久遠の空 ドリーム小説 港 15

update:2011.02.11

港 15 

 「そうか、ご苦労だったな。お前も少し休め」
 山崎から大坂での子細を聞いた土方は山崎にねぎらいの言葉をかけて下がらせた。そして文机に向かい、己の仕事に没頭した。

 辺りが暗くなり、西本願寺の門が閉じられる。参拝客がいなくなった境内に静寂が訪れた。その時分になってもまだは高い熱のまま、目を覚まさなかった。


 翌日、土方は、屯所に回診に来た南部にを診てもらった。
 「極度の緊張による疲労でしょう。数日ゆっくりさせてあげれば問題はありませんね。疲労回復の薬を出しておきますから、 起きたら飲ませてあげてください」
 土方からの大坂行きを聞いて診察した南部は、細い目尻を下げて言った。

 こんこんと眠り続けたがやっと目を覚ましたのは、その日の夕方だった。
 土方が行灯に火を入れての枕元に掲げ、その顔を覗き込み、額にかかる髪を指ですいた時。
 「ん…」
 ぴくりとの瞼が動き、睫の間で瞳が光った。
 「やっとお目覚めか」
 安堵する心を隠し、土方は皮肉めいた口調でに話しかける。
 「あ…土方さん…?」
 はゆっくりと目の前の人物に焦点を定めた。

 は布団から手を出し、自分の顔の横に置かれている土方の手を握った。
 ようやく土方の元に戻ってこられたのだ。携帯に入っている写真ではなく、本物の土方がいる。

 「ふふっ」
 は小さく笑った。
 「何だ」
 土方は訝しげに眉を寄せる。
 「だって…土方さん、同じ顔なんですもの…」
 写真の中と同じ、渋い顔をした土方が自分を見下ろしている。同じ土方なのだから当たり前なのだが、その表情が土方らしくてはほっとし、つい笑みがこぼれた。

 その時、はふと思いついた。
 もう充電は切れているはずなのに、いつまでも電源が入り続ける携帯電話。いつまでも長くならない髪や爪。もしかしたら、自分の周りの一部では時が止まっているのかもしれない、と。

 もし、そうだとしたら。
 携帯の電源が入り続け、どこにいてもいつでも土方の写真が見られることは、たったひとりこの時代にとばされた自分の心の支えなのだ。
 そう思うと、の口元にはまた笑みが宿る。


 「…だいたいお前な」
 一日以上眠り続けて心配していたのに、この笑顔。
 土方はますます安堵したが、安堵するほどに心配したのが馬鹿らしくなり、こめかみに青筋が立つ。

 「黙ってふらふらしやがって、この野郎」
 「今回は…ちゃんとお手紙書きましたよ? 届いてませんか?」
 「手紙が届く届かないの問題じゃねえ。何だってそうすぐ面倒事に巻き込まれんだ」
 「だって…仕事ですから…」
 「自然の水に落ちたら厄介なことになるってわかってんのに、川だ海だってほいほい出かけてんじゃねえよ」
 「…そう言われれば、そうでした…」
 「おまけに夷狄を大坂案内だ? くだらねえ弱みにつけこまれやがって。余計なことするからだろ」
 「それは…反省してます…でも…」
 「あ?」
 「…仕事、ですから」

 はそう呟いて土方を見上げる。
 (仕事仕事って、仕事と俺とどっちが大事なんだ)
 と土方は喉まで出かかったが、彼女が通詞の大役をこなしてきたのは事実だ。土方は言葉を腹の奥底まで飲み込んだ。

 「…すみません」
 が神妙な面もちになる。
 「自分でも…気づかないほど、緊張していたみたいです。仕事だったのに終わった途端こんな様、副長の小姓として失格ですよね…」
 は額に手の甲をあてがった。体も熱いが、額が一番熱く感じる。
 慶喜公から仕事を受けて、ずっと感じていた静けさ。心は常に落ち着いていると思っていた。それは緊張の糸がぴんと張っていただけだったのだ。
 仕事が終わった途端に、押さえつけていた緊張がぷつりと切れ、一気に熱となって体に出てしまったのだろう。は情けないとばかりに小さくため息をはいた。

 「ああ、まったくだ」
 土方は悪態をつく。だが、本当はそんな風に思っていない。もしこの程度で小姓失格だと思ったら、とっくに屯所から叩き出している。
 が目元まで布団を引き上げ、本当に小姓失格になるのかと目で訴える。土方はの前髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

 「お前が寝ている間に南部先生に診てもらった。しばらく安静だとよ。ほら、薬だ」
 土方は室内の火鉢にかけておいた鉄瓶から湯呑みに湯を注ぎ、水で割ってぬるめた。そして用意してあった虚労散薬の分包をに見せた。
 「それ…石田散薬と同じ、土方さんの家伝のお薬ですよね…南部先生が診てくださったのに、どうして南部先生のお薬じゃないんですか…?」
 はそれを見て、素直に疑問を口にした。

 土方は言葉に詰まった。
 南部の見立ては信用しているが、もらった薬は隠した。疲労回復の薬なら自分の家に伝わるものでもいいではないか。大事な彼女には、特に家伝の薬を飲んでよくなってもらいたいのだ。

 「いいから飲め」
 土方はの体を起こそうとする。
 「ごめんなさい…今まだ、何も口にしたくないんです」
 が緩く首を振った。
 「飲むもん飲まなきゃよくならねえぞ」
 「わかってますけど…」
 ちら、とは土方の手にある分包に目をやり、すぐに閉じた。ようやく目を覚ましたばかりで、本当に何も口にしたくなかったのだ。
 しかし土方にはその態度が、まるで家伝の薬を信用していないかのように思えた。

 土方は口にぬるま湯を含み、続けて分包を開いてその中身も口に放り込む。
 そして横になっているの背に片方の手を入れ、もう片方の手で顎を持ち上げて口づけた。

 「…!」
 突然の出来事に、は固く目をつぶる。
 逃げようにも顎を押さえられているし、熱に支配された体は言うことを聞かない。

 僅かに開いていた唇の隙間から、口移しで薬が流し込まれる。は仕方なくそれを飲み込んだ。
 苦かったが、薬はゆっくりと、少しずつ流れ込んできて、何とか全て飲み込むことが出来た。

 しかし、土方はまだ唇をつけたままだ。
 それどころか、今度は歯列を割って舌を差し入れてきた。

 生暖かい感触がの口の中で暴れ回る。
 狭い中、逃げ場がなくおろおろすることも出来ないの舌を土方がとらえ、強く吸い上げる。
 柔らかい舌が土方の歯で甘く噛まれ、同時に顎を戒めていた手が離されて、の手を求めてさまよう。
 土方の手が、布団を握りしめるの手にたどり着くと、細い指に節くれ立った指が絡められた。

 抗わなくてはならないのに、抗えない。
 苦い薬の後の、甘い口づけ。
 熱で何もわからない、そう思いこんで、は土方に従った。




 「相変わらず下手なまんまか」
 の耳に、低い声が響く。
 「なっ…」
 雰囲気に飲み込まれてぼうっとしていたは、急に冷水を浴びせかけられた気になった。
 「ったく、通詞ではぺらぺらしゃべるほど達者なのに、同じ口たあ思えねえな」
 土方がくつくつと笑う。
 「そ、それは関係ないじゃないですかっ…」
 は真っ赤になって土方の肩を叩く。だが力の入っていないそれは、ぺしぺしとしみったれた音を立てるだけだった。

 「もう寝ろ」
 土方はの手を取ると布団の中に入れた。
 「明日はちゃんと自分で薬飲みますから」
 は布団の端から顔だけを出し、土方を睨みつける。
 しかし土方にはその顔は可愛らしいだけだ。
 「遠慮すんな。明日も早くよくなるまじない付きで飲ませてやるよ」
 「結構ですっ…」
 は深く布団を被った。


 暗い布団の中で、はそっと唇に触れる。
 心配して、薬を飲ませてくれただけなんだから。
 ついで、なんだから。
 余計なことを考えちゃだめと自分に釘を差す。


 でも。
 それでも。
 今あったことは本当。
 土方が自分を気遣ってくれたことが、ただ嬉しい。
 は熱に引き込まれるように、眠りの淵に落ちた。


 そのに背を向けた土方も、文机の前で己の唇に触れた感触を思い出していた。
 が水の多い場所での仕事を無事にこなして戻ってきた。この腕でそれを確かめることが出来、心に凪が訪れた。



 しかし土方に、新選組に一息つく暇はなかった。
 朝廷が、無断で兵庫開港を決定した阿部豊後守と松前伊豆守の両老中を罷免したことは、大坂城の将軍、徳川家茂にも届いた。将軍らはそれが朝廷の覚えもめでたい一橋慶喜の所行であると勘違いをし、 将軍は辞表を提出。後は慶喜公と朝廷でよろしくやってくれと言わんばかりに、江戸へ帰ろうとしてしまう。

 その将軍東帰を阻止するべく選ばれたのは、新選組局長・近藤勇と一番組組長・沖田総司、それに神谷清三郎であった。
 とほぼ同時期に、浮之助こと一橋慶喜は大坂の新町で彼らと出会っていた。その忠誠心から必ず将軍家茂を足止めしてくれるとふんで、 近藤たちを呼び寄せたのだった。

 慶喜公の思惑通り、近藤たちは伏見にて将軍一行の歩みを止めることに成功し、その場に現れた慶喜公の説得で将軍は二条城に向かい、事なきを得た。密かに隊士たちを潜ませていた土方はその報を監察から聞き、二条城に向かう将軍の警護の末席に隊旗をなびかせた。

 慶喜公は今度こそ勅許あっての通商条約を実現しようと、在京の諸藩士、公卿、大名らを召集して会議を開く。
 そして諸藩の総意として朝廷に条約の勅許を迫り、時には脅し文句も混ぜて、十月六日にとうとう勅許を得たのであった。
 勅許には条約締結のほか、長崎・横浜・箱館の開港、それまで二割だった関税を五分まで引き下げることが盛り込まれていた。 その代わり、京都に近い兵庫を開港することは不許可とした。

 大坂まで来ていた外国勢は勅許におおむね満足を示し、十月八日に出航していった。


 「無事に帰りましたね」
 倒れてから十日ほど経ち、やっと床上げをしたが 手にした書状から顔を上げた。
 書状は慶喜公からで、急な呼び出しに応えてくれたことへの感謝と体調への気遣いの言葉、貸した着物はまたいずれ必要になるかもしれないので 保管しておいてほしい旨が書かれており、褒美として多すぎるほどの金子が添えられていた。

 実はは、勅許が降りた後に外国勢と交渉する場にも通詞として呼ばれていたのだが、まだ起きあがれる状態ではなく、断ってしまったのである。 それなのにたった一回の通訳で褒美をもらうなど、の胸は痛んだ。
 「もらえるもんはもらっとけ」
 相談した土方は、事も無げに言い放った。


 は廊下に出て、青い空を見上げる。冷たい空気に澄んだ、高い空を。

 通訳は大変な仕事だった。相手が英語で言うことを聞きつつ日本語に直して口で伝え、またその逆も行わなくてはならなかった。しかも正確に、だ。 ただハーバーと英語で話している時よりも神経を使った。

 (ハーバーさん…)
 は着物の上から懐の金時計を確かめる。
 師はもういない。
 自分は、ハーバーという港から抜錨することを余儀なくされた。
 しかし彼は自分の心に大切なものをたくさん残していってくれた。
 は空に向かって手を合わせる。

 気がつくと、隣にいつの間にか土方が立っていた。
 その横顔を見ながらは思う。
 いつでも、自分が帰ってくるところはここなのだと。
 いつどこへ行っても、必ず土方の元へ帰ってくるのだと。

 は土方の肩に頭をもたれ掛からせる。
 土方の手がの腰に回った。



 時は幕末、徳川幕府にとって最後の慶応年間。その元年は、最初の数ヶ月がようやく過ぎたところであった。








 20110210