して言う。
「すまない、やっぱり神谷がいないとこういうことって駄目なんだよなあ」
一番隊の相田が苦笑いをすると、皆一様に頷く。
「もう、じゃあ急いで終わらせますよ」
神谷が相田の笹を取り上げ、真っ先に走っていく。
沖田も斎藤もその後に続いた。
「お前はこっちだ」
同じくそちらへ行こうと足を踏み出しただが、土方に首根っこを掴まれ、隣の副長室に吸い込まれた。
ぱたんと障子が閉まり、は土方と相対して座らされた。二人の間には火鉢があり、空気をやんわりと暖めている。
土方が腕組みをして自分を睨みつける目の鋭さに変わりはない。しかし頬がわずかにこけ、体中から殺気がみなぎっているように感じられた。
「長々と留守にいたしまして。ただいま戻りました」
は丁寧に頭を下げた。
土方はうんとも言わずに黙ってを見つめる。
もそれ以上言うことがなく、土方の喉元辺りに視線を固定した。
「…話せ」
土方が障子に影がないことをちらりと確認すると、低く言った。
「えっ」
の心臓が大きく跳ねる。まさかさっき局長室で顔を合わせただけで気づかれてしまったのか。神谷が女子だということを隠していることに。
「お前、いつから伊東が怪しいと思っていやがった?」
土方が続けた。
「あ…」
そっちか、とは額の汗を拭う。
神谷のことだけでなく、伊東のことも黙っていたことをは思い出した。最近自分は屯所にいなかったし、伊東も近藤と一緒に広島へ行っていたので、伊東のことはすっかり考えの外になっていた。
は自分が伊東について思っていることを土方に話した。
伊東が入隊してきてからしばらくは、特に怪しい行動は見えなかったこと。
しかし山南の葬儀の日に、伊東の弟の三木三郎と、部屋で不穏な会話をしていたこと。
開成所訪問と隊士募集で江戸へ行った帰り、風邪で倒れた自分を看病してくれた時に、わざわざ衝立を立ててまで書状を書いていたこと。
「黙っていて申し訳ありませんでした。でも、まだ私は参謀が確実に怪しいと決定づける証拠を見つけていませんので、勝手な考えを申し述べるわけにもいかないと思って」
「その直感だけで充分だ!」
の言葉が終わらないうちに土方は苛立った声を上げた。
は土方の剣幕に押され、驚きの声を殺して反射的に肩を竦めた。
土方は眉間にくっきりと皺を刻み、信じられない言葉を吐き出した。
「近藤さんが広島で、伊東の手の者に襲われたんだ」
「…まさか」
いくら何でも伊東がそこまでするだろうか。にわかにには信じられない。
しかし、山南が亡くなった時の三木の台詞がの頭に瞬いた。
(“新選組を…幕…皇へ導き、万一の時には近…を斬り殺す計画が漏れたのではないのですね?”)
「まさか…」
「新選組を“反幕勤皇”へ導き、万一の時には“近藤”を斬り殺す計画。そんなとこだろ」
青ざめるに土方の予想が突き刺さった。
土方は忌々しそうに前髪を掻き上げる。
吐き出したため息には、を怒鳴りつけたような勢いはない。はその声色とやつれた様子に、どれほど土方が近藤の命を心配しながらも、局長不在の組織を切り盛りしてきたのかを感じた。
「申し訳ありません…証拠などなくても、もっと早くに進言すべきでした」
今回は近藤が無事だったからよかったが、もし万が一のことが起きていて、近藤が伊東の放った刺客に命を落としていたら。の背に冷たい汗が流れた。
「いや、伊東はとうとう尻尾を出しやがってってことだ」
土方の額に前髪が影を落とした。
「野郎…見てやがれ。ここから俺たちの番だ」
前髪を放した手が薄い唇に触れる。唇の先はつり上がり、残忍な笑みを浮かべている。
は見えない何かに押され、正座していた足を横に滑らせてぺたんと尻餅をついた。師走も終わるこの日なのに、手にじっとりと汗までかいていた。
「今まで以上に伊東の動きには気をつけておけ。奴と顔を合わせたらその都度俺に知らせろ」
「…か、かしこまりました」
これで話が終わると思ったは、手ぬぐいを取り出して手を拭いた。
「…で? まだお前、俺に隠してることがあんじゃねえか? 伊東のことを話せっつった時に、妙な反応しやがって」
土方は片眉をあげた。
は虚を突かれて黙り込む。
ある。隠している。神谷が女子だと知ってしまったことを。
しかしこのことは絶対に誰にも漏らさないと、沖田と固い約束をしたのだ。
沖田は近藤にも土方にも隠し通すと決めている。
話すわけにはいかない。
「…何も言わねえってことは、何かあんだな」
土方が鋭く切り込む。
「はい」
は正直にこくりと頷いた。
「話せ」
「それは、出来ません」
「何故だ」
「誰にも話さないと約束しました」
「さっきの近藤さんの話で学ばなかったのか? お前が黙って抱え込んでいる情報や、お前が自分で根拠がねえと思いこんでいる勘が、大事な話だってこともあんだろうが」
「そ、それは…」
は膝の上の手を握る。手の平にまた汗がにじみ出てきた。
「この件に関しては、その、大丈夫だと思います。土方さんにご相談するような内容ではありません」
正確に言えば相談できないのだが、そこまで言うとボロが出そうなので、は言い切って土方の目を見た。
「それはお前の勘か?」
土方もと目を合わせる。
「はい」
は首肯する。
伊東の件は伊東自身に不確かな疑惑を抱いていたが、神谷の件は違う。何もかもが解決しているのだ。土方に話さないだけで後は問題ないはず、とは決めた。
互いに押し黙り、長い沈黙が続いた。
火鉢の炭も低く赤く燃えるだけで、何の音も発しない。
先に動いたのは土方のほうだった。立ち上がって障子に手をかける。
「お前も煤払いの手伝いをしてこい。また神谷が無理してたら全力で止めろ」
「は…はい」
秘密について何か言われるかと思っていたのに全く別なことを言われ、はきょとんとした。
土方はに背を向けたまま障子を閉め、廊下を歩いて行ってしまった。
不問にしてくれたのだろうか。
土方を裏切りたくはない。そんなつもりは毛頭ない。
だが、約束は約束だ。神谷が女子だと暴き立てて何になるというのだろう。
自分が女子であることはすっかり棚に上げ、は額に手を当てた。吸い込んだ空気は、苦い味しかしなかった。
煤払いは無事に終わった。が煤払いの現場に駆けつけると、すでに沖田と斎藤が神谷に無理をさせないように仕切っており、隊士たちは皆真面目に掃除を行っていた。
年越しそばを食べ終わると、は神谷たちにつれられて祇園神社(八坂神社)へ向かった。おけら火をもらうためである。
祇園神社では大晦日から元日の朝にかけて、邪気を払うために薬草のおけらなどを焚く。その火をおけら火と言い、参拝者は吉兆縄という縄に火を移してもらい、その火で元日の雑煮を煮たり、神棚などの火を灯す。
どうしても自分が行くと言う神谷と、付き添いで斎藤が火をもらいに行き、と沖田は神社の階段下の、あまり人が多くないところで待っていた。
「混んできましたねえ」
なかなか帰ってこない神谷たちを待ちながら沖田が呟く。
「そうですね」
もちらちらと階段を降りてくる人影を確認するが、まだ二人の姿は見えない。
(神谷さん、無理してないといいけど…)
動けるようになって張り切るのは結構だが、神谷の肩の傷は完全に治ったわけではない。人混みに押されて出血しなければいいがとは心配する。
「大丈夫でしたか?」
急に沖田がの顔を覗き込んできた。
「はい?」
何のことかわからず、は首を傾げる。
沖田がだけに聞こえるよう、声を小さくした。
「土方さんにいろいろ聞かれたんじゃないですか? あの人、変なところで敏感だから」
「あ、ええ、そのことは大丈夫です」
「すみませんね、今更ながら変なことをお願いしちゃったなあと思って」
「いいえ、気になさらないでください。黙っているだけですから」
は沖田を見上げる。
沖田もと目を合わせ軽く微笑むと、神谷さんたちまだかなあと言いながら階段から降りてくる人影に視線を移した。
神谷と斎藤がゆっくりと階段を下りてくる。
「ああ、いたいた」
ぱっと沖田の顔が輝き、人をかき分けて二人の元へ走ってゆく。も沖田のすぐ後ろをついていった。
「お待たせしました!」
神谷は火のついた縄をくるくると振る。こうしていないと縄の先に移された小さな火種が消えてしまうのだ。
「あんたが持て」
斎藤が縄を神谷から取り上げ、に渡す。
「あーもう斎藤先生、私は大丈夫ですよ?」
取り上げられた神谷は頬を膨らませる。
「人にぶつかられて痛そうな顔をしていたのはどこの誰だ」
斎藤が平たい目つきで言うと、神谷はしゅんとして沖田の隣に並んだ。
「ふふ、また治ったらいくらでもおやりなさい」
沖田が笑う。
沖田と神谷が仲良く笑い合いながら歩くのを眺め、は縄を小さく振り回した。火種は暗い中に真っ赤な輪を描く。
屯所のある西本願寺まで、はずっと縄を回し続けた。しかし歩いている途中に手首がくたびれ、斎藤に交代してもらいながらになってしまった。
西本願寺に戻ると、土方はすでに眠ってしまっていた。
「新年用の酒を無理矢理開けて飲んでしまってね」
近藤が言うには、酒を持って近藤の部屋に来ると一人で何も言わずに飲み続け、そのまま寝てしまったらしい。土方は近藤の布団で寝ていた。
は土方の布団を近藤の部屋に運び、自分の布団はいつも通り副長室へ敷いた。
(土方さん…ごめんなさい)
自分で決めたことだが、土方に隠し事をしているのが辛い。
除夜の鐘が、繰り返し繰り返し響いてくる。
ひとりだけの静かな空気が、胸に痛かった。
夜が明けると、年は慶応二年に改まった。
ひたすら自分の気持ちを鎮静しようと努めるの元を訪れた人物がいる。
それは今がもっとも気をつけねばならない男、伊東甲子太郎だった。
20110519