港 7
剣を持った相手は、赤に染まった剣先をハーバーに向ける。
その前に土方が立ちはだかった。
「おい。こいつが会津藩のお雇いと知っての狼藉か」
土方が声低く問う。
男はかたかたと刀をわななかせながら答えた。
「な、何日か前、その、夷狄が、歩いているの、を、見た。神州を汚す夷狄を…王城の地を歩く夷狄を、許すわけにはいかぬ」
土方はちらりと辺りを見回した。
助太刀が来そうな気配はない。単独での犯行のようだ。
おおかた大坂にこっそりと入り込んだ尊皇派のひとりで、京に流れてきたといったところだろう。
「ハーバーさん!」
はハーバーを抱き起こそうとしたが、ハーバーが顔をしかめたので地面に横たわらせた。濃紺の長着が斜めに切られ、そこを中心に赤黒く染まっている。
震える手で長着の前を押し広げると、胸の辺りに大きな切り傷があり、血がとめどなくあふれ出ていた。
どうしたらいいのだろう。
まだ医術を、こんな時の救護法を、松本や南部から教えてもらっていない。
あまりの出血にの顔は凍り付く。
その表情を見たハーバーは、ぎこちなく両手を動かして、着物の前を掻き合わせた。
「ま、まだ生きているのか!」
男はハーバーの動きに気づいて、再び柄を握り直す。
「どけ、成敗してやる!」
地面に唾を吐き捨て、男は土方に向かって怒鳴りつけた。
「こいつが会津藩ゆかりの者である以上、それは出来ねえな」
土方は鞘を左の手のひらに納め、親指で鍔を押し上げると鯉口を切った。
「邪魔立てするならお前も斬るぞ!」
悲鳴のような声を上げ、男が土方を威嚇する。
「出来るもんならやってみろ」
土方が、鈍く光る刀身を引き抜いた。
「何故夷狄をかばう?」
男が驚愕の目で土方を睨みつける。
「会津藩御預新選組だ」
土方はすっと目を細めて相手に狙いを定めた。
目の前の金髪が会津藩のお雇い、自分に刃先を向けているのが会津藩の御預。男の中で会津藩という言葉がすべてを繋いだ、その瞬間。
男の足が地面を蹴り、土方に向かって大きく振りかぶる。
はハーバーを庇うように覆い被さる。
土方の刀が一瞬早く間合いを詰め、男の胴を横に薙いだ。
男はくぐもったうめき声を上げると、どうと地面に倒れ込んだ。
握っていた大刀も地に落ち、がらんがらんと左右に身を揺すると静かになる。
土方は懐紙で刀の血を拭うと、自分たちを取り巻く群衆に向かってずかずかと歩いた。
「奉行所に知らせに行ってくれ」
最前列で見物していた男に声をかけ、土方はとハーバーの元へ駆け寄る。
「大丈夫か」
土方はの肩に手を置いた。
は震えながら土方を見上げる。
「ハーバーさん、ハーバーさんが…」
土方がハーバーを見ると、顔はすでに血の気を失っていた。着物の上から傷口を手で押さえてはいるものの、その手も着物も、体の下の地面も真紅に染めあげられている。
土方は再び見物人の群に向かった。
「木屋町に南部という医者がいる。誰か行って呼んできてくれ。松本という医者もいたら、一緒に呼んでこい」
群の中からわかったと声がして、木屋町へと走っていった。
ハーバーは浅い呼吸を繰り返す。
は、ハーバーの傷口を押さえていないほうの手を握りしめていた。
「…」
ハーバーの指がぴくりと動く。
「ハーバーさん…ハーバーさん…」
はハーバーの手を額に当て、祈るような気持ちで名を口にした。
「今、南部先生と松本法眼を呼びにやった」
土方も地面に膝をつき、の横に並んだ。
「な…ぜ、銃を、抜かなかった、デスカ」
掠れた声でハーバーがに言う。
「しゃべらないでください、すぐにお医者様が来ますから…」
はハーバーの手をより固く包み込んだ。
「ジブンの、身が、危ないとき、守らなければイケナイ、と、何度も…ッ」
ハーバーが咳込む。その口元から赤いものが吐き出された。
「だめ、話さないで」
が懐から手ぬぐいを取り出し、ハーバーの口を拭う。
ハーバーは目をつぶると、僅かに残っているちからで着物の合わせ目に手を入れ、何かをずるずると引っ張りだした。
そして血塗れの手でにそれを握らせ、の手を自分の両手で覆った。
「…皆に、伝えテ、クダサイ…、皆、トテモ真面目な生徒でシタ…ともに学べテ、ヨカッタ、と…」
一言ごとにハーバーの声が小さくなってゆく。
「ハーバーさん」
は顔を歪ませてハーバーの目を見る。いつも海面のように青く煌めいていた目は、海の底のように暗くなりつつあった。
ハーバーの片手がの頬に触れる。頬が血で塗れたが、は一向に気にせず、その上から己の手をあてがう。
「、アナタ、…特に、優秀ダッタ、これからも…ワタシが、いなく、なっても」
「縁起でもないこと言わないでください!」
の目に涙が沸き上がる。
痛みを逃がすように長く息を吐き、ハーバーはの隣の土方へと視線を移した。
「ヒジカタサン、のコト、頼みマス」
「言われるまでもねえよ」
土方が言う。
ハーバーはぎこちなく笑った。
「えりっく!」
人垣を割り、ハーバーが住んでいるみなと屋の女将が駆け寄ってきた。近くの騒ぎに店から飛び出してきたのだ。
「オカミ、サン」
ハーバーが女将に手を伸ばす。
「お世話に、なりまシタ。ワタシの、荷物、イングランドに」
そこまで告げると、ハーバーは再び血を吐いた。
「えりっく!」
「ハーバーさん!」
抜けかけている魂を繋ぎ止めるように、悲鳴が響き渡る。
「マツダイラ様と、トシマさんにも、お世話になったト…」
ハーバーの瞼がゆっくりと、ゆっくりと下がってきた。
「嫌です、ハーバーさん、だめ! 待って!」
はハーバーの肩を掴み、強く揺する。手からハーバーに握らされたものが地面に滑り落ちる。
「Thank…you…、アリガトウ、アナタと、京で会った日のコト、忘れ、ナ、イ…」
ハーバーの手が、の頬を伝って。
ちからを失った音を立てて、土の上に落下した。
は遠くに聞いた。自分の隣で女将が叫ぶのを。
そして突然、目の前が暗くなった。
「…っ!」
嫌な夢を見た。
そう思ってはがばっと飛び起きる。
乱れた息を整えて胸元を押さえると、全身に汗を掻いているのに気がついた。
辺りを見回すと、知らない柄の夏掛けが布団の外にぐしゃりと横たわっていて、枕元には水を張った手桶が置いてある。
衣桁には自分の長着と袴が吊り下げられていた。それらは洗濯されているようだが、黒っぽい染みが全身に残っている。
室内は見覚えがない。自分の―――土方の部屋ではない。
「目ぇ覚めたか。二日ぶりだな」
ぬっと部屋に入ってきたのは、松本だった。
「ま、つも、と、法眼?」
ひりつく喉から、はやっとそれだけを絞り出した。
松本は鉄瓶に冷ましておいた白湯を湯呑みに注ぎ、に手渡す。は湯呑みをおそるおそる受け取った。
夢だったのだろうか。とても悪い、夢。
が白湯から松本に目を移すと、松本は深いため息とともに切り出した。
「あの先生、残念だったな」
その一言で、はすべてを悟った。
あれが夢ではなかったことを。
白湯にさざ波が立つ。
「知らせを受けて俺と南部が着いた時は、もう」
松本は項垂れるの肩にそっと手を置いた。
振動が伝わる湯呑みから、白湯がぽたぽたとこぼれ落ちる。
「お前が倒れたのを、土方が担いでここまで運び込んだんだ。しばらくお前を預かってくれって頼んでいったぜ」
松本がさらに言葉を続けるが、の耳に届いているのかいないのか、頷かない。
「落ち着くまで泊まってけ。な」
松本はの肩をぽんぽんと叩くと、立ち上がろうとした。
が、松本の袖を強く引っ張った。
「松本法眼」
の声が、静かに響く。
「何でい」
松本が浮かせた腰を落ち着けた。
「私に…医術を、教えてください」
「ああ、教えるってえ約束になってたよな。お前が落ち着いて俺か南部の都合がついたら」
「そうじゃなくて、今すぐ」
が顔を上げる。
の目が松本を見据える。突き通すような視線で、松本の両目をとらえている。
「今すぐ、今から教えてください、法眼」
「まあ待て、今のお前じゃ」
が顔を崩した。
「もう、もう誰も失いたくないんです。教えてもらってもどうにもならない怪我の時もあるかもしれない、でも、どんなに僅かでも、役に立てるようになりたいんです…っ」
の目から大粒の涙がぽろりとこぼれた。
「…そうかい」
松本がの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「だから法眼、今すぐ教えてください」
は松本に掴みかかった。白湯の入った湯呑みが畳に転がる。
「わかったわかった。わかったからそう急くな。医術に大切なのは冷静さだ。今のお前さんみたいに沸き立った心じゃ、見える治療の糸口も見落とすだろうよ」
松本はの目を覗き込む。
ははっとした。あの時、ハーバーが斬られたときも、すっかり冷静さを失っていたことに気づく。
今思えば、それこそ自分がいの一番に松本や南部に助けを求めるとか傷口に手ぬぐいをあてるとか、すぐ運べるように戸板を持ってきてもらって乗せておくとか、
いくらでも出来ることがあったはずだ。
「幸い、お前さんは怪我してねえ。もうちっと休んで心が癒えたらすぐに始めるとしよう」
「はい…」
はがっくりと肩を落とした。
同時に体からちからが抜け、急に視界がぐるぐると回りだした。体を起こしていられなくなり、は布団に手をついた。
「おっと、ほら、まだこんな状態じゃ何も出来やしねえよ」
松本が苦笑いをしてを布団に横たえる。
「そんなんじゃまだゆっくり寝てたほうがいいな。焦らねえこった」
おとなしく夏掛けをかぶるの頭をまた撫でて、松本は部屋を出ていった。
松本が階下に降りると、南部が昼餉の支度をしていた。
「メース、さん気がついたんですか?」
うっすらと声が漏れ聞こえてきたのを受け、南部が聞く。
「ああ、また寝たけどな」
松本が懐に手を突っ込みながら答えた。
「南部よ」
「はい、メース」
「あれは鍛えりゃ伸びるぞ。回復したらしこたま教えてやってくれ」
あれとはもちろんのことである。
南部は細い目をますます細めて松本を見た。
「すごい入れ込みようですね」
「ああ、奴は本気だよ」
松本はにやりと笑った。
はしばらく屯所へ戻らず黒谷にも出入りしなかった。どちらにも松本と南部の署名入りの書面で、
が南部の仮寓にいることを伝えてあったので、双方とも了承した。
が倒れている間にハーバーの葬儀は終わってしまっていた。ハーバーの亡骸は黒谷のはずれに埋められ、小さな塚が立てられた。
松平容保も、公用方でハーバーの面倒を見ていた外島機兵衛も、異国の教師の喪失を惜しんだ。
は起き上がれるようになると、南部とともに黒谷へ出仕した。
容保に呼ばれて拝謁し、ハーバーが斬られた時のことをすべて語った。
「まだしばらく休んでいてよい。万全になったら通うように」
憔悴しきったを見て、容保も思わずため息を漏らす。
は深々と頭を下げ、容保の前を退出した。
外に出て蓮の葉が揺れる池の横を通り、長い階段を上った。墓地を通り抜けて切り立った崖に出る。
崖の端に枝を伸ばした木がある。その木陰の土が掘り起こされてまた埋められた形跡があり、中心に石が載せられている。
ハーバーの墓だ。
はひざまずき、懐に手を入れた。
ひっぱられてするりと出てきたのは、あの日ハーバーが自分に握らせたもの、金の懐中時計だった。
は金時計を両手で包み込み、額に当てて目を閉じる。
木陰で優しい風に吹かれながら、は日が暮れるのにも構わず長い長い祈りを捧げた。
場所は移り、西本願寺。
夜空が星に彩られるのを見上げながら、土方は息抜きに縁側で煙草を吹かす。
今日もは帰ってこなかった。
深く煙を吸い込んで、煌めく星空に向かって吐き出す。
すると、廊下の向こうから黒い影がこちらに向かって歩いてきた。
監察の誰かかと思い、土方は灰皿に煙管を打ち付ける。
近づいてきたその影は、だった。
「ただいま戻りました」
は軽く会釈をして土方に微笑みかける。
「もういいのか」
土方が立ち上がった。
「はい」
は頷く。
「嘘つけ」
そう言うと土方はを引き寄せた。
松本と南部に任せてきたから身柄の心配はいらないが、己の手の中で恩師を喪った心はどうだろうと、ずっと土方は気にしていた。
は今、笑顔を見せた。
何の感情もない、貼り付けたような笑みを。
自分の気持ちをしまい込む、彼女お得意の手腕で。
土方の胸元に納められたは、懐かしく親しみのある温かさに包まれた。
燻したような匂いは、煙草の香り。
たった数日離れていただけなのに、心の奥底までしみてくる気がする。
は土方の胸に手を当て、目を閉じる。
閉じた目から、自然に涙があふれてきた。
松本の元や黒谷で我慢していたのが押さえきれなくなったのか、土方の顔を見てほっとしたのか。
後から後から出てきて止まらない。
土方はの頭に手を添え、一言もかけることなく抱きしめ続けた。
二人は随分と長い間、廊下に佇んでいた。
そして悲しみを癒す間も与えず、時は動いていく。
は一橋慶喜の命令を受けて大坂へと赴くことになる。
20101207