暗雲 4
数日後。
木屋町の南部の家から戻ってきたは、廊下の先にある副長室から何かが倒れるような音と、続けて土方の怒鳴り声を聞いた。
「神谷ひとりの為に勝手に伏見まで出張った挙げ句、目の前で坂本龍馬を取り逃がすたぁどういう了見だ!」
「すみません…神谷さんに咎はありません。すべて私の責任です」
沖田の声がする。
(坂本…龍馬?)
は障子の前で立ち止まる。坂本龍馬とは、日本史で有名な、あの坂本龍馬のことだろうか。
障子の向こうから土方の叱責と、沖田を殴りつける音が聞こえてくる。
(相手は沖田さんなのに…?)
土方の怒りの深さに、の足は竦んだ。
「さん、どいて!」
は後ろから廊下を駆けてきた神谷に除けられる。
副長室に駆け込んだ神谷は沖田をかばった。
しかし土方は神谷の言葉を無視し、沖田に蔵での謹慎を申しつけた。
沖田の顔は腫れ、口が切れて血も出ている。
「沖田さん…手当を」
は沖田を治療部屋に連れていこうと思って声をかけた。沖田はに微かな笑みを見せただけで、立ち止まらずに蔵へと向かった。
神谷が土方に任務の顛末を伝える。
伏見の寺田屋で才谷梅太郎と名を偽っていた坂本を取り逃がした事、坂本を暗殺犯として探るように言い渡されていたが、坂本は剣術も短筒の腕前も大したことがなく、とても暗殺をするような器ではなかったことを神谷は告げた。
そして坂本が尋常ではない数の文をしたためていたことと、そのうちの一枚に“木圭先生”と書かれていたことを神谷が言うと、土方は突然神谷に三日の休暇を与えて下がらせた。
入れ替わりに斎藤が副長室へ報告に来た。
斎藤の報告を聞き、は頭の中で状況を組み立てる。
(神谷さんが女装…沖田さんが勝手に伏見へ…坂本龍馬を取り逃がしたって…まさか最近の動きってこれのことだったの?)
神谷が数日姿を見せなかったのは、伏見で坂本龍馬を捕縛するための任務で、沖田はそれに加わっていなかった。だが沖田は勝手に伏見に赴き、坂本を取り逃がしてしまった。
は土方を見る。
坂本を取り逃がしたことで怒っているのかと思ったが、笑っているではないか。
「奴が木圭、つまり長州の桂と繋がってるとしたら…これだから、幕府のお偉方は食えねえんだよなあ」
ふっと土方の口から息が漏れた。
斎藤は部屋を出ていった。
土方は文机に向かい、帳面を取り出すと何やら書き出す。
「こんなとこか。見ろ」
土方が帳面を示し、は目を落とした。
その時、ふたたび沖田がやって来た。謹慎場所を変えてほしいと言う。
「ちょうどいい。お前も聞け」
土方は沖田の言葉を後回しにし、自分の考えを述べ始めた。
「坂本はただの暗殺犯じゃねえ。いいか、まず俺たちは坂本龍馬を人斬りの下手人として追うよう命じられた。ここまではいいな」
「はい」
「潜入した神谷の報告では、その坂本が薩摩藩士の才谷梅太郎と名乗っていた」
帳面には坂本と才谷の名がひとつの丸で囲まれている。
「その坂本が、木圭という野郎へ宛てた手紙をしたためていた。この木圭は、十中八九、長州の桂小五郎だ」
「長州の?」
「ああ。並べて書きゃあ“桂”になるだろ。坂本が薩摩藩の定宿で薩摩藩士を名乗り、長州の野郎に文を書く。どういうことか想像できるか」
土方の目が、と沖田を交互に見る。
「坂本は、薩摩とも長州とも繋がっている。そして、薩摩と長州を結ぶ可能性もあるってこった」
「でも、薩摩と長州は禁門の変以来、犬猿の仲のはずじゃないんですか?」
沖田が怪訝な顔をする。
「ああ、表向きはな。だが奴らには、幕府に成り代わるという同じ目的がある。長州は反抗的な態度を崩さねえし、薩摩の島津斉彬公も養女を先代の将軍に送ってるだろ。手を組んでもおかしかねえ。」
土方は文机の上の筆を取る。帳面に書かれている薩摩と長州の文字を線で結んだ。
「こちとら長州の大物の名を掴んだ。伏見奉行の思惑もわかった。それに加えて、坂本は土佐を脱藩しているらしいが、動き次第では土佐もからんでくるかもしれねえな」
土方の目がぎらりと光る。はびくりとし、息をのんだ。
茶を入れてくるよう言われ、は副長室を離れた。
廊下を歩きながら考える。
坂本龍馬に桂小五郎。どちらも有名な幕末の人物だ。
この先、土方が見越したように、坂本の仲介で薩摩と長州は薩長同盟を組み、江戸徳川幕府をーーー
そこまで思い出して、はがくりと廊下に膝をつく。
(すっかり忘れてたけど…今、私がいる時代は、本当の本当に江戸時代末期なんだ…)
いつ、何時、どこで同盟が行われ、明治維新が起きたのか、細かいことまでは思い出せない。思い出したところで、この時代に紛れ込んでいるだけの自分には、歴史の流れを変えるような行動も発言も許されないのだ。
茶を持って台所を出ると、神谷が力のない足取りでふらふらと廊下を歩いていくのが目に入った。
「神谷さん」
は茶をこぼさないようにしながら神谷に近づいていく。
「大丈夫ですか?」
副長室で沖田をかばった時のような威勢の良さがまったくない。はそんな神谷の顔を覗き込んだ。目が真っ赤になっている。
神谷はと目を合わせようとせず、前を通り過ぎて外へ出た。
(あんな神谷さん、初めて見る…きっと大変な任務っだったんだ。三日のお休みの間に元気になってくれればいいけど)
自分が茶を入れに行っている間に神谷が沖田と揉めて突き放されたことも知らず、は副長室へと足を進めた。
「お待たせいたしました」
は土方の文机に茶を置く。
「沖田さん、お戻りになったんですか?」
もうひとつの湯呑みを持ち、は室内を見回した。
「ああ」
土方は温かい茶をすする。
「急に冷えてきやがったな。綿入れをくれ」
「承知しました」
は押入を開け、綿入れを取り出して土方の肩にかけた。
(このまま、習った歴史の通りになるとしたら…遠からず時代は明治に移るはず…そうなったら新選組は、土方さんは、どうなるのだろう)
書き物をする広い背中を眺めながら、はそっと胸に手を当てた。
その夜、京の空を厚い雲が覆い、雪が降った。
雪は音もなく一晩中降り続け、なんびとの足跡をも白くかき消した。
神谷は三日間の休みを屯所外で過ごして戻ってきた。
「さん、おはようございます!」
副長室へ休暇終了の挨拶に来た神谷は、休暇前とはうって変わったように元気いっぱいである。
「おはようございます、もう大丈夫なんですか?」
はその豹変ぶりに驚いた。
「ええ、三日もお休みもらっちゃいましたからね」
神谷は明るい太陽のような笑みを見せる。
「てめえは今日から三番隊に転属だ。さっさと斎藤のところへ行け」
土方が命じる。神谷は休暇が終わったら、沖田の訴えで三番隊に移ることになっていたのだ。
「はいっ!」
神谷は返事をして部屋を辞した。
あんなに仲の良かった沖田と別の隊になるのは辛いに違いない。だがきっと神谷はそれを乗り越えたのだろうとは考えた。
ともかく神谷が元気になってよかったと、は胸をなで下ろした。
ところが、その二日後。
は雪解け混じりの泥を跳ね上げ、木屋町通りに向かって走っていた。
神谷が賊に斬られ重傷だという連絡が松本から入ってきたのだ。
「松本法眼、山口です!」
は走ってきた勢いそのままに玄関を開ける。
「奥だ、入って来い!」
松本の怒鳴り声が聞こえてきた。
廊下を走って部屋に入ったの目に写ったのは、神谷が肩先を血塗れにして横たわる姿だった。
「神谷さん…! どうしてこんなことに…」
は羽織を脱ぐのも忘れ、布団の脇に膝をつく。
「今帰った一番隊の野郎どもと斎藤の話を聞く限りじゃあ…」
松本が説明を始めた。
三番隊に移動した神谷は、持ち前の明るさと器用さで、すぐ三番隊に馴染んだ。
しかし、今度は斎藤の様子がおかしくなった。神谷は斎藤を松本に診せ、いわゆる“欲求不満”との診断を得る。それを解消するために、斎藤を雪弥の元へ行かせようとするが、同道を断られた。
神谷が女子だと知り、斎藤は隠してきた想いを抑えきれなくなっていたのだ。だから雪弥の元にいってどうこうするなどあり得ない。
時間をつぶして帰営しようとした斎藤は、巡察中の沖田と出会った。そして賊と遭遇して斬り合いになった。
そこへ神谷が現れ、まだ息のあった賊が沖田を襲おうとしたのをかばい、後ろから右肩をざっくりと斬られてしまったのだ。
「一番隊って、沖田さんは?」
話を聞き終えたは沖田がいないことに気がついた。たとえ隊は変わっても、同じ場所にいたはずの沖田がここにいないなんて。
「沖田は曲がりなりにも一番隊の組長だ。現場の後始末に追われてんだろうよ」
松本は適当な大きさに切った晒しを取り、神谷の肩にあててあるものと交換した。
法眼に促され、も傷口を見る。すでに縫合はすんでいた。
「傷口は広いが深くない。ただ斬られたところが悪かったみてえで、血が止まらねえんだ」
「そうですか…」
は右肩に手をやった。まるで神谷の痛みが乗り移ったかのように、自分の肩がむずむずするのを感じる。
「こいつの世話を頼まれちゃあくれねえか」
松本がの肩を掴む。
「傷が治るまでは長い時間がかかるだろう。その間に俺は大坂に出向かなきゃならねえ時がある。南部も黒谷だの守護職邸だのお前らの屯所だのに行く用事がある。常にセイについてて治療してやれるのはお前しかいねえんだ」
「…え?」
「土方には俺から言っておくし、英吉利語の勉強についてはしばらく休めるよう、南部から肥後守様へ伝えてもらう。どうかこの通りだ、頼む!」
松本は頭を下げた。
「そ、それはもちろん、私でよければお引き受けいたします」
は松本に頭を上げてくれるよう頼んだ。
「そうか、頼んだぜ」
松本は眉を柔らかにして頷き、厠に行くと言って部屋を出た。
(“セイ”って…神谷さんの名前が清三郎だから?)
松本がついこぼしてしまった一言を、は聞き逃さなかった。
は神谷に向き直る。うつ伏せに寝かされた右肩からは新たな血がにじみ出ていた。
(本当に如心遷って、こんな完璧な女性の体になるんだろうか…)
元・男にしては余りにも肩の線がなだらかに見える。は晒しを交換して着物を引き上げ、布団をかけてやった。
翌日、沖田が木屋町を訪れた。
「おはようございます、沖田さん」
「さん、神谷さんは」
玄関先を掃いていたは沖田を家の中に連れていった。
沖田が松本に案内され神谷の様子を見ている間に、は茶を入れた。
「…俺にゃあもうきっとあいつは実の娘みてぇなもんなんだ」
松本の話し声が廊下の向こうから聞こえてくる。
“娘?”
は足を止めた。
その後の話に、は目を見開いた。
松本が、“セイ”を嫁に取って守るよう勧めている。
沖田は拒否している。“神谷”を守るどころか、二度も命を救われ、“女子”の体に一生残る傷跡を残してしまったと。
(セイ…神谷さん…女子…)
カチリとの頭の中で何かが組み合わさる音がし、盆を持つ手が震えだした。
沖田が神谷を助けてくれるよう必死に頼む。その沖田が、未熟な自分など昨日死んでしまえばよかったんだと叫んだ、その瞬間。
「何だとコノ野郎ッ!!」
命を粗末にする発言を聞くと、どかんと大きな音を立て、松本が沖田を蹴りとばした。
その声と音に驚いて、は盆を落としてしまった。
男二人がはっとして、廊下の角から転がり出る湯呑みを見る。
「…すみません」
は二人の前に出た。だが足下を気にするのを忘れ、こぼした茶の中に足を突っ込んでしまった。
三人は神谷を南部に任せ、二階へ上がった。
「聞いてたのか」
松本が切り出す。
「ごめんなさい、本当にすみません」
は畳にすり付けんばかりに頭を下げた。立ち聞きするつもりはなかったが、足が動かなかった。
「どこから聞いてたんでしょうか」
沖田がおそるおそる聞く。
「法眼が、娘みたいなものだとおっしゃってる辺りから…」
ちらりとは松本を見た。松本はぺちりと額を叩いた。
「じゃあ、その後も…」
「はい…」
ざらりとした空気が、三人を包む。
「…お願いします、さん」
すっと沖田の手が伸び、の肩を掴んだ。
「どうかこのことは、土方さんには言わないでください。神谷さんはずっと、本物の武士を目指してここまでやってきたんです。どうかお願いです、神谷さんが女子だということは土方さんに、いいえ、誰にも言わないでください…!」
まっすぐにを見つめてくる沖田の目は血走っていて鋭い。その朱がの心をとらえ、引きずり込んだ。
「わ、わかりました、わかりましたから手を…」
は顔をしかめる。
「あ、すみません、大丈夫ですか?」
沖田がいつの間にか力が入りすぎていた手を離す。はこくこくと頷きながら肩をさすった。
「神谷さんのこと、よろしくお願いします」
沖田はたちに何度も頭を下げて屯所へ帰っていった。
見送りを終え、家に入りながら松本が聞く。
「お前さんはいいのかい、あいつらにお前が女子だって話さなくて」
「え…」
自分と同じように、女子の身で新選組に在籍している者がいた。しかも局長の親衛隊である一番隊に。それを知っただけで今は頭がいっぱいだ。
「…考えさせてください」
には俯くしか出来なかった。
20110505