港 12
日章旗をはためかせながら、たちの乗る船は黒船の間を進んでいく。その様はまるで険峻な山々の間を縫う川を下ってゆく笹舟のようであった。
周りの船の甲板から、水夫たちの好奇の目が降り注ぐ。野次を飛ばす者もいる。日本側の使者たちはその声にいささか縮こまった。
も最初の一声にはびくりとした。その声がどこから飛んできたのかと艦上に視線を向けた。すると水夫たちは睨まれたと思ったのか、
一瞬声を途切れさせた。しかしすぐにまたやいのやいのと騒ぎ始めた。
その声と波の音が響く中、は使者たちとこれからの交渉について打ち合わせた。
船はやがて、ひときわ大きな船影の足下に着いた。甲板から合図があり、ロープが投げられる。船をそれにくくりつけると、今度は縄梯子が降りてきた。
「つ、通詞殿、先に参れ」
添え役らしき男がを促す。は袴の股立を取ると、縄をぐっと握って梯子に足をかけた。
一足上るごとに、梯子は頼りなく揺れる。相手の船は大きく、甲板にたどり着くまではまだまだ長い。はゆっくりと、落ちないように慎重に、一歩ずつ梯子を上っていった。
「よっと…」
は手摺りを乗り越え、甲板に上がった。
体を起こして袴を直し、立ち上がる。
甲板にいる全員が一斉に敬礼の姿勢を取った。
の元に一人の青年が歩み寄ってきた。
「Hello.」
の口から、自然にその言葉が出た。
「コンニチハ」
その青年は金色の髪を後ろへ撫でつけ、口元には髭をたくわえていた。かっちりとしたスーツを着こなし、瞳は青く、にはまるでハーバーがそこにいるかのように思えた。
〔お待ちしていました。ご使者の方ですね〕
スーツの青年が英語で話しかけてきた。
〔はい。私は通詞です。代表はこちらに…〕
も英語で返す。が指し示した先には、縄梯子を上ってきた使者がいた。梯子を上るのにひと苦労だったようで、息を整えている。
〔こちらへどうぞ〕
青年はたちの先に立つと、靴音を響かせて甲板の上を歩く。一行はその後ろについて行った。
一行は船室へと招き入れられた。
室内の真ん中には大きな木のテーブルがどんと構えており、細かい装飾が施された椅子が並ぶ。背もたれと腰を下ろす部分にはビロードが張られ、いかにも高級な印象を醸し出していた。
テーブルの向こう側には、三人の軍服姿の男が座っている。いずれも堂々たる雰囲気で、対して日本側の使者たちは固まって立っている。
真ん中に座っている軍服姿が何か言ってきた。
「ようこそ、ご使者殿。お座りください」
スーツ姿の男が訳して言う。使者はに視線を寄越した。は相手の訳が正確なのを証明するように頷く。使者は額に汗をにじませながら椅子に腰掛けた。
「フランス公使ロッシュ殿、イギリス公使パークス殿、オランダ公使ポルスブルック殿です」
スーツの青年が流暢な日本語で軍服の三人を紹介した、その瞬間。
〔ヒョウゴ開港、条約の勅許、関税の引き下げ。その返答をしに、ここまでやってきたのであろうな!〕
真ん中に座る男が急に立ち上がり、テーブルを拳で叩いて怒鳴った。
使者は至近距離で大きな音を立てられ、ひぃと小さく叫ぶ。後ろに控える添え役数名も、飛び上がらんばかりに驚いて、立っているのがやっとのように青白くなって震えていた。
は慶喜から受け取った書状に記されていた内容を思い出した。
(確か…向こうが回答期限を五日間と切ってきたんだった…)
日本側は、怒鳴った男の言葉に入っていた三つの項目について、のらりくらりと返事を引き延ばしてきた。そうすれば相手が諦めて帰ると思っていたからだ。
しかし相手は業を煮やし、五日間の時間をやるからその間に三つの項目を了承しろと言ってきたのである。その五日目が今日だったのだ。
相手は当然日本側が承諾の返事を持ってきたと思っていたに違いない。しかし使者に与えられた任務は、さらに十日の日延べを獲得してくることだ。
は早く返答しろと怒鳴り続ける言葉を訳しながら使者の様子を確認する。相手の脅しに顔色を失い、脂汗までかいていた。
〔どうなんだ!〕
どん、と殊更大きく机が叩かれる。
(ご使者殿)
は萎縮しきっている使者に耳打ちした。
(お言葉は私が訳して相手に伝えます。打ち合わせ通りにお話しください)
(わ、わかった)
の揺るぎない、低くしっかりした声に、使者はやっと目の前の交渉相手のほうを向いた。
「ほ、本日、拙者どもはさらなる回答期限の延期を申し出にまかり越したっ」
使者の声が震える。
は姿勢を正し、テーブルの向こうへとその言葉を英語で伝えた。
テーブル越しに、嫌な空気が忍んでくる。
〔我々は五日も待った! それをさらに延ばすとはどういうことだ!〕
書面がテーブルの上に叩きつけられる。はそれに素早く視線を走らせた。先に示された三つの要求を五日以内に返答するとした約定書だ。
(向こうがこれほどまでに強硬な姿勢で来るのは、きっと本国からこの条件を結んでくるよう固く申し渡されているからに違いない…)
はつとめて冷静な頭でそう考える。
記憶の底から学生時代に歴史の授業で学んだことをさらってみると、この時代、隣の清国がイギリスに支配され、ヨーロッパの驚異が日本にも延びてきている。
ヨーロッパやアメリカにとって日本は、太平洋を渡る上での重要な中継基地であり、金銀の豊富な市場とも考えられていた。
その地と好条件で結ばれることは、各国にとって大きな利がある。派遣された公使は、必ず日本と手を結んでくるよう言い渡されているのだろう。
(一橋公なら…)
交渉を成立させるために、どんな手段でも講じるだろう。
(ハーバー先生なら…)
この場を丸く納めるために、今自分にできることを精一杯努めるよう言うだろう。
(土方さんなら…)
臆せず、決して相手の雰囲気に飲まれず、事をなすだろう。
は腹の底にちからを込めた。
「こ、国家の大事を決めるのに、たったの五日では時間が短すぎる」
使者が言い、が訳す。
相手方は険しい目つきでこちらを睨んできた。
「ただいま京にて朝議を行っているので、あと十日の日延べを頂戴したい」
ぴりぴりと突き刺さるような空気の中、使者はようやく短い言葉を口にした。
ところが。
〔…あと二十日の日延べを頂戴したい〕
は平然と、違う日付を言い放った。
スーツの男が一瞬目を丸くしてを凝視する。
は顔色一つ変えずにスーツの男に牽制の視線を送った。
スーツの男は口の端を上げて、何事もなかったかのように視線を逸らした。
〔二十日間? そんな猶予を与えられると思うのか!〕
〔老中との会談も病気だとかで一方的に反故にされたのに、さらなる日延べなどしても信用なるものか〕
軍服姿の男たちは口々に文句を言い出した。
〔では十七日で〕
は日本語に訳さず、己だけで直接公使たちと話し合いを進める。訳して使者に伝えれば、自分が十日の期限を勝手に二十日と言ったことがばれてしまうからだ。
公使たちはごねた。は必死に食い下がる振りをする。十七日が十五日、十五日が十三日、十二日、十一日と削られ、
〔十日間。これ以上は短くできません〕
とは、元々の期限まで折れた格好になった。
(ご使者殿、今です)
は使者に囁く。
使者は何が話されていたのかわからないながらも、がたりと椅子を引いて立ち上がった。
「もし、この十日の日延べを信用していただけないのであれば…」
〔もし、この十日の日延べを信用していただけないのであれば…〕
は使者の言葉を、今度は正確に訳す。
〔「今ここで拙者の小指をもって証といたす!」〕
使者との声が重なり、使者は腰にたばさんでいる小刀を抜き放つ。
机の上に使者の手のひらが押しつけられ、今にも小指を切り落とさんと、小刀の切っ先があてがわれた。
〔ま、待て!〕
公使たちは顔色を変えて使者を止める。
「通詞殿、使者殿を止められよ」
スーツ姿の男がやんわりと制した。
だが、使者は銀色の刃を納めず、も使者を止めない。
〔わかった、その気概に免じて十日の日延べを与えよう。今度こそきっちり十日だ、これ以上の延期はしない。それでよいか〕
公使たちはぼそぼそと話し合って、やっと延期を認めた。日本側がこれほどまでに強硬な態度に出たことはなく、驚いたようだ。
そして戦争でもないのに血をまき散らすことには抵抗を感じているようだった。
「寛容なご理解、感謝いたす」
の通訳に頷いた使者が小刀を納める。
公使側が紙とペンでもって十日の日延べを約束した文章を記し、軍服姿三人がそれぞれ署名した。
日本側も同じ内容を筆でしたため、双方が内容を確認しあい、話し合いは終わった。
日本側の使者たちは、来たときと同じように縄梯子を伝って小舟に戻った。公使たちの見送りはなく、甲板には敬礼する船員たちが並んでいた。
〔お見事でした〕
降りる順番を待つの側に、スーツの男が歩み寄ってきた。
〔本来、日延べは十日と言いつけられてきたのでしょう? それを二十日としてだんだん折れていくとは考えましたな〕
夕焼けに金髪を透かし、スーツの男が笑う。
そう、あの席上ではとっさに思いついたのだった。十日の日延べを手にするために、最初から十日と言ってはきっと納得してもらえないだろうと。
元はこちらが五日間の期限を守らなかったのだ、当然相手は威圧的になるだろう。そこへ正面からぶつかっても勝てる見込みはない。
慶喜から言い渡されたのは十日の猶予を勝ち取ってくることだけ。そのためにどうしろとは言われていない。
雇い主の要望に応えるため、はあえて倍の日付を提案し、こちらが折れていくように見せかけ、指定の期日を手にしたのだった。
〔お気づきのところを黙っていてくださって、ありがとうございました〕
は頭を下げる。このスーツ姿の青年が自分の“誤訳”に気づいたことはわかっていた。あそこで間違いを指摘されていたらこうはならなかった。
〔いや、いつも押されてばかりの幕府の人間が変わったことを言い出したなと、面白半分だったんですよ〕
苦笑いを浮かべて青年は言った。
〔ところで、あなたはどちらで英語を学ばれたのですか? 発音も文法も完璧だ。師はどなたです?〕
スーツの青年が尋ねる。
は顔を曇らせ、腹の辺りに手を添えた。
〔イギリスから来られた、エリック・ハーバーという方です〕
青い目をきらきらと輝かせて、人当たりのよい笑みを浮かべるハーバーの顔が思い浮かぶ。は目を伏せた。
〔エリックのお弟子さんでいらしたのか! ヨコハマに来てもらう予定だったのに、残念なことでした…〕
青年も肩を落とした。
〔ハーバーさんのことをご存じなのですか?〕
は顔を上げ、青年を見上げた。
〔ええ。家が近所で、小さい頃はよく遊んでもらったものです。いい家に生まれながらも堅苦しいところがなく、付き合いやすい人でした〕
〔いい家の…〕
青年の言葉には考え込む。思えば本国から派遣されたわけでもないのに日本にやってくるなど、莫大な費用がかかっていたに違いない。ハーバーの兄から、海を越えて個人的な荷物が無事に日本に届いたのも、彼の家が裕福で、それなりの配慮があってのことだったのかもしれなかった。
京が険しい状況になっても黒谷までひょいひょい通っていたことも、彼が本国ではちょっと甘いお坊っちゃんだったからと考えれば何となくそうかもしれない。
〔あなた、明日、時間がありますか?〕
青年はを青い目で見下ろす。
〔エリックの思い出も話したいし、何よりオーザカを案内してほしい。先日少し上陸したのだけれど、地理がわからず困ったんです〕
〔え…?〕
思わぬ申し出に、はきょとんとした。
〔上陸はきちんと許可をもらっています。問題ありません〕
にこにこと青年は微笑んで言う。
〔でも…勝手にそんなことは…〕
が慶喜から受けた指令は十日の猶予をもらうだけで、勝手に外国の人物をもてなすことは許可されていない。
〔断るならそれでもいいですよ〕
青年はそう言うと、腰を屈めての顔をのぞき込む。
〔ただし、さっきの交渉中に日付をごまかしたことを、尾ひれつきで公使の方々にお伝えいたしますがね〕
〔…!〕
は言葉に詰まった。弱みを握られていたのだと今になって気づいた。
〔じゃあ決まりですね。明日の朝、天保山の辺りで船に乗って待っています〕
青年はしてやったりとばかりに笑った。
は従うしかなく、悔しさを小さなため息に混ぜて逃がした。
〔わかりました。では明日の朝、お迎えに上がります。あなたのお名前は?〕
は仕方なく聞く。
〔アーネスト・サトウと申します〕
青年は名乗り、白い歯を見せた。
20110119