港 10
「黒船が…?」
「しっ、お静かに」
辰五郎に叱られ、は思わず声を出してしまった口を手でふさぐ。
黒船と言ったら異国の船だ。それが摂津の海、元の時代の兵庫県の海にやってくるなど、何用だろう。
「話の続きは後で。早くお支度を」
辰五郎はもう一度の腕を掴む。
「わかりました。でも、出来れば少しだけ西本願寺に…屯所に寄ってから行きたいんですけど、駄目ですか?」
は辰五郎を見上げる。
「…仕方ねえですね、少しだけですよ」
懇願するの視線に負け、辰五郎はやれやれといった風に息を吐いた。
「ありがとうございます」
は辰五郎に笑顔を向けた。
はその場でまず会津公松平容保への書き置きをしたためた。一橋慶喜からの呼び出しで大坂に出向くことを簡単に記し、会津公の小姓に文の取り次ぎを頼むと、辰五郎とともに守護職邸を出た。
二人は馬に乗り、西本願寺へと立ち寄る。
「ここで待ってます」
と辰五郎は馬の轡を取って太鼓楼の前に立った。
「すみません、すぐに参りますので」
は馬からひらりと飛び降りると、屯所の門番に軽く頭を下げて集会所へと小走りに向かった。
「、随分急いでどうした?」
廊下でちょうど刀の手入れが終わった斎藤が、刀身を鞘に収めながらを呼び止める。
「斎藤さん」
はすっとかがむと斎藤に耳打ちした。
(一橋公の要請で大坂に参ります。しばらく留守にするかもしれません)
斎藤は細い目の奥を一瞬光らせたが、すぐに小さく頷く。
は会釈をして立ち上がると副長室へと急いだ。
「失礼します」
は副長室の障子を開く。
土方はいなかった。
今日の外出の予定は聞いていない。どこへ行ったのだろうと思いながら、は大坂行きの荷物を整えた。
そして小さな紙に外出の旨をしたためると、土方の文箱の下にそれを隠して部屋を出た。
「うわっと」
「あっ」
廊下に出ようとしたは、部屋に入ってこようとした影とぶつかった。
「すみません、飛び出して…あ、山、じゃない、大工の千吉さん」
「こっちこそすんまへん、よう見とらんで」
影は山崎だった。この前と同じく大工姿をしている。隊士の前での、世を忍ぶ仮の姿だ。
「土方さんならお留守ですけど、ご用ですか?」
「はい、もう一回“修理”に来ました〜」
山崎は愛想笑いを浮かべながら、こっそりと懐の書状をちらりと引き出した。何か情報を持ってきたらしい。
「どこかお出かけでっか? お急ぎの様子でんな」
「はい、大坂へ行ってきます。もし土方さんに会ったら、一応書き付けは残していきますけど伝えておいてくださいませんか?」
「大坂?」
山崎が目を眇める。
そして、ちょっとと言っての背を押すとを副長室に戻し、廊下の向こうや庭に外に人の気配がないことを察知して障子を閉めた。
「はん、もしかして大坂って、豚一公のお呼び出しでっか?」
山崎が小さな声で聞く。
「はい、そうですけど…」
「黒船が来たことと関係ありで?」
「えっ…ご存じなんですか?」
は目を丸くした。豚一公と呼ばれる一橋慶喜のお召しで自分も今知ったばかりなのに、山崎はどこでその情報を手に入れてきたのだろう。
「どこにでも“目や耳”は置いてあります」
山崎は情報の早さを得意そうに言ったが、すぐに険しい顔つきに戻った。
「今、大坂は将軍警護の武士やら将軍を狙う浪士やらでごった返してます。行くのは危険やと思いますけど」
土方がに――に対して過保護なのを知っている山崎は、言葉を選びながら遠回しに制止する。
「でも仕事です。行かなくては」
は風呂敷包みをぐっと抱きしめて言った。
山崎は少し考えてから口を開いた。
「ほな、自分も一緒に行きますわ。どのみち大坂には戻りますし」
「え、でも、その書状はどうするんですか? 土方さんにお渡しするんですよね」
が山崎の着物の合わせ目に目をやる。
「廊下に斎藤はんがおりましたから、頼んどきますわ。それよりはんが一人で行くと知ってて同行せんで、後で副長にどやされるほうが大変でっさかい」
「それは山崎さんのせいじゃないと思いますが…」
「自分が勝手についてくだけです。はんが気にせんでええですから。さ、出まひょ」
山崎はを外に出し、副長室を出た。
山崎は廊下の途中で転んだふりをし、斎藤の胸元に書状を差し込んだ。
(斎藤はん、はんと大坂へ行きます。副長には心配無用とお伝えください)
自分を助け起こすふりをしてくれる斎藤に、山崎は素早く呟く。
斎藤は無言で小さく頷いた。
「辰五郎さん、お待たせいたしました」
は屯所の門をくぐって、待っている辰五郎に近づく。
「では行きましょう」
辰五郎はを馬に乗せると、自分も鞍上の人となる。
山崎は裏口からこっそりと馬を引いて出て、二人の後ろについて行った。
数日前に将軍徳川家茂が上京してきているため、京の町中も警備の武士たちで混雑している。長州征伐について将軍自ら天皇と謁見し、御前会議を開いているとの噂だ。
と辰五郎は慎重に、それでいて早く馬を駆って伏見に到着し、船に乗った。
船には人がひしめきあっている。二人は船尾のほうへと乗せられ、川風を受けながら波に揺られた。
辰五郎は何も言わず、じっと座っている。
は辰五郎に大坂の様子や一橋慶喜が自分を呼んだ理由を聞きたかったが、これだけの人がいる船上で話をするのは憚られ、同じように黙っていた。
乗っている人間をそろりと見渡す。大工の格好をした山崎を探したが見当たらない。
しかし、三人ほど間を空けた向こうで目配せをする男がいた。山崎だ。いつ着替えたのか、金持ちのぼんぼんの格好に変わっている。
も山崎に目で挨拶をした。山崎が一緒に来てくれている、そのことがとても心強く感じられた。
そして胸に手を当て、土方の顔を思い浮かべる。
(黙って出てきてしまったけど…無事に戻って怒られよう)
いつも心配してくれる土方に、自分が今出来る最大限のこと、それは何事もなく戻って土方にただいまと言うことだ。
ただいまじゃねえよ、勝手に消えやがってと雷を落とされるだろう。
必ずあの大声を聞くために、大坂で何があろうとも怪我一つ無く戻ってこよう。
は深呼吸をして川の空気を吸い込むと、頭の中を大坂へと切り替えた。
「あいつが大坂へ? また豚一公の呼び出しだと?」
西本願寺に戻ってきた土方は、斎藤から報告を受けて声を荒げる。
「はい。それと山崎さんがこれを副長にと」
斎藤は懐にねじ込まれた書状を土方に差し出した。
土方はそれを手に取ると、がさがさと広げてみる。
そこには摂津の海に黒船が現れたこと、将軍が上京しても大坂は相変わらずものものしい雰囲気であること、物価は高騰したままであることなどが細かく書き出されていた。
「摂海に黒船…」
土方の手が紙の端をぐしゃりと握る。長いこと待ち望んだ夷狄との戦いが、目と鼻の先の土地に迫っている。
「長州征伐と黒船退治、どっちが先に行われるか…こりゃあ楽しみだな」
不敵な笑みを、土方は浮かべた。
「あれのことはよろしいのですか」
書状をたたむ土方に、斎藤は聞いた。
「山崎がついてんだろ。それに仕事なら仕方ねえだろうが」
さらりとした口調で土方が答える。
「将軍が上京した以上、長州問題にもカタがついていよいよ出兵の運びになんだろ。それに黒船が来たとあっては、どっちの戦にもすぐ応じられるよう隊の編成を考えなきゃならねえ。俺だって暇じゃねえんだよ」
「左様で」
「長州と黒船については、局長が戻り次第すぐ隊内に公表する。それまでは伏せておけ」
「御意」
斎藤が部屋を辞して、副長室には静寂が戻った。
(あの野郎…また勝手に留守しやがって)
土方はどっかりと腰を下ろした。
はいつも気がつくと傍にいる。なのに、突然消えることもある。
心配しないわけがない。山崎からの書状の様子では、大坂はまだまだ混乱状態だ。新選組の評判も悪いままである。もしが新選組に所属しているとわかったら、あの弱そうな容姿で何をされるかわかったものではない。
しかし、山崎が機転を利かせて同行してくれたのは助かった。山崎が一緒ならどんなことが起きても対応してくれるだろう。
土方が愛用の文机に目を落とすと、文箱の下から白い紙の端がほんの少しはみ出ているのに気づいた。
引っ張り出してみると、小さく折りたたまれた紙が出てきた。の置き文だった。
“土方さんへ
浮之助様の御用で大坂へ行って参ります
会ってお伝えできないまま出発することをお許しください
帰りはいつになるかわかりませんが、今度はちゃんと文を出します”
急な出立で走り書きされた小さめな文字に、彼女の急ぎっぷりが透けて見える。
そんな中でも、前に大坂から彼女が戻ってきた時に、文の一つも寄越さねえでと冗談でとがめたことを忘れないでいたらしい。
今回は連絡の文を忘れないように、自分を怒らせないようにと付け加えたに違いない。
土方は苦笑しながらその様子を思い浮かべると、文を折りたたんで懐にしまいこんだ。
夜も更けた頃、たちは大坂の川岸に到着した。
新選組の定宿である八軒屋のあかりが目の前に見える。が、今回は新選組としてやってきたわけではないので、前は素通りした。
は辰五郎の後ろに従い、暗い夜道を歩いて行く。
その後ろから、見え隠れしながら山崎がついていった。
辰五郎はを新町の揚屋に連れて行った。以前大坂を訪れた際に利用した店だった。
部屋も同じく、庭に面した床の間付きの部屋である。
掛け軸からぶら下がる紐の先までもぴしりと整っているのは気持ちいいが、一番いい部屋らしい格式の高さはどうも分不相応でこそばゆい。
「若が来るまでお待ちください。もしお暇なようでしたら、てふ屋の朝霧太夫を呼び出して遊んでいてもよろしいそうです」
辰五郎はの荷物を置くとそう告げて出て行ってしまった。
急に室内は静まりかえる。動いているのは微かな行灯の明かりだけで心許ない。
ふう、とが息を吐いて荷物を開けようとした時、
「はん」
と、部屋の外から声がした。
襖を開けると廊下に山崎がいた。
「山崎さん」
はほっとして笑みを広げる。
「自分も隣に部屋を取りました」
山崎も部屋に入り、後ろ手に襖を閉める。
「ところであの男は何者で?」
「新門辰五郎さんとおっしゃって、一橋公からいつも連絡を寄越す時に来てくださいます」
「新門…江戸の、新門の親方でんな…身元は確かな方や、安心しましたわ」
「はい」
「ほな何かあったらすぐ呼んでください」
「ついてきてくださってありがとうございます。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
すたんと襖が閉まり、山崎は隣の部屋に戻っていった。
は再び荷物に手を掛けると中身を確かめ、矢立と紙を取り出して土方への文をしたためた。
辰五郎に連れられてきたこと、山崎が一緒であること、宿泊先は慶喜が用意してくれた揚屋であることを短く書き留める。
これを明日、飛脚問屋に持って行くことにして、は床についた。
翌日、山崎は一刻ほど揚屋を留守にして情報の収集に当たった。の書状も預かり、飛脚問屋に持って行った。
「大変ですはん、黒船がすぐそこまで来ています」
戻ってきた山崎が言うには、なんと黒船が河口までやってきていて、大きな姿で佇んでいるというのだ。
見たこともない異様な船に大坂の人々はどよめく。
さらに驚いたことに、たちが到着する直前には、黒船から異人たちが上陸したのだそうだ。
まず昼前に二人の異人が町奉行の出迎えを受け、接待所へと案内された。午後には船に乗っていた残りの全員が上陸の許可を出され、ヨーロッパではほとんど知られていない大坂の町並みを見物していった。
江戸にも長崎にも負けないほど発展している大坂に、今度は異人たちの方が驚いたらしい。
「自分も馬に乗って河口まで行ってきましたが、本当に来てました」
山崎が額から汗を滴らせて言う。
「…そうですか」
何となく自分が呼ばれた理由が見えてきたは、喉に手を当てた。
喉の調子は悪くない。これならハーバーに教えてもらったとおりに発音できるだろう。
の目に、決意の火が灯った。
慶喜が揚屋を訪れたのは、たちの到着から二日ほど経ってからだった。
20101230