久遠の空 ドリーム小説 港 14

update:2011.02.05

港 14 

 慶喜公に託された仕事を終えたは、またの呼び出しに備えて新町に宿泊を命じられていた。 はいつかわからない呼び出しを待つべく、宿泊先から一歩も出ずに過ごしていた。
 必要なものはすべて山崎が用意してくれた。山崎は、いつも隣の部屋では宿の者に怪しまれるだろうと、今度は隣でない場所に部屋を取るという周到ぶりだった。

 数日後、の元へ新門辰五郎がやってきた。
 「山口さん、若からの伝言をお届けに参りやした」
 部屋に上がった辰五郎は、がっしりした体躯を折り曲げてに頭を下げる。
 「ありがとうございます。承ります」
 いよいよ呼び出しかとは背筋を緊張させた。

 だが、慶喜公の言葉はの予想と正反対のものだった。
 「“京に戻れ”と」
 辰五郎が短く言った。
 「…え? 京に?」
 は耳を疑う。
 「へえ、山口さんの任務はもう仕舞いで、すぐ京に引き上げろとのことです」
 「でもまだ外国の方々への応答が…」
 外国が求めてきた条約勅許、兵庫開港、関税率の変更に対応するため、慶喜公は使者と自分を使って十日という引き延ばし期限を設けた。
 その十日間で慶喜たち幕府側と天皇の朝廷側とで結果を出す。その結果を伝える補佐をするために、自分はここに留めおかれていたのだとは思っていた。

 「詳しい話は京に戻って、若からお聞きください。若の元へお連れいたしやす」
 「わかりました、お願いします。荷物をまとめますので待っていただけますか」
 は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった英吉利語の自作辞書や書き付けをまとめる。
 そして、
 「ちょっと厠に」
 と言って部屋を出た。

 は厠へ向かうふりをしながら山崎のいる部屋へ行った。
 (山崎さん)
 部屋の襖を指の腹でぽんぽんと叩くと、中から山崎が顔を出した。
 (はん、どないしはりました?)
 (今、辰五郎さんが迎えに来てくださって、京に戻ることになりました。公にお会いします)
 (わかりました。後ろからついていきます)
 (後は帰るだけですからいいですよ? 公にお会いしたらまっすぐ西本願寺に帰りますから。山崎さんもお忙しいでしょう?)
 (そうはいきまへん。途中で何かあったら副長に顔向け出来まへんから。はんにも気づかれないようについていきますから、気にせんと京へお戻りください)
 山崎は笑い、の肩を叩く。
 はその笑顔に安堵し、お願いしますと頭を下げて部屋へ引き返した。


 辰五郎に連れられて新町を出たは、船着き場から船に乗って大坂を後にした。
 山崎がついてきているはずだが、きょろきょろと船上の客を見回しても山崎の変装らしい人物が見あたらない。 山崎の言うとおり、自分にわからないように見事な変装をしているのだろう。
 は荷を抱えると、京に着くまで一眠りすることにした。


 夜に出立したので、京の伏見に到着したのは明け方だった。は船に酔い、よく眠れなかった。船から降りた時の顔は真っ青になっていた。
 「大丈夫ですか? 若は祇園にいます。“あのご様子”ではしばらく遊んでいると思いますから、駕籠でゆっくり行きやしょう」
 心配した辰五郎が駕籠を呼び、は素直にそれに乗った。
 は京らしくしずしずと進む駕籠の中で、目を閉じてゆっくりと呼吸をし、少しでも体調を回復させようと試みた。


 駕籠がそっと地面に降ろされる反動で、は目を覚ました。
 「山口さん、着きました。降りてください」
 辰五郎が外から声をかける。
 は少しだけ吐き気が収まった体を引きずるようにして駕籠から出た。
 朝の澄んだ空気がの肺を満たし、は幾分か気分がよくなる。

 しかし、その空気を大きな声が破った。
 「ちくしょう…!」
 続けて薄い陶製の物が割れる高い音がし、は思わず音のする方へ振り向いた。
 道に破片が散らばっている。その小さな欠片には色とりどりの着色がなされており、豪華な雰囲気を漏らしていた。
 破片の前には茶屋がある。小さいが、紅殻格子の立派な店だ。その二階から、くだを巻く声がしてきた。
 「ああ…」
 の隣で辰五郎が天を仰ぐ。
 「山口さん、こちらです」
 辰五郎はを促し、その店に入っていった。
 はまさかと思いながら、辰五郎の後についていった。

 「よう、、戻ったか。こっちへ来な。新門は下がれ」
 二階に上がると、がまさかと思った相手――浮之助こと一橋慶喜がいた。一晩中飲んでいたのか、ひどく酔っぱらっている。室内に酒の匂いが充満していた。
 「大坂より戻りましてございます」
 辰五郎が部屋を辞すと、は慶喜公の前に座って頭を下げた。

 「摂海での勤めについてご報告申し上げます」
 ひれ伏した姿勢のまま、は兵庫沖の艦上であったことを慶喜公に伝える。
 慶喜公は手酌でぐいぐいと酒を飲みながら話を聞いた。

 「ご苦労さんなこった」
 慶喜公が肩で笑い、ほつれた髪が揺れる。
 「だがな、残念なことに馬鹿にされたんだよ、俺たちはな!」
 ひゅっと何かが空を切る音がし、続けて壁に物が当たる音がした。ははっと顔を上げた。慶喜公が持っていた杯が壁際に転がっていた。

 道に落ちていた欠片が、の脳裏に浮かび上がる。
 あれを投げたのはこの慶喜公に違いない。
 そう思った刹那、慶喜公の手がの肩に掛かり、は畳の上に転がされた。

 背中を打ちつけ、は再び胃の底がざわざわとし始めた。
 「幕府の能なしどもめ…!」
 見上げれば、黒く塗られた天井に金銀の紙が散らされている。それを背景にした慶喜が、目を血走らせてぎりと奥歯を噛みしめた。

 「余がそなたたちに命じて外国の公使どもから十日の返答期限延期を取り付ける直前に、老中たちが兵庫開港の決定を朝廷に報告しておったのだ。 そなたたちが摂津に向かうのをわかっていながら、な」
 「えっ…?」
 朝廷は兵庫開港に否定的だったのではなかったか。天皇の希望通り、開港を不許可に持っていくのが、征夷大将軍を朝廷より預かる幕府の役目ではないのかと、 は目を丸くする。

 「長く外国と折衝してきた幕府が、もう国を開いて外国と国交を結ばねば日本が生き残っていけぬと考えているのは余にもわかる。 しかし、外国の連中の言うことをすべてほいほいと受け入れていたら相手の思う壷ではないか!」

 息を吸い込むと慶喜公は続けた。
 「それに、朝廷の顔も立てねばならぬ。今回は何としても、帝がもっともご心配されている兵庫開港を阻止せねば、ますます帝の御心は固く閉ざされるであろう。 それを朝廷に説いて、条約勅許及び関税率の引き下げと引き替えに兵庫開港不許可を持ち出すつもりであったのに…」

 の肩に食い込む慶喜公の手に、さらなる力が込められる。
 だがは痛みをおくびにも出さず、慶喜公の言葉に耳を傾けている。

 「老中二人は朝廷から勝手な真似をしたと、罷免を言い渡された! 余が兵庫開港を撤回して十日の期限延期獲得を奏上したのにも関わらずな。 幕府の人事権など、朝廷に口出しされる覚えもないのに」
 くくっと慶喜は自嘲する。


 「幕府にも朝廷にも…余と同じ辛酸を舐めてでも日本国を、帝をお守りしようと思う者は一人もおらぬ…!」
 血を吐くような、悲痛なかすれ声が二人の間に響いた。


 「お寂しいの、ですか」
 しんとした空気に、澄んだ声が染みる。
 今度は、言われた慶喜公が目を丸くした。

 英明の誉れ高いと噂される一橋慶喜。
 どの道が幕府にとって、日本国にとって最善なのか、彼には見えているのだろう。
 だがそれを口にしても誰一人賛同してくれる者もなく、経過を批判めいた目で見つめ、やっと出した結果までも嫌み混じりの誉め言葉しかかけてもらえない。
 そんな境遇を、目の前の男はずっと一人で味わってきたのだろう。



 「…寂しい? 余が?」
 慶喜公が長い静寂を破った。
 「余は水戸徳川家に生まれ、一橋家の当主になった。禁裏守衛総督と摂海防禦指揮も任される、帝の覚えもめでたい余が、寂しいと?」

 の肩から、慶喜公の手が離れた。

 「行け」
 慶喜公はに背を向け、片膝を立てる。
 「興が冷めた。また用が出来たらそなたを呼び出すことにする。それまで余の前に姿を現すな」

 だがは動かない。
 「早く西本願寺に戻れってんだ!」
 ばっと慶喜公が振り返る。

 その目に映ったのは、が仰向けに倒れたままの姿だった。


 慶喜は店の者に言いつけ、を駕籠で西本願寺まで送り届けるよう頼んだ。
 意識のないを乗せた駕籠が、なるべく揺らさぬよう静かに進んでいく。
 駕籠が視界から消えるまで、慶喜公は茶屋の二階からそれを見送った。

 「山口…痛いところを突いてくれるではないか」
 慶喜公はそう呟くと、杯に満たした酒を呷った。




 は西本願寺に着いても目を覚まさなかった。
 「お届けもんですわ」
 駕籠かきが太鼓楼前の門番に話しかける。
 「届け物?」
 門番がいぶかしむ。
 「副長はん宛でっせ」
 そう言って駕籠かきの一人は額の汗を拭う。
 駕籠かきは、山崎だった。


 駕籠が土方の部屋の横につけられ、は副長室へ運び込まれた。布団が敷かれ、土方の手で静かに横にされる。
 「何があった」
 眉間に皺を深く刻み、土方が山崎に問う。
 「戻ってきてから説明しまっさかい、お待ちください」
 駕籠かき姿の山崎は駕籠を返しに行った。

 山崎はあちこちに人脈を作っており、先ほど慶喜公とがいた店にも入り込んでいた。
 駕籠を呼ぶことがわかるとすぐ、これまた繋がりのある駕籠屋に協力してもらい、自分を駕籠かきの片方にしてもらってを運んだのであった。

 山崎が駕籠を返し大工の扮装になって屯所の副長室へ戻ってくると、の額には冷たい布が載せられていた。
 「熱が出てきやがった」
 土方が桶を傍らに置いて、手を拭きながら言う。桶の隣には石田散薬と虚労散の袋、そして水の入った湯呑みがあった。

 「これはこれは、お優しいことで」
 山崎が笑う。
 「何だ、病人には当たり前だろうが」
 土方が赤くなる。

 「そんなことより、だ」
 土方は居住まいを正した。
 「大坂で何があった。詳しく話せ」
 「はい」
 山崎も頭の手ぬぐいを取り、座り直す。
 山崎の口から、大坂での出来事が客観的に語られ始めた。



 20110204