暗雲 1
「トシ」
と、土方の部屋の前で声がした。
「お帰りかい、局長」
土方は声の主に向かって返事をする。局長の近藤が、会津守護職屋敷から戻ってきたのだ。
土方が、障子際で本を読んでいたを促し、は障子を開くと、近藤が部屋に入ってきた。
「調子はどうだ、君」
近藤が座りながらに声をかける。
「はい、おかげさまでもうすっかりいいです。長々とすみませんでした」
は畳に手をつき、近藤に頭を下げた。
「いやいや、具合が悪いときは誰にでもある。いいんだよ」
近藤は深い笑みをに向けた。
「で?」
ごほんと土方が咳払いをする。
「肥後守様とのお話はどうだったんだ」
「ああ」
近藤が土方に向きった。
守護職屋敷で松平容保と会見してきた近藤は、朝廷がやむなく三つの港を開港し、関税の引き下げを余儀なくされたことを嘆いた。
「攘夷が容易でないことは承知しているが…やはりいい気はせんな」
近藤はそう言って眉を寄せる。日本を取り巻く世情や松本法眼との出会いで、近藤も外国に対抗するには今までの攘夷では無理だとわかっている。
外国の技術を受け入れ、国力を付け、その後に改めて外国と対峙する。いわゆる遠謀攘夷を考えていた近藤だが、それでも神国日本が夷人に少しずつ開かれていくのを目の前にして、心穏やかではいられないようだ。
「それに…一橋公がなあ」
「一橋公が?」
「豚一公がどうかしたのか」
腕を組んだ上にため息をはく近藤に、も土方もぴくりと反応する。
「ああ、先日、政務輔翼を任せられたそうだが、かなりしぶしぶだったそうだ」
近藤が松平容保から聞いた話では、一橋慶喜ははじめ任につくのを頑なに拒否していたそうである。それを将軍・徳川家茂と松平容保とで何とかなだめ、就任を認めさせたそうだ。
(一橋公…)
はこの前一橋慶喜と会った時のことを思い出す。
あの、血を吐くような公の叫び。きっとあの時、一橋慶喜の心は折れてしまったのだろう。それでも将軍と松平容保の要請を受けて踏みとどまったのは、
まだ彼の中に徳川家を思う心があったからだろうか。
「フン、あのお方のやりそうなこった」
土方が毒づく。
「嫌だ嫌だつっときながら、引き留められるのをしぶしぶ受けるなんざ、もったいぶってやがる」
「おい、トシ」
「俺は気にいらねえ」
国を支える立場にありながら、あまりにも勝手すぎる。土方はそう思って煙管に煙草を詰めはじめた。
「まあそう言うなよ」
苦笑しながら近藤が座り直す。
「外国の船がすぐそこまで来て、幕府も朝廷も混乱しているんだろう。一橋公が二の足を踏まれるのも無理はないさ。我々がどんな形でもお支えしていけばいいじゃないか」
「…ったく、あんたってやつは」
土方がふーっと煙を吐き出す。
近藤にそう言われては土方に返す言葉はない。近藤が信じているなら、土方はそれについていくだけなのだ。そんな様子を見ていると、の口元には笑みが浮かんできた。
「お茶、淹れてきますね」
とが立ち上がった時、どたばたと複数の足音が聞こえてきた。
が障子を開いて廊下に一歩踏み出ると、そこへどんとぶつかってくる者があった。
「あ、い、伊東参謀? ご無礼を」
がぶつかった額を押さえながらその影を見上げると、それは伊東であった。
「こちらこそすまないね、急いでいるものだから」
伊東は早口でに謝罪する。その顔は青白く、よほど急いで走ってきたのか、息も切らしている。
伊東の後ろでは同じく肩で大きく息をしている三木三郎がいた。
「局長、失礼します。火急にご相談申し上げたいことが」
伊東は土方の部屋に入ると、近藤の前にばっと座った。
「どうされました、伊東参謀」
彼らしくない慌てぶりに、近藤は身を乗り出す。
「実は今、江戸の妻から手紙が参りまして、母が倒れたとの連絡が入りました」
伊東は懐から書状を取り出し、近藤の前に差し出した。
近藤はそれを受け取り、畳まれた紙を開いて中身を改める。伊東の妻から、美しい筆跡で、同居している伊東の母が倒れ、意識が戻らないという内容が書かれていた。
「長くないかもしれないので、一目母と会っておきたいのです。もしお許しいただけるのであれば、私とこの弟の三木に、しばしの休暇をいただきたい」
伊東が畳に手をつき、頭を下げる。三木も伊東の後ろで同じく頭を下げた。
「面をお上げください、参謀。こちらのことはご心配なく。お母上とゆっくり会ってこられるといいでしょう」
近藤が前に進み出て、伊東の手を取る。
「…ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
伊東は近藤の手を固く握りしめた。目にはうっすらと涙すら浮かべていた。そして来たとき以上の早足で局長室を去っていった。
「大変なことになったな、伊東参謀は…。君、勘定方に行って、参謀たちに見舞いと路銀を用意して差し上げるよう頼んできてくれないか」
近藤がに指図する。
「かしこまりました」
は頷いて、すぐに勘定方の部屋へ向かった。
「失礼します、山口です。局長から言付かってきたのですが」
が勘定方の部屋を訪れると、会計を任されている河合耆三郎が、慌てたように帳面の上に覆い被さった。
「あ、ふ、副長の小姓の山口さん」
河合は入ってきたのがだとわかると、作り笑いを浮かべて、そろそろと帳面を膝の上に引きずりおろした。
「あの、伊東参謀がお母上のお見舞いで江戸に戻ることになったので、局長がお見舞いと路銀を…と」
「は、はい、わかりました。ただちに用意いたします」
が近藤の用を述べると、河合は首から下げた紐の先にある鍵を、金箪笥に差し込んだ。
(伊東参謀、よっぽどお母様のことがご心配なんだなあ)
用意してもらっている間、は伊東の態度を思い出していた。いつもは副長室に来れば土方君土方君と、土方にまとわりついているのに、今日は一瞥もくれずに休暇を申し出ていた。
「おまたせいたしました。これでよろしいですか?」
河合は金を包んだふくさをに渡した。はふくさを開いて中身を確かめる。
(河合さん、今はひとりでお仕事?)
は素早く室内を見回し、他に誰もいないことを確認する。
「いやーすまんすまん河合、ちっと腹壊したみてえで。遅くなった」
別の勘定方の隊士が部屋に入ってきた。
(ひとりなんて、そんなわけないか)
は河合に礼を言って勘定方を後にした。
伊東と三木は近藤から金を受け取ると、心遣いに感謝してすぐに屯所を出発した。
「回復されるといいな」
近藤は屯所の外で二人の後ろ姿を見送りながら呟いた。
「あんただって、周斎先生の見舞いに行きてえんじゃねえのか」
土方が聞く。近藤の養父・周斎も、土方たちが四月に江戸へ行った時、床の上から挨拶をしていた。
近藤は薄く笑うと、屯所の中に戻っていった。
近藤に続き、土方も中へ入っていく。もその後ろに従う。
(お母さん、か…)
母と京都へ旅行に来て、なぜだかわからないがこの時代に落ちてきた。あれから二年半近い時間が経つ。母はどんなに心配しているだろう。
そして、自分の母だけでなく、入れ替わってしまったであろうの母のことも気にかかる。
の母から、時折手紙が来る。元気にしているか、従兄弟である斎藤に迷惑はかけていないか、小姓として世話になっている土方とはうまくやっているのかなどがつづられているのだ。
には返事を書くことは出来ない。いくら見た目はの振りをしていても、筆跡までは誤魔化せないからだ。
だからいつも、返事は斎藤に書いてもらっている。新選組副長の小姓として真剣に修行をしている間は、自ら家族に手紙を書かないと意地を張っていることにして。
「あいつにはそういうところがあるから」
と斎藤が決め、の実家に書いて送ったところ、向こうもあっさり納得したらしい。
それでもの母は、ぽつりぽつりと手紙を寄越す。 そのたびには後ろめたさを感じながらも、斎藤に代返を頼むのであった。
土方たちは、伊東たちの戻りはひと月ぐらいは先になるかと考えていた。人の足では江戸に行くだけで十日と少しはかかる。母の看病をし、別れを告げてまた京へ戻ってくればそのぐらいの日数がかかると踏んでいた。
ところが、伊東たちはもっと早くーーー二十日ほどで西本願寺に戻ってきたのだ。
「参謀、随分お早いお戻りだが、いかがなされた?」
戻りの報告のため局長室を訪れた伊東に、近藤が問うた。
「大変申し訳ありません局長。お心遣いまでいただきながら江戸に戻ってみれば、実は…」
伊東は膝の上の手を固く握り、唇を噛む。
「妻の、虚言でした」
「奥方の? それは一体…」
近藤は目を見開く。
「妻が、僕に嘘の書状を送りつけてきたのです」
と伊東は、江戸でのことを語りはじめた。
道中、ところどころで早駕籠を乗り継ぎ、伊東たちは十日間で江戸に着いた。すぐに三田の自宅へ向かうと、倒れて意識のないはずの伊東の母が、庭で水をまいているではないか。
「甲子太郎? それに三木三郎? お前たち、京から戻ってきたのですか? 戻るなら戻ると一言知らせてくれても…」
伊東の母は驚きながら二人に歩み寄った。
「母上こそ…我々は母上がお倒れになったと聞いて、取るものもとりあえず戻ってきたのですよ?」
伊東は元気そうな母の姿を、上から下まで何度も見た。
「申し訳ありません、甲子太郎様。母上様がお倒れになったというのは、わたくしの作りごとでございます」
そう言いながら伊東の母の後ろに、伊東の妻が現れた。
「おウメ…お前の、作りごとだと?」
伊東はどういうことかと、妻へ目を向けた。
「甲子太郎様、ウメは寂しゅうございました…甲子太郎様は我が父に認められ、わたくしと縁を結んでくださいました。しかし、突然京へ行くとおっしゃって…」
ぐすん、とウメは鼻を鳴らし、そっと目元を押さえた。
「甲子太郎様のいない江戸は大変寂しく、京は殺伐として斬り合いも起こっているとの噂に、わたくしは耐えられなくなりました」
「それで、お前はこんな書状を僕に送ったのか…」
伊東の手が震える。
ウメは小さく頷き、伊東にすがりついた。
「お願いでございます、甲子太郎様! もう京へはお戻りにならず、このままわたくしたちとまた道場を開いて過ごしてくださいませ! わたくしには国事よりも甲子太郎様のお命のほうが…!」
「それ以上言うな、ウメ」
伊東は冷たい声でウメに言うと、ウメの体を引きはがした。
「この痴れ者が! お国のために夫が身を粉にして働いているというのに、武士の妻がそのようなことでつとまると思うのか! それに母をだしにするとは不届きな…!」
そう言い捨てると、伊東は家の中に駆け込んだ。怒りに燃えた背中を誰も追うことが出来ず、伊東の母と妻、三木三郎は外で立ち尽くしていた。
ややあって伊東が外へ戻ってくると、手にした紙をウメに押しつけた。
「お前とはもうこれまでだ。どこへなりと消えるがいい。二度と僕たちに近寄るな」
紙には、ウメと離縁する旨が書かれていた。
「甲子太郎様…!」
ウメはぼろぼろと涙をこぼす。
「甲子太郎、お前の気持ちはわかりますが、これはあまりにも…」
伊東の母も、突然の話にウメの肩を抱く。嫁姑の仲は悪くなかったようだ。
「母上、この甲子太郎、今目が覚めました。これからはこの命、今まで以上にお国のために使っていく所存にございます」
伊東は懐から財布を取り出し、帰りの路銀分を引くと、残りを全て母に預けた。
「これで当座はしのいでください。母上が毎月きちんと生活できるよう、京に着いたらすぐに手配しておきます。母上がお元気で何よりでした」
伊東は母の手を握り、その足でまた京へと戻ってきたのであった。
「左様でしたか…しかし離縁までとは」
話を聞き終えた近藤は、深く息を吐いた。
「このような理由での不在など、まったくお恥ずかしい限りでございます。母にも誓いましたが、この伊東、これまで以上に力を尽くして働いて参ります。では」
伊東と三木は深々と近藤に頭を下げ、自室へ戻っていった。
「参謀、辛いだろうに…」
近藤がぼそりと言う。
同席していた土方は、ただ黙って伊東が出ていった障子を見据えていた。
(新選組に入って、ゆっくりと内部から変えていこうと機をうかがっていたが…僕としたことが、何をのんびり構えていたのだ)
伊東は常ならぬ足音を立てながら廊下を歩く。
(僕は幕府の犬に成り下がるために道場を畳み、母を置いて京まで来たんじゃない。お国のため、天子様のために来たんだ)
伊東の目に力がこもる。
この江戸行きをきっかけに、伊東は近藤と異なる轍を刻んでいくことになる。
これが後に、「隊を脱するを許さず」の鉄の掟をも動かし、伊東の命運も、ひいては近藤たちの命運をも動かすことになろうとは、まだ誰も気づかないのであった。
20110414