港 11
二日ほど経って、慶喜は揚屋にやって来た。
「、用意は出来てるな? 英吉利語の用意を持って俺と来な」
慶喜は鈍く光る黒い紋付きの羽織に縞袴という出立で、浮之助と同一人物とは思えない立派さである。
は英吉利語の道具を持つと慶喜の後について揚屋を出て行く。
その後ろから、にも見えぬよう密かに、山崎が追跡を開始した。
新町から歩いていくと、だんだんと大坂城が近くなってくる。町並みは町人のそれから武家のものに変わっていった。
慶喜は長く白い塀に囲まれた屋敷へと入ってゆき、も辰五郎とそこへ足を踏み入れた。
「筑前藩邸…」
山崎はが入っていった建物を物陰からうかがう。
筑前(福岡藩)の大坂藩邸に彼らは入っていった。
京と大坂を行き来せねばならぬ慶喜の、大坂における拠点がこの筑前藩邸なのだ。
は慶喜に従い、奥の部屋へと入る。
「これに着替えな」
慶喜はに衣服を手渡した。それは上質な絹で出来た長着と袴だった。
「こ、こんな高級なものを?」
さすがにも気づいて驚く。密度がありなめらかな手触りは、材質が高級なだけでなく織りも腕の立つ職人のものに違いないことを現している。
「ああ。俺のだが一度しか袖を通してねえから綺麗だぞ。ありがたく着な」
慶喜はにやにやと笑いながら座布団の上に腰を下ろした。
は隣の部屋を借り、渡されたものに着替えた。
いつもの着物と着心地がまったく違う。形はきちんと維持しながらもの体に沿い、動きの邪魔になるようなもたつきが一切ないのだ。
高級品にはそれなりの品質がある。どの時代でもそれは変わらないのだなとは感心しながら袴の紐を結んだ。
「お待たせいたしました」
着替えが終わり、は慶喜の前に出た。
「じゃあ最後にこれ」
と慶喜は黒羽二重の羽織をに寄越す。羽織には葵の紋が入っていた。
「羽織は持参したものがありますので」
は平伏した。葵の紋が何を示すのか、にもわかる。徳川家一門の象徴だ。そのようなものを自分ごときが身につけるわけにはいかない。
「いいからこれを着なって。その着物にアンタが持ってきた羽織じゃ吊りあわないぜ」
慶喜はを立たせるとその肩に羽織をかける。
は仕方なく羽織に袖を通した。慶喜の言うとおりに、着物や袴の高級感と同じ雰囲気の羽織である。これでは自分が仕立ててもらった羽織ではそぐわないだろう。
「まあ見られるな、着てるもんのお陰で」
黒い羽織に黒い長着。細目の縞袴。慶喜は満足そうに頷きながらの姿を眺める。
「お前に任務を与える」
慶喜は笑いを引っ込めて、鋭い目つきになった。
も羽織の袖を翻し、慶喜に向かって手をついて頭を下げた。
「山口、今より直ちに摂津へ向かい、沖に停泊している諸外国の船との折衝を補佐せよ」
慶喜は続ける。
「先日、英吉利、仏蘭西、阿蘭陀、亜米利加が九隻の船でもって摂津の海上に現れた。奴らの要求は条約の勅許、兵庫開港、貿易時の関税率引き下げだ」
「我らは帝の勅許をもって諸外国との交渉に当たらねばならぬ。しかしながら未だ帝からの勅許は降りていない」
「本日が異国への回答期限なのだが、当然こちらには要求に応ずる答えを用意などしておらぬ。そこで、だ」
慶喜の目がに落とされる。
「回答期限を十日ほど引き延ばすことにした。そちは引き延ばし交渉の使者に通詞として同行せよ」
「かしこまりました」
の頭が畳につかんばかりに下げられた。
「…何だ、いやに素直に応じるじゃないか」
慶喜が意外そうな声色でに言う。
「仕事ですので」
は平伏したまま答えた。
「“私には無理です”とか言っておろおろするかと思ったのに、つまんねえの」
慶喜は苦笑いをしながら立ち上がる。
「しかしいい度胸だ。ますます気に入ったぜ。よし、行くぞ」
慶喜は楽しそうに笑うと廊下へと出た。
「はい」
荷物を持ち、もその後に続いた。
と慶喜と辰五郎は、八軒家の船着き場に到着した。足の速そうな、大きな船が停泊していた。
「一橋公…!」
船の中程に座っている一行が立ち上がり、一斉に頭を下げる。使者の船なのだとは理解した。
「皆、頼むぞ」
慶喜は軽く手を挙げ、一行に声をかけた。
「この船が交渉場所までお前を連れていく。委細はこれに書いてあるから、着くまでに読んでおけ。必ず指示通りにな」
慶喜が、葵の紋が蒔絵で施されている黒漆の箱をに手渡す。は頷いて箱を受け取ると船に乗り込んだ。
「七年前、勅許なしで幕府が諸外国と通商条約を結んだのを知っているか?」
慶喜は、船の縁を挟んでと向かい合った。
は縁に掴まり、慶喜の言葉を聞く。
「あの時、幕府ごときが勝手なことをと、朝廷からも民からもそしりを受けた。幕府はあくまでも帝から政権をお預かりしているに過ぎないのだ」
慶喜の手が、縁の上のの手に重なった。
「今度こそ、今度こそ帝の勅許をもって事をなし得ねばならぬ。でないとこの日本は…」
そこで言葉は切られ、手にちからが込められる。
「十日の猶予を勝ち得ることが、日本を内外ともに守る唯一の方法だ。必ず得てこい」
まっすぐに、慶喜がの目を見る。
「はい」
も慶喜を見つめる。真剣な、浮之助の時には見せない、“一橋慶喜”の顔であった。
船がゆっくりと岸を離れてゆく。
慶喜と辰五郎がを見送っている。
も二人の影を船から眺めた。
その視界の端に何かが動き、はそちらへ注意を向ける。
山崎だった。格好は金持ちのぼんぼんで、ほかの船の知り合いにでも手を振っているように見えるが、確かにに向かって自分はここだと合図を送っていた。
(ごめんなさい、山崎さん)
大坂までついてきてくれた山崎と離れてしまうのは心苦しい。しかし、ここから先はひとりで向かわねばならない。
は袂を片手で押さえると、もう片方の手で山崎にそっと手を振り返した。山崎も気づいて、より大きく手を振ってきた。
すっかり岸が見えなくなると、は船尾に座り込んで、慶喜から預かった箱を開けた。細い紐をほどいて蓋を開けると書状が一通入っていた。
が書状を広げてみると慶喜の筆跡であろう、流麗で豊かな墨筆があった。
そこには今回を呼び出すに至った経緯が書かれていた。
英吉利・仏蘭西・阿蘭陀・亜米利加の連合艦隊が、日本との貿易を望んで天皇の正式な勅許を得るために摂海まで押し掛けてきたこと。
将軍・徳川家茂から呼び出しを受けて大坂城に登城したところ、幕府方が独自の判断で兵庫開港のみを決定し、使者を送ろうとしていたこと。
しかしかつて勅許なしで通商条約を決め、朝廷と民から批判を受けたことを鑑み、何とか勅許を取り付けたいので必ず十日の猶予を諸外国から得て欲しいこと。そのために、この船に同乗している使者の通詞を勤めてもらいたこと。
そして最後にはこんなことが書かれていた。
今、日本国内は長州征伐だけで本当は手一杯なのだ。外国の相手をしている場合ではない。しかしそれを無事に収めるのが自分たち徳川家の役目なのだ、と。
は箱に書状をしまうと、使者の一行に挨拶をした。
「一橋公の命により、このたび通詞を任されました山口と申します。懸命に勤めさせていただきます、よろしくお願いいたします」
「う、うむ、頼んだぞ」
交渉役らしい男が青白い顔をして頷く。船に酔ったのではない、明らかに緊張による青白さだ。
添え役と思しき他の男たちは、一瞬をどこの馬の骨かというような目で見たが、羽織の紋を見て口を噤んだ。
も事の大きさは承知していた。幕府による、外国との正式な折衝の場である。緊張していないわけではなかった。
それ以上に、落ち着いていた。
ひとり船尾に戻ったは着物の合わせ目から懐に手を入れる。
まず手に触れたのは、ハーバーの金時計。ハーバーが亡くなった後、綺麗に磨いていつも身につけている。
慶喜からこの任務を申し渡された時、頭の奥に声が響いてきた。アナタならきっとダイジョウブと、聞きなれたハーバーの声が。
自分は何のために、ハーバーにここまで育ててもらったのか。今がその時なのではないか。そう思ったら、慶喜の命令に諾と即答していた。
そしてもうひとつ手に触れたものは、携帯電話。
は一行に背を向け、静かに携帯を開いて電源ボタンを押した。携帯は数回小さく明滅を繰り返すと、待ち受け画面になった。
ボタンを操作して写真のフォルダを開く。は一枚の写真を選択した。
土方と二人で写っている写真が小さな画面に映し出された。笑っている自分の隣に、怪訝そうな顔の土方がいる。
まるでそこにいるような土方の写真にはくすりと笑った。写真を閉じると、携帯の電源を切って懐にしまい直す。
初めての通詞の仕事だが、大丈夫、怖くない。
信頼する師に育ててもらった技術を信じている。
一方的にではあるが、心の中で支えにしている人もいる。
きっと雇い主の要求通りにこなしてみせる。
は顔を上げ、潮風を受けながら時計と携帯の感触を手のひらに染み込ませた。
数刻後、たちを乗せた船は兵庫沖に到着した。
慶喜が言ったとおり、何隻もの外国の船が黒い山のように浮かんでいる。
使者のうちの一人が日章旗を左右に振る。
たちの船は、ひときわ大きな外国船に近づいていった。
20110113