暗雲 2
「そうなんですよ、私たちもさんと同じぐらいに大坂にいたんですよ」
西本願寺の片隅に、というにはあまりにも堂々と立っている集会所の階段で、と神谷が座って話している。
「向こうで会えたらよかったのに」
神谷は足をぶらぶらさせながら言った。
「そうですね」
はその隣で膝を抱えていた。
が一橋慶喜の命を受け、大坂から兵庫へ通詞として呼ばれていた頃、実は神谷と沖田と近藤の三人も、当地の情勢を確かめるための任務を受け、大坂の地を踏んでいたのだ。
「視察は無事に終わったけど、局長は胃痛で倒れちゃうし…あ、それで、その時局長のお見舞いに来てくださった深雪太夫って方がとても美人で!」
神谷が身を乗り出し、その深雪太夫という妓について話しはじめた。
深雪太夫と近藤の出会いは、少し前にさかのぼる。大坂で新選組の評判が悪くなった際に近藤が局長直々に大坂へ赴いたときが最初だった。
谷三十郎の、あまりにも威圧的な巡察に、大坂市中は新選組を嫌い抜いていた。状況を確認した近藤は大坂を撤退することに決めたのである。
その時に、深雪太夫と出会ったのだ。
反新選組の輩と刀を抜いての乱闘になった、その最中を、堂々と太夫道中を行う深雪。巻き込まれて斬られそうになる寸でのところで深雪を助けたのが近藤だった。
「倒れた局長を、深雪太夫が助けられたお礼にって看病してくれたんですよ、ひと晩中」
「ひと晩中?」
「はい、ひと晩中!」
「そんなにお悪かったんですか、局長」
「え? あ、ああ、そっちか、はい、そうです」
「…あ、もしかして、ひと晩中って深雪太夫さんと」
「そそそそれ以上言わない! ほら、もともと局長は胃がお悪いじゃないですか」
「そうか…そうでしたね…」
は空に目をやる。そういえば近藤は時々胃を痛め、鎮痛薬を飲んでいたりした。
(局長は隊外との折衝もあるから大変なんだろうなあ…)
新選組も大きい組織になってきて、会津藩はもちろんのこと、各藩の重役や幕府の要人との繋がりも出来、様々なところへ顔を出しに行っている。
そうなったら当然、疲労もたまる。そんな時、今回の近藤のように、心身ともに癒してくれるのは、やはり女の人の存在なのだろうか。
ふとは土方の顔を思い浮かべる。
(土方さんもそうなのかな…あれ? そういえば…)
最近土方が遊びに行くのを見ていない。
(土方さんは…その…どうしてるんだろう…って、余計なお世話か)
はぼっと赤くなって、自分の顔の前で手を振った。
「さん…どうしたんですか」
急にひとりで挙動不審なことをしはじめたを、神谷はやや白い目で見つめた。
「こんなところで何油売ってんだ」
ばしっとの頭が叩かれる。
「いった」
が頭を押さえて後ろを向くと、土方が睨みつけながら立っていた。
「仕事だ、来い」
土方はそう言い、どすどすと廊下を踏みならして副長室へ戻っていく。
「はい。神谷さん、じゃあ」
は立ち上がって神谷に会釈する。
「はーい、頑張ってくださいねー!」
神谷は笑顔で手を振った。
「明日は幹部会だ。局長室を念入りに掃除しておけ」
後ろから追いついてきたに、土方が言う。
「かしこまりました」
は頷く。
「それから」
土方は突然足を止め、素早く周りに目を走らせると、に小さく囁いた。
(明日の幹部会、伊東の奴は欠席だそうだ。おかしな動きを見つけたらすぐに知らせろ)
(わかりました)
も小声で返事をし、ちらりと周囲を確認した。
伊東は妾宅を持ってから、屯所に顔を出している時間が短くなった。そう、特にこの数日は、江戸から戻ってきて疲れが出たとかで屯所に来ていない。
幹部会の開催を伊東の腹心である内海を通じて伝えると、まだ気分がすぐれないので欠席するのと返事が来たのだと土方が言った。
の袴の裾を、冷たい空気が撫でる。
足下から忍び寄るそれに、は思わずぞくりと体をふるわせた。
翌日、局長室で幹部会が行われた。
は茶を用意した後、会議の内容を書き留めるために部屋の隅に座った。
「では幹部会を始める」
全員が座ると、土方が低い声で宣言した。
「伊東参謀以外は皆、出席かな」
近藤が車座になった全員を見渡す。
そして各幹部からの近況報告で、幹部会は幕を開けた。
幹部会は欠伸をかみ殺さねばならないほど順調に進んでいた。
近藤から最後の議題が投げかけられる。
「今度の長州訊問使西下へのお供に、肥後守様から正式なお話をいただいた」
長州訊問使とは、たびたび幕府へ反抗的な態度をとり続けている長州藩へ、平たく言えば一体どういうことなのかと質問するために送られる、幕府からの正式な使者のことである。
近藤はその使者が派遣されることになると知るやいなや、長州の様子を探索してくる役目をぜひ仰せつかりたいと会津藩に頼み込み、同行の許可を得たのである。
「へーえ、そいつはすげえな」
永倉が顎の無精ひげを撫でながら言う。
「向こうに行ったらひと暴れすんのかよ」
原田が腕をまくる。
「いや、今回はただの視察だ。事を荒立てるような真似はしないさ」
近藤は苦笑いをした。
「でも、新選組の頭領ともあろうお方が長州入りだなんて、さぞかし向こうはびっくりするでしょうねえ。でも私がきっと先生をお守りいたします」
沖田がどんと胸を叩く。
「総司」
近藤が静かに沖田を見る。
「さっきも言ったように、今回はただの視察だ。ただの視察だからこそ、やらねばならぬことがある」
「え?」
よろしく頼むと言われるとばかり思っていた沖田は、近藤の言葉に首を傾げた。
「視察に同行してもらうのは今のところ、山崎君、武田君、尾形君。本当は伊東参謀にも加わっていただきたいのだが…今は無理だろうな。隊内屈指の論客なだけに、ぜひ同行していただきたかったが…」
「お伝えしておきます」
近藤に、伊東の代理の内海が深々と頭を下げる。
「ちょっと、待ってください」
沖田がゆっくりと頭を上げる。
「私は…私の名前が呼ばれなかったようですが…」
まさかと思い、は手元の書き付けに目を落とした。走り書きの紙面には、確かに沖田の名はない。
「お前は俺と留守番だ。では全員解散」
土方がすでに予想済みといわんばかりの口調で言う。
「な…」
沖田の顔色が見る見るうちに変わり、近藤と土方の元へと詰め寄る。
沖田は二人に食い下がる。今まで長州の人間を何度も手に掛けてきた新選組の頭が敵陣に突っ込んでいくなど危険きわまりない、その時に近藤の剣になるのは自分なのだと。どうか自分を供に加えてほしいと土下座までした。
しかし近藤も土方も頑として首を縦に振らない。それどころか、
「我儘を言うな総司!!」
と近藤が、敵の動きをも止める大音声で沖田を怒鳴りつける始末である。
その声の恐ろしさに、は筆を取り落としてしまった。
は慌てて筆を取るが、筆が落ちた紙には時すでに遅し、黒々とした墨が輪のように広がっていった。
近藤局長の護衛には、機転が利く山崎をつけること、今回の西下では隠密行動も必要になる可能性があるので正直すぎる沖田では不足だということを土方が沖田に告げた。
沖田は、局長室の障子を、大きな音を立てさせて閉じ、出ていった。
「沖田さん…」
普段の沖田ならそんな乱暴なことは、特にこの局長室では絶対にしない。さらに彼らしからぬ乱雑な足音が遠ざかってゆく。は沖田の後を追おうと腰を浮かせた。
「、追うな!」
土方がぴしゃりとの足を止める。
「余計なことすんじゃねえ」
「は、はい」
は再び座り込む。
会議の内容を清書するべく、は走り書きの書き付けを手に取った。
そっと近藤と土方のほうを見てみると、二人は短い言葉を交わし、黙り込んだ。
こちらに向いている近藤の顔も、背を向けている土方の後ろ姿も、何かを堪えているような雰囲気である。
沖田を突き放したのには何か訳があるのかもしれないと思いながら、は清書用の紙を取り出した。
翌日、表向きは荒い稽古をする沖田とは正反対に、落ち着いた様子で伊東が屯所に現れた。
「己の体調など気にしている場合ではないことを耳にしましたので」
と、体調を気遣う近藤を遮り、伊東は用件を切り出した。
「もしよろしければですが、西行きに私も同行させていただけないでしょうか」
伊東は幹部会を欠席して、妾宅を反幕府の隊士たちの拠点にする準備を進めていた。しかし会議の内容を内海から聞き、反幕府に燃えている西側諸国を訪ねるいい機会だと飛びついてきたのだ。
もともと伊東の参加を望んでいた近藤は、一も二もなく同行を許可し、さらには残りの人員まで話し合って決めてしまった。
西行きへの結束を固める近藤と伊東。
土方は一言も口を出さず、二人をただ見つめていた。
十一月四日、近藤たちが長州訊問使とともに西へ向かう日がやって来た。
空は晴れ、見送りの隊士に混じる沖田の顔も晴れやかである。
沖田は西行きへの同行を拒まれてから、己の気持ちを封じ込めるように隊務や稽古に励んだ。よそから見れば明らかにそれは、悪く言えば八つ当たりでしかなかった。
しかし、昨日。
もう一度近藤に同行を求めようとしていた沖田は、土方に呼び出された。裏庭に行った沖田は、そこに書状が落ちているのを見つけた。近藤の文字で、故郷に送る書状であった。
その書状には、すべてが書かれていた。
近藤が沖田を危険な西行きに同行させなかった理由が。
近藤は、自分に万が一のことがあったら、天然理心流の宗家を、四代目の自分の後の五代目を、沖田に継がせたいと考えていたのだ。だから沖田の同行を許可しなかったのだ。
近藤の真意を知って一気に心を氷解させた沖田の前に土方が現れた。土方は近藤の気持ちを沖田に理解させるため、わざと書状を落とし、沖田に読ませたのだ。
沖田は空以上に晴れ晴れとした顔で近藤に挨拶をした。
「必ず元気で帰ってきてくださいね!」
「うむ。約束する! お前も息災でな!」
近藤が沖田を抱き寄せる。
沖田の手が何かを言いたそうにもそもそと動き、やがて堅く握られた。
「神谷君、総司を頼むぞ」
近藤は沖田の体を離すと、すぐ側にいる神谷に沖田を預けた。
「はいっ!」
神谷は元気よく返事をし、沖田の横に並ぶ。
「君、トシをよろしくな」
今度は土方の腕をとり、近藤がに土方を渡す。
「おいかっちゃん、俺はよろしくされる必要ねえだろう」
九つも下の沖田と同列に扱われ、土方は不満顔である。
「ははは、そんなお前が一番心配だからだよ。君、本当によろしく頼むよ」
「はい、かしこまりました」
も土方の横に並びながら答える。
「土方君、君と長い間離れるのは寂しくて仕方がないよ〜」
伊東が土方に駆け寄ってきた。
「早く逝け!」
土方が刀を抜いて伊東の接近を拒む。
「おっと、くわばらくわばら」
伊東は切っ先から逃れてに近寄った。
「、君ともしばらく会えないのは辛いな。君も行かないか?」
「え?」
伊東の口調は軽かった。しかしの腕を掴む力は強く、このまま連れて行かれそうだった。
「冗談だよ。いい土産を期待していてくれ」
あくまでもからかいの口調で伊東は言うと、の腕を離した。
伊東は優雅な身のこなしで背を向けると、近藤を追って歩き出した。
「あの野郎、何を言いやがった」
土方が憤然としてに聞く。
「私も行かないか、と。もちろんご冗談ですけど」
は言われたことを土方に告げた。
「ふーん…」
土方はすぐに踵を返し、自室へ戻っていった。
(最後までお見送りしないのかな…)
は疑問に思いながら土方の後を追う。
はた、との足が止まる。
疑問と言えば、土方は何故伊東を監視出来ないところへ行かせたのだろう。そして何故大事な近藤を、警戒している伊東と一緒に行かせたのだろう。反対する素振りすら見せなかったのではないか。
(土方さんのことだもの。きっと、理由はあるはずだ)
聞いても答えてはもらえないだろう。でも、黙って土方を信じようとは思い、副長室へ向かった。
局長の近藤、参謀の伊東らは、こうして幕府の使節に同行して西を目指した。
その先々でもひと悶着あったことは言うまでもない。
が、留守を預かる面々にもまた、様々な問題が降り懸かるのであった。
20110421