暗雲 5
沖田が帰り、は部屋を片づけて晒しを切っていた。神谷の傷口に使うためである。
「御免」
玄関で急いた声がした。斎藤の声だ。
「神谷は」
が招き入れると斎藤はすぐに神谷のいる部屋へ足を踏み入れた。
ただでさえ白い顔をますます青白くして横たわる神谷を見て、さすがの斎藤も息をのむ。
「松本法眼、神谷は」
「ああ、まだ予断は許さねえな」
松本は唇を噛んだ。
「うーん…」
神谷が小さく呻いた。
「セイ?」
松本が神谷の枕元に身を乗り出す。
「お、き…」
ぽつんと神谷がつぶやいた。
「おき?」
は何のことかと首を傾げる。
「沖田さんのことだろう」
斎藤の口元がぴくりと動いた。
皆が見守る中、神谷はゆっくりと目を開けた。
「沖田先生…」
乾いた唇からはっきりとその言葉が聞こえてくる。
「気がついたか」
松本は目尻と同じぐらい眉毛も下げ、目にはうっすらと涙すら浮かべていた。
「沖田先生は…?」
宙をさまよう神谷の目が斎藤に合わせられる。
「無事だ、あんたの無茶のおかげでな」
斎藤は口調こそ平坦だが、眉間にはくっきりと皺が寄っていた。
「そっか…よかった…」
悪びれもせず神谷が微笑む。
その笑顔に、斎藤はたたみかけようとした文句を飲み込んだ。
「沖田先生は今…どちらに?」
「さっきまでいらしたんですが、屯所に戻られたと思いますよ」
も安堵を口元に浮かべる。
「先生、きっとかばわれて落ち込んでるだろうなあ…元気になったら一緒に鍵善に行って、倒れるまでくずきりに付き合おうっと…そうそう、私、今、先生の夢を見てたんですよ。先生は小さな子どもで…」
沖田のことばかりか、と場の空気が固まる。
「法眼、沖田さんを呼んできます」
斎藤が立ち上がった。
「ああ、頼んだ。が、斎藤よ」
玄関まで斎藤を見送りながら松本が問う。
「お前さん、何だか殺気だってねえかい?」
「気のせいです」
斎藤は目をきらりと光らせると、南部の家を出ていった。
「気分はどうですか?」
が神谷の布団を掛け直しながら聞く。
「痛っ…うーん、あんまり、かな」
神谷は痛みを隠しきれず、目を堅く閉じる。
「それだけの傷だ、痛えのは当たり前だろうが」
松本が腕を組んでため息をつく。
「、すまんがしばらく二階で晒しを切っててくれ」
「はい」
は立ち上がって二階に上がった。
上がっていく途中、下から松本が神谷にあれこれと話すのが聞こえてきた。
お前は女子なんだからとか、沖田とはどうなっているんだとか、新選組はもうやめろだとか、次々と神谷に言いまくる。
たぶん神谷は困った顔をしながら聞いているんだろうなと、も苦笑いを浮かべた。
は二階の部屋に入ると窓際に座って晒しを適当な大きさに切り始めた。神谷の治療に使うものだ。
松本が自分を遠ざけたのは、神谷が女子だということに自分が気づいている、そのことを神谷がまだ知らないからだ。神谷が目を開けてほっとし、あれこれ注意したくなったが、説教の中に“女子”という言葉を混ぜずにいられなかったのだろう。
まるで父親のように神谷を叱りつける松本を想像し、は鋏の手を止めた。
格子窓の向こうに、くっきりとした山の峰が連なっている。空気がきれいに澄んだ空に、鳥が高く低く遊んでいた。
は鳥の声に頬を緩める。鋏を持ち直すと、しゃきしゃきと心地よい音を立てて晒しを切った。
晒しがまだ半分も切り終わらぬうちに、沖田が木屋町へ戻ってきた。斎藤に神谷が死んだと聞かされ、人波を押し退けて走ってきたのだ。
しかし結局は騙されたと知り、沖田は元気に起きあがった神谷を見て、安堵以上に柔らかな心持ちを得たのであった。
神谷はまた眠りに入り、沖田は二階へと上がってきた。
「お帰りなさい」
は沖田に笑いかけた。
「松本法眼には参りましたよ。人のことをからかってばかりなんだから」
沖田はげんなりして汗までたらしている。
「聞こえてましたよ」
くすくすとは笑った。階下で松本が沖田のことをからかっていたのが丸聞こえだったのだ。
「娘さんを僕にください、とか?」
「ちょっと、さんまで! よしてくださいよ」
沖田は耳まで真っ赤になり、に背を向ける。
「すみません」
は笑いが収まらない口元を着物の袖で隠しながら、沖田に座布団を勧めた。
沖田はに、神谷がどのようにして新選組に入ってきたのかを語った。
父と兄を長州の者に殺され、復讐をしようと誓ったこと。大坂で復讐を遂げたこと。
身寄りがないので新選組にしか居場所がないといい、居続けていること。
「その間にどれだけ神谷さんが武士らしくあろうとしてきたかは、さんもご存じの通りです」
「はい」
はこくりと頷いた。
「沖田さんは最初から?」
「ええ、知っていました。事あるごとに離隊を勧めてはいたんですけどねえ」
沖田の吐く息が降参の旗のように白くなる。
「どんなに突き放しても…というのはただの言い訳で、突き放しきれなかったんでしょうね、私が」
「沖田さん…」
「神谷さんには女子の幸せがある、それを掴むことが出来る。頭ではそうさせなければと考えていたはずなのに。こんなに危険な場所に身を置いていれば、いつかはこうなるとわかっていたのに、私は…」
相対して座る二人の頬に、格子窓の影が落ちてきた。
「誰にどんなに責められようと、離隊させることが出来なかったのは私の落ち度です。しかも女子の体に一生消えない傷を負わせてしまいました。私に出来ることは、神谷さんが望む道を、ともに歩いて行くことだけです。そのためにはどんな犠牲も厭いません」
微かに俯いた沖田の目が、窓の影に隠れる。
「どんな、って…それは、土方さんや近藤局長に隠していくことも含めてですか?」
は喉元が締め付けられるような苦しさを感じる。
近藤、土方、沖田の絆は、試衛館出身の中でも格別なはず。新選組一番隊組長の肩書きも、計り知れないほど重いはずだ。
その絆や重みを天秤にかけると言うのだろうか。
「はい」
「ですからさんには本当に悪いと思っていますけど、この秘密を共有してもらいたいんです」
沖田が少しだけ身を前に傾ける。顔に落ちる影の隙間から目だけがに見えた。先ほど肩を掴まれた時と同じ光がを突き刺す。
「そ、それはもちろん誰にも言いません」
口調は穏やかなのに、ただ見つめられているだけで気圧される。これが一番隊組長の、真の姿の片鱗なのだろうとは背中が冷たくなった。
「ありがとうございます」
沖田はふっと目を和らげ、の手を握った。
「女子だとわかっていることを神谷さんに伝えるかは、さんにお任せします」
「私に…?」
そんな大事なことを自分が判断していいのかと、は目を落とす。
「ええ。伝えるにしても伝えないにしても、神谷さんのちからになってあげてください。お願いします」
「わかりました」
沖田が再び屯所に帰り、室内はまた静かになった。
は南部に代わってもらい、神谷に付き添う。
しゅんしゅんと、湯が沸いている鉄瓶の口から白い湯気が上がる。
神谷を見守るの口から漏れる息もまた、同じく白かった。
神谷が実は女子だと聞いて、思い返せば、そして言われてみれば、思い当たることは確かにある。
まずは見た目。二年前に入隊したときよりぐっと女子らしくなり、大人びてきた。神谷に懸想する隊士も少なくない。
それと、月に一度、三日間の休暇。おそらく生理を気取られぬ為の作戦なのだろう。
(だとしたら…明里さん、いえ、お里さんも知ってて協力しているの?)
もし三日間の休暇が生理の為だとしたら、その行き先である里も事情を知っているはずだ。
神谷が女子であることを隠すのに協力し、神谷は里を囲っていることにしている。は謎が頭の中で次々と解かれていくのを感じた。
ぱち、と神谷の目が開く。
「あれえ…沖田先生、いたと思ったのに…」
「もう帰られました。消毒と、晒しの交換をしましょうか」
神谷は寝ても覚めても沖田なのだなと、は小さく吹き出した。
ゆっくりと神谷の体を俯せにし、着ているものを肩の下まで下げる。
緩やかな体の線は、やはり女子のものだとは思った。
「あ、あはは、やっかいですよね、如心遷なんて!」
視線に気づき、神谷がごまかすように笑う。
「こ、このところ妙に進行が早くてですね、私自身も嫌だなって!」
「そんなことは…」
は傷口を焼酎で洗い、清潔な晒しに交換した。
焼酎が傷に沁みても、神谷は息を詰めて堪えた。
男だけの新選組にあって、きっと心の中では何度も、本当は女子ということで沁みる思いをしてきたに違いない。にはそう思えた。
この堪え顔を、先ほどの笑顔を、沖田はずっとずっと守ってきたのだ。彼女が女子だと知りつつも。
もし神谷に、神谷が女子だと知ってしまったことを告げたら。
もし神谷や沖田に、自分も女子だと告げたら。
着物を直しておとなしく布団に入る神谷と上の空で会話をしながら、はだんだんと考えを固めていった。
翌日の朝早く。
は二階で松本に語った。
「松本法眼、神谷さんたちにはまだ、私が女子だということは内緒にしておいてください」
「それがお前さんの出した答えか」
「はい」
松本が、いいとも悪いとも言えない複雑な視線を寄越す。
もまだ迷いに目を揺らがせながら、ひとつひとつ、ゆっくりと話し始めた。
「もし神谷さんたちに私が女子であることを話したら、きっといろいろなことが楽になるでしょう。女子同士、互いに話せることも多いと思います。でもそれは、慣れ合いを生む原因になるかもしれません。私たちだけの気安さのどこかにほころびが出て、両方とも女子だとばれたら大変なことになります。
それと、ゆうべ神谷さんの傷を消毒した時のことなんですけど、神谷さん、必死に如心遷だって言ってたんです。そんな姿を見たら、これ以上神谷さんに重荷を背負わせたくないと思いました」
「ふーん」
は微動だにせず、松本に視線を投げかける。
松本は次を促すように相づちを打った。
「あの、それに」
急には手の指をもぞもぞと動かし始めた。
「やっぱり土方さんたちに悪いかなって…。神谷さんたちに私のことを話したら、今まで守ってきてくれた土方さんや斎藤さんに申し訳ない気がして…」
ぶはっと松本の口がはじけた。
「土方さん“たち”じゃねえだろ、土方、だろが」
「違います、ちゃんと斎藤さんにも感謝してます」
「そうかいそうかい」
「もう、松本法眼は…」
にやにやと意地の悪い笑みを見せる松本に、は沖田がからかわれた気持ちを少しだけ理解したような気がした。
「お前さんが自分でそう答えを出したならそれでいいんじゃねえか? 後で気が変わるかもしれねえが、そん時はそん時だ」
松本がよっこらせと座布団から立ち上がる。
「俺は明日からしばし大坂へ行く。セイのこたあ頼んだぜ」
「かしこまりました」
「愛しのトシ様にゃまだしばらく会えねえが、セイが寝起きに不自由しなくなるまで勘弁してくれな」
「…法眼…」
神谷は早い回復を見せ、傷口がくっついたかと思うとすぐ剣術の稽古を始めた。しかしそれが仇になり、また傷口が開いてしまうということを何度か繰り返し、主治医の松本にはもちろんのこと、沖田に怒られ、には諭されてやっと稽古を中止していた。
他にも体がなまるからと言っては家事を手伝い、少しの無理をした挙げ句にまた傷口が開くということもしていた。
そんな神谷の療養は約ひと月にも及び、松本から屯所に戻ることを許されたのは十二月の末だった。
看病役として、そして途中からは神谷が無理をしないよう監視役として付き添っていたも、ようやく土方の元に帰ってくることが出来たのであった。
20110512