港 13
外国公使と会談し、十日の返答期限延長を獲得した使者一行は船で大坂に戻った。船上は緊張が緩み、皆一様にほっと安堵していた。
しかしだけは違った。は船の後方にひとりで座り、船の縁に体を預けて遠くを見ていた。
「では我々はこの約定書を城に届けてくる。ご苦労であった、通詞殿」
使者は船から下り、黒漆塗りの箱を包んだ風呂敷を抱え、駕籠を拾って大坂城へ急いだ。は去りゆく駕籠に頭を下げた。
「はん!」
体を起こしたところで、はどこからか声をかけられた。きょろきょろと辺りを見回してみるが、自分を捜している人影は見当たらない。
「こっち、こっちでっせ!」
その声が上から聞こえ、は船着き場に沿って立つ宿を見上げた。
「…山崎さん!」
新選組の大坂での定宿、京屋の二階の窓から山崎が手を振っていた。
「豚一公の筑前藩邸まではつけてたんですが、船に乗られてからは追えまへんでした。他の船はすぐに出るものがなくて」
大坂ではともに行動すると決めていた山崎は、に申し訳ないと頭を下げた。
「いいえ、こちらこそすみません、勝手にいなくなって」
山崎のせいではないとはぶんぶんと手を振る。慶喜から下った任務とはいえ、行き先も告げずに船に乗ってしまったのは自分だ。
「ところで…随分とまた立派なお召し物でんな。どないしはりました?」
山崎がしげしげとを上から下まで眺める。は三つ葉葵の上質な紋付きに、いかにも高級そうな長着と袴姿のままだった。
「あ、いけない。これ返さないと」
ははっとして自分の姿を思い出した。
「すみません山崎さん、一橋公の、筑前藩邸の場所わかりますか? これ、お借りした物なのでお返ししないといけないんです」
「わかりました、お連れしまひょ」
大たぶさを結い、金持ち息子の格好をした山崎は、柔らかな物腰でをいざなった。
と山崎は慶喜の仮寓である筑前大坂藩邸に向かった。
「私はここで待ってます。中には入れてもらえまへんやろ」
山崎は藩邸の門が見える角で立ち止まる。
「わかりました、すぐ戻ります」
はこくりと頷き、藩邸の門へ駆けていった。
「一橋公のご用で参りました。新門辰五郎殿へのお取り次ぎをお願いします」
は藩邸の門番に辰五郎への取り次ぎを頼む。慶喜は大坂城に詰めていて留守である。自分の任務を知っているのは辰五郎しかいない。
門番はすぐに辰五郎へ報告した。それを聞いた辰五郎はを藩邸の一室に招き入れた。
「一橋公のご用を済ませて戻って参りました。委細はご使者の方からお聞き及びになると思いますが、私の戻りをお伝えください」
は畳に手をつき、辰五郎に報告する。
「お疲れ様です。若にお伝えいたします」
辰五郎もの報告を聞いて頭を下げた。
「このお借りした服、お返しします。お預けしている私の着物と荷物を出していただけますか?」
は自分の来ている着物に手をやった。
しかし、
「いいえ、それはお持ちくださいと若から言われとります」
と辰五郎は断った。
「また十日後に山口さんを呼び出すだろうから、その時のために持っておいて欲しいと、若が」
「え…?」
「山口さんのお荷物はこちらです。若が、自分の名前で自由に遊んでいていいから新町にて泊まってお待ちくださいとのとです。若から呼び出しがあったらよろしくお願いしやす」
辰五郎はの荷物を前に押し出す。
はそれを受け取り、藩邸を出た。
門から出てきたを山崎が出迎えた。
「あれ、お着物返さなかったんで?」
入った時と同じ格好のままのを見て山崎が聞く。
「はい、またお召しがあるそうなので…」
は辰五郎に言われたことを山崎に話した。
「そうでっか…」
歩きながら山崎は思案顔になる。
「…あ」
はふとあることを思い出し、はたと足を止めた。
「山崎さん、申し訳ないんですけど、明日お願いしたいことがあるんです」
「何どす?」
「あの…あ、まず最初から話さないといけませんよね。どうしようかな…」
「ほな、京屋はんで一服しながら話しまへんか? ここからなら新町より京屋はんのほうが近いでっさかい」
「はい、じゃあ京屋さんでお願いします」
二人は白壁の続く通りを抜け、大川の川沿いへ足を向けた。
京屋に着くと、は山崎と船で別れてからの経緯を語った。
「それで、向こうの通詞の方をご案内することになってしまって」
はアーネスト・サトウに通訳時の言葉を握られ、大坂の町を案内することになってしまったことを話した。
「ははは、そらはん一本取られましたなあ」
山崎は愉快そうに笑う。
「明日の朝、天保山の近くまで船でお越しになるそうです。私は大坂に来たことがあると言ってもちゃんとご案内できません。山崎さんに同行をお願いしたいのですが…」
がたった二回しか来たことがないのに比べ、山崎は大坂で諜報活動をすることが多く、大坂の地理に詳しい。そんな山崎が一緒に来てくれれば安心だ。
「わかりました、ご一緒させていただきます。この山崎にお任せでっせ」
どんと山崎は胸を叩いて承諾する。
「ありがとうございます、助かります」
はほっとして唇を緩めた。
は山崎に紙と筆を借り、土方への書状をしたためた。
慶喜に呼び出されて無事に任務をこなしたこと。あと十日ほど待機してさらに任務につくかもしれないことを簡単に書いた。
(詳しいことは帰ってからお話します…と)
長々と書いても土方は忙しいだろうから迷惑だろう、十日後の呼び出しを受けて通詞の仕事をし、京に戻ったら話すことにした。
(土方さん…お元気かな…)
は懐の携帯電話に手をやった。冷たい機械の中に彼の写真がある。きっと本物も写真と同じような渋い顔で仕事をこなしているに違いない。
「ふふっ」
思わずの口から笑いが漏れる。
「はん…どないしはりました?」
滅多にのそんな笑いを聞かない山崎は、物珍しそうに聞いた。
「い、いいえ、何でもありません」
は笑いをこらえて書状を畳み、懐に入れた。
二人は明日のことについて話し合い、もう遅かったので京屋に一晩泊まった。
翌朝、途中で飛脚屋に寄って土方への書状を頼んで天保山沖へ向かった。
天保山沖に着くと、川の上に小さめの黒船が浮かんでいた。アーネスト・サトウがその船の先に立っていた。
と山崎は小舟を一艘借り、サトウを迎えに水の上へ出る。
「おはようございます」
山崎が操る船が黒船の足下に着くと、はサトウに向かって声をかけた。
「オハヨウゴザイマス」
陽光に照らされ、サトウは答えた。
黒船から縄梯子が下ろされ、サトウがそれを伝って小舟に降りてくる。
「今日はよろしくお願いします」
船の中程に腰掛けると滑らかな発音でサトウは言い、と山崎に頭を下げた。
と山崎も頭を下げた。が頭を上げると、山崎はサトウの流暢さにぽかんとしていた。
三人は川を遡り、八軒屋から上陸した。そして京屋にサトウを入れて着物に着替えさせてから外に出た。そこには駕籠が控えていた。
「これにお乗りください」
が駕籠の中を指し示す。
町中を歩くのは外国人に対する政治的感情を鑑みて止めたほうがいいと、ゆうべ山崎と一緒に考えた末の用意だった。
着替えも、異国の服のままではすぐに異国人とわかってしまい、攘夷派の連中に見られたが最後、斬りかかられるのが落ちだと思ったからだ。
は慶喜から借りた葵の紋付き、縞袴。山崎は金持ち息子の格好である。徳川家の某と金持ちの息子が大事な客を接待しているように見せかけるためだった。
サトウもその辺りは理解しているようで、素直に着替えて駕籠に乗った。
と山崎はサトウを乗せた駕籠と一緒に移動しながら大坂の町を案内した。
朝の活気あふれる市。
荘厳な空気漂う寺社。
涼やかな風吹く松原。
一幕だけの芝居。
サトウは、降りられないところは駕籠の窓越しに、降りて楽しめるところは顔を隠す笠越しに見て喜んだ。だがよく日本人の感情を理解しているようで、大声を出してはしゃいだり、顔を見せて周りを驚かせたりはしなかった。
昼を少し過ぎた頃、三人は新町にやってきた。そして慶喜の“自分の名前で自由に遊んでいていい”との言葉をありがたく使わせてもらい、以前新町で会ったことのある、てふ屋の朝霧を呼び出した。
朝霧には呼び出しの際に書状で英吉利人がいることを前もって伝えた。朝霧は事情を飲み込んで揚屋にやって来てくれた。
朝霧は禿二人を率いて席に座った。禿たちは初めて見る金髪の異国人への驚きを必死で押し込めていたが、朝霧は髪一筋ほどの動揺を見せることなく、優雅な舞いを披露した。
「素晴らしい…!」
サトウは朝霧の舞を大変気に入ったようで、拍手で賞賛を示した。
朝霧に酒を注がれながら、サトウはに話しかけた。
「今日はオーザカのいいところを案内していただいた。ありがとう」
「いいえ、私はたいしたことは…」
小舟の手配やサトウの着物の用意、案内する場所など、ほとんど山崎がやってくれたことだった。
〔ところで〕
とサトウは急に英語で話し始めた。
〔あなたは今後、日本はどうなると思いますか?〕
〔え…日本がどうなるか、ですか?〕
も咄嗟に英語で答える。側で山崎も耳をそばだてるが、言語を理解できない。
〔今、日本は大きく揺れようとしています。幕府に対して、一部の西国が反感を持っているのはあなたもご存じでしょう〕
サトウの問いかけに、は一部の西国とは長州のことだろうと頷いた。
〔もし、その西国たちが力をつけ、幕府を倒すほどにまでなったら、あなたはどうしますか? 外交官としてどうお思いか〕
〔どうって…〕
は突然の質問に困惑する。自分はそんな大事なことを答えられる立場ではないし、外交官ですらない。ただあの場の通詞を勤めただけだ。
黙りこくるに、サトウは苦い笑いを向けた。
〔昨日のあなたは立派だった。日本の行く末を考えての態度かと思っていました〕
〔…それは…申し訳ありません〕
は膝の上の拳を握る。自分は深いことは考えていなかった。
しかし。
〔でも〕
とはサトウと視線を合わせる。
〔私がしたことは、日本の現状を憂う方からのご指示です〕
徳川家一門である慶喜の指令で十日間の返答期限延長をとりつけた。自分が何も考えていなくても、それは事実である。
〔それを英語という手段で行えるようにしてくださった方もいらっしゃいましたし〕
の心に、揺れる金髪の影が浮かぶ。
〔目的のためには精一杯の力を尽くすよう、教えてくれる人もいます〕
金髪の影が消えると、眉間に皺を刻んで鋭い目で見据える男が、の心に現れた。
〔…そうですか〕
サトウは緩く頭を振ると、表情を改めた。
「あなたの先生のエリック・ハーバーの話でもしましょうか。京ではどんな様子でしたか?」
サトウは日本語に切り替え、話題も切り替える。もそれに従い、言語も話題も相手に合わせた。
山崎は朝霧や禿と上手に話を合わせながら、それとなくの様子を観察していた。
日が西に傾きかけた頃、サトウは再び小舟に乗り、天保山沖に停泊している小さめな黒船に乗って兵庫沖へと帰った。
「九日後の席でまたお会いしましょう」
サトウは乗り込んだ艦上からと山崎に手を振った。
と山崎も小舟から手を振り返す。
黒船は無事に天保山沖から姿を消し、と山崎の一日も終わりを迎えた。
は山崎と別れ、慶喜の呼び出しを待つために新町の揚屋に宿泊を続けた。
しかし数日後、辰五郎が持ってきた慶喜の伝言は、
「京へ戻れ。仕事は終わりだ」
との一文だった。
20110127