港 8
が大坂へ呼び出される前、新選組内は少々騒がしかった。
が南部の家から戻ってくるのと入れ替わるように、今度は神谷が怪我をして南部の家にやっかいになった。
松本の提案で、新選組は屯所で残飯を利用して豚や鶏の飼育を始めた。肉や卵から栄養をとるためである。
神谷はその中の、一頭の豚を追いかけていた。食べるのに頃合いだったし、他の家畜のえさまで食い散らかしてしまうと来れば、
出入りの屠殺業者にさっさと引き渡すことにためらいはなかった。
「待てっ、滋養三号!」
神谷は太い綱を持って豚を追いかける。しかし豚、いや、滋養三号とて必死だ。今まで何頭もの仲間が連れて行かれ、姿を消している。
動物の本能で何かを察しているようで、家畜場を逃げ回った。
「なんだかかわいそうですねえ…」
端で見ている沖田が呟いた。
追いかけるのに必死な神谷が、家畜に滋養や美味といった名をつけた沖田に向かい、何仏心を出してるんですかと怒鳴りつける。
敵と目した人間をためらいもせず斬り殺す沖田も、何の罪もなく食べられる動物は哀れだと思うのだろう。
神谷がなおも沖田に反論しようとしたその時。
滋養三号が神谷に捨て身の突進をかけたのである。
不意を突かれた神谷は家畜場の板壁に激突し、気を失ってしまった。
沖田ら一番隊の面々が慌てて駆け寄ったが、頬を打っても神谷は気づかない。
それどころか、突進ついでに外へ逃げていった滋養三号が壊した柵で、足をざっくりと切ってしまった。
神谷は沖田によって、松本が身を寄せている南部の仮寓に運び込まれ、手当を受けた。
「大丈夫なんですか、神谷さん」
副長室でその報告を土方と一緒に聞いたは眉を寄せる。
「ええ、松本法眼が刺さった細かい棘を抜いて、すぐに傷口を縫い合わせてくださったので。見事な手つきでしたよ」
沖田がにこりと微笑む。
は頭の中でその光景を想像した。松本の手腕は鮮やかだったに違いない。きっといずれは自分もそういった類の医術を教わるのだろうが、
実際自分にそんなことが出来るのかと己に問うてみれば、今すぐ諾とは言えないような気がした。
「というわけで、神谷さんは無断外泊じゃないですからね、土方さん」
沖田が土方に向き直る。
「ったく、余計なことしやがるからそうなるんだ」
土方は文句の言葉を吐き出した。
しかし沖田にもにも、それは了解の裏返しだということは充分に伝わってきて、ふたりは顔を見合わせてくすりと笑った。
これ以後、副長命令で、家畜の世話は賄い方のみが行うこととなった。
神谷は翌日、屯所に帰ってきた。
「おはようございます神谷さん。大丈夫ですか? 沖田さんから聞きましたけど…無理しないでくださいね」
「さーん、おはようございます! 大丈夫です! ほら、この通り!」
神谷は怪我をした右足をぶらぶらと振ってみせた。
「ほらほらそんなことしない。すぐ無理するんですから、神谷さんは」
沖田がため息混じりに言う。
「土方さんには私からちゃんと伝えて外泊許可をもらってあるんですから、もう少し法眼のところに居ればいいのに。どうしたかと思って
お見舞いに行ってみたらこれですもん」
「もう、そうやって沖田先生はすぐ私のこと未熟者扱いするんですから! 私はオトコなんだから、これぐらいでへばったりしません!」
神谷はつんと上を向いた。
「沖田さんは心配したんですよね。そうじゃなければ、誰がこんな朝早くから木屋町まで行ったりしますか?」
は苦笑いをしながら言う。
「え…本当ですか…沖田先生…」
「…ええ、まあ…あなたは私の組下ですし…すぐ無茶するから…」
ほんのりと頬を染めて神谷が沖田を見上げると、沖田は目を逸らして小さく頷いた。
はそんなふたりを見て、朝飯前だがごちそうさまと心の中で手を合わせた。
朝餉の後、は黒谷へ出向く準備をしていた。
ふと振り向くと、土方がいつもより入念に身支度をしている。
何かあったのかと気になったが、余計な詮索はせず、は出て行った。
は黒谷でひとり、英吉利語を学んでいる宿坊の整理をした。
ハーバー亡き後、教えてくれる者はもういない。
間もなく完成する守護職邸に設けられるはずだった英吉利語の教室の話もどうなるかわからない。
このまま英吉利語の授業が無くなってしまうとしても、新守護職邸に移設になるとしても、荷物はまとめておいた方がいいだろうとは判断した。
小さな式台を上がり、廊下を左に折れると教場として使っていた部屋がある。
その隣は、ハーバーが個人的に使用していた部屋だ。
ハーバーの部屋に入ると、籠もっていた空気が緩やかに動き出した。
床の間に飾られていた一輪挿しは枯れ、花瓶の水はすっかり干上がっている。
文机の上には、ハーバーが兄に頼んで英吉利から送ってもらった教本が山のように積まれたままだ。
襖を開けると、ハーバーが宿泊する際に使っていた布団がきちんとたたまれて入っている。
下の段には着替えが少しと、書き物をするための文房具などが整然と並んでいた。
台所に行けば、ハーバーや自分たち生徒が使っていた休憩用の湯呑みや急須、菓子盆などがある。
はそれらをひとつずつ丁寧に洗い、干せるものは庭に干した。閏五月、元の時代の暦でいうなら七月の日差しは強く、すぐに洗濯物は乾いた。
自分の気配しかない室内での作業は、静かな空気が耳にしみる。
布団など黒谷の住職から借りていたものを返して宿坊の鍵を渡すと、は黒谷を後にした。
ぼんやりと歩いていると、いつの間にか西本願寺に着いていた。
は胸に手を当て、沈み込んだ気持ちを飲み込む。そして門番の隊士たちに挨拶をして門をくぐり、集会所の階段を上っていった。
副長室に戻ると土方はどこぞへ出かけたようで、室内にいなかった。
は自分の夕餉をもらいに、賄い方へ向かう。
「おう、お帰り、!」
ちょうどそこへ原田と永倉、藤堂、井上らが顔を揃えていた。
「、お前、土方さんから聞いてるか? 総司の見合いの話」
「え?」
原田の言葉にはきょとんとする。
「沖田さんのお見合い?」
「あれ、は知らなかったんだ? 総司がいいとこのお嬢さんとお見合いするんだってよー」
藤堂が続く。
「近藤先生へ直々に持ち込まれた話でな、ほれ、この前市中で火事があったじゃろ、その時に助けた娘さんに一目惚れされたらしくての」
井上がの側に寄り、説明してくれた。
は副長室で食事をしながら、皆から状況を聞いた。
数日前、祇園で火災が発生した。
新選組も出動し、逃げ惑う民の誘導や、火事場で起こりやすい犯罪を抑止するのに一役買っていた。
その時に転んで困っていた娘を沖田が助けたのがきっかけらしい。
どうしても沖田と夫婦になりたいと娘がいうので、とりあえず見合いだけでもとその父親から申し出があったのだそうだ。
「お前も気になるだろ、総司の見合い相手! 公家に仕えてる蘭方医の娘らしいんだが、あの奥手な総司の相手だぜ? 見合いの席までもう
決まってるらしいんだが、どうしても土方さんが教えてくれねえんだ」
永倉が、減るもんじゃなしと息を吐く。
「カワイイ弟分の相手の顔をこっそり見るだけだからよ、、土方さんからどこで見合いすんのか聞き出して、俺らに教えてくれよな」
そういって永倉はの頭をわしわしと撫でる。
もまったく興味がないわけではない。だがもし沖田がその相手と縁を結べばいつか顔を見ることもあるだろう。
そう考えると、土方が隠そうとしているものを聞き出す気にもならず、口が重くなる。
「な、頼んだぜ、」
「…たぶん、土方さんは私が聞いても答えてくださらないと思いますけど…」
「んなこたねえだろうよ、お前がこう、土方さんを見つめて“教えてください”って言えば」
と永倉がの肩を抱き、その目をのぞき込む。
だがの目は永倉のそれと合わせることなく、さらにその後ろに焦点を合わせた。
「てめえら、俺の小姓から情報を聞きだそうたあいい度胸だ…」
土方が影を揺らしながら部屋に入ってくる。
「土方さん、お帰りなさいませ」
は平然として出迎えの言葉を口にした。
「ひっ、土方さん、もう戻ったのかよ!」
の肩からぱっと手を離し、永倉は後じさる。
「ああ、もともとあっちが持ってきた話だからな、すぐ見合いの運びとなったぜ」
どうやら土方は、沖田が見合いを承諾したのでその話を進めに外出していたようだ。そのために土方は入念な身支度をしていたのかと、は
朝の光景を思い出した。
「てめえらには絶対教えねえからな。もし万一耳に入ったとしてお前らのうちひとりでもその場に姿現してみろ、…切腹だぞ」
土方の端正な顔が、下から行灯の光に照らされる。
そら恐ろしい面構えに、集まっていた幹部連中は這々の体で逃げ出していった。
どたばたと乱れた足音が遠ざかる。はくすくすと笑ってしまった。
土方がの襟首を掴み、ぐっと引いた。そしての体勢が崩れたところで、こう囁いた。
「…南側芝居だ」
「え?」
「総司の見合い」
「あ、ああ、四条大橋のところの」
てっきり自分にも沖田の見合いに関する情報は教えないと思っていたは、何を教えられたのかわからずに目をぱちくりさせた。
南側芝居といえば、鴨川沿いにある、外から見るに大きな芝居小屋だ。
以前、河原で流しの芝居を見たが、それよりもうんと大きな舞台が中にあるに違いない。
「俺とかっちゃんだけが付き添いだ。留守を頼む。何かあったら呼びに来てくれ」
「かしこまりました」
「場所は知らねえふりしとけよ」
「はい」
場所を教えてくれたのは万一の時のため。決して他の誰にも漏らすまいとは心にしまい込んだ。
「あれ…」
とは、先ほどの面々を頭に思い浮かべてふと気がついた。
神谷がいなかった。
沖田の話題で神谷が姿を見せないとは珍しい。
「どうした」
が動きを止めたのを見て、土方が声をかける。
「あの、土方さん、神谷さんは…?」
「神谷? あの野郎なら、また木屋町送りになりやがった」
昨日の今日で縫い合わせた傷が治るわけもない上に風邪気味だった神谷は熱を出して倒れ、再び南部の家に運び込まれたのだという。
(神谷さん…大丈夫だろうか…)
は顔を曇らせた。
同時に、神谷は沖田の見合いをどう考えているのだろうと思った。
神谷が沖田を慕う姿勢は、師として、いやそれ以上に見える。一部の隊士からはまことの衆道とはこのことなりとの声も上がっている。
その沖田に見合いの、結婚の話が出た。
神谷は、どう思っているのだろう。
(あれ、でも神谷さんって囲っている女の人がいるんじゃなかったっけ…月に一度、まとまった休暇をもらって戻るほど大事にしている人が…)
それを思い出すとはますます首を傾げてしまうのであった。
数日後、沖田の見合いは滞りなく行われた。
はずだった。
と言うのも、沖田は見合いの席を抜け出し、どこぞへ消えてしまったのである。
戻ってきたときには、黒羽二重の胸元にべったりと女の白粉をつけていた。
近藤と土方は相手に平謝りで、沖田を引きずって屯所に戻ってきた。
「風呂だ! 、風呂の準備をしろ! 特別熱いやつ!」
ばあんと障子を開け、土方が副長室に入る。そして畳の上に沖田をべしっと捨てた。
「は、はい…って、え? 沖田さん?」
腰を浮かしたは、沖田の様子に目を見張った。ぐるぐる巻きに縛られているではないか。
「土方さん、これ、いったい」
「四の五の言うんじゃねえ、とっとと風呂焚いてこいっつってんだ!」
土方の雷が落ちる。は訳がわからないまま、風呂の支度をしに部屋を飛び出した。
沖田は見合いの場で別の女子を追いかけて消えたことが発覚した。当然見合いは破談になり、沖田は土方によって風呂茹での刑に処された。
数日の間、沖田が体のあちこちを痛そうにさすっていたのを、隊士たちは哀れみの目、好奇の目など様々な目で見ていた。
そして、この見合いの話はにも少々飛び火した。
沖田の見合い相手は、芝居の間中気をもみながら沖田が来るのを待っていた。
ところが土方の愛想笑いを眺めているうちに、土方に気持ちが移ってしまったのである。
土方は手紙による猛攻撃を受けたが、当然承知しない。ある時はのらりくらりと、またある時はきっぱりと断った。
しかし相手もなかなか食い下がらず、土方恋しやとばかりにとうとう西本願寺まで参詣を装って出向いてきた。
「あの…土方副長はん、いらっしゃいまへんやろか」
駕籠から降りた見合い相手が、太鼓楼脇の門番に声をかけた。
ちょうどそこへ、黒谷に出仕するが出てきた。
「あ、山口さん、この方が副長にご用だそうで」
と門番がに言う。平隊士はなるべくなら鬼の副長に近づきたくないのだ。
「はい、副長にですね。ご用件は?」
目の前の女が例の見合い相手だとは知らぬは相手に用件を聞く。
「初音が来た、とだけ申し上げてください。そうおっしゃってくださればおわかりいただけます」
「わかりました」
はとことこと副長室に戻っていった。
「追い返せ」
自分を訪ねてきた女の名を聞いた土方はピンと来て、素っ気なく言い放つ。
「え、でも、いいんですか?」
「いいから追い返してこい」
頭の上に疑問符を浮かべるに、土方は繰り返した。
「すみません、副長は今留守で…」
は門の外に出て、初音にそう伝える。
「こんな早くから?」
初音は眉をひそめた。
「ええ…すみません…」
居留守とは見え見えか、とは苦笑いを漏らす。
「初音様がお見えになったことはお伝えしておきますので…」
はたとえ居留守がバレているとしても、印象だけは悪くしないよう、優しく笑いかけた。
「…ええわあ」
ふっと初音が表情を変える。
「はい?」
「土方はんみたいな男の魅力も捨てがたいけど、あんたはんみたいな爽やかさもええわあ」
うっとりと初音はを見上げてきた。
「え?」
は本能的に一歩後ろへ下がる。
「あんたはん、お名前は」
「え、いや、その…私、これから仕事ですので」
は押してくる初音の横をすり抜け、普段からは考えられないほどの速さで西本願寺を後にした。
この後しばらくの間、土方とは同じ相手に揃って悩まされたのであった。
20101214