港 4
松本が新選組屯所を訪れた翌日から、会津藩藩医の南部による回診が始まった。毎朝行われたその回診により、ほとんどの病人は回復し、
隊内は健康で清潔な空気に変わってきた。
は南部が回診にやって来る前に屯所を出て黒谷へ向かった。そして黒谷でも南部の目を避けて行動した。
南部は会津藩の医者であるからもちろん黒谷に来る。まだ顔を見たことのないを見かけたら、ぜひ回診を受けるよう言ってくるに違いない。
は屯所ではもちろんのこと、英吉利語の宿坊を出入りする時にも気をつけて、南部と顔を合わせないように努めた。
はこのようにして毎朝の回診を乗り切った。とっくに南部がいなくなった夜に屯所へ戻ってくると、はほっとするのであった。
しかし世の中はそう平和ではない。副長室である土方との部屋には、混乱する大坂の情報がひっきりなしに入ってきていた。
六月に入ると、大坂堂島の米問屋が将軍上洛による米の高騰を煽っているとの風聞が流れ、大坂に出張している新選組はその風聞に関係していると
思われる米問屋や搗米屋や、炭屋などを万福寺へ連行し尋問を行った。
この時期には米だけでなく青物も市場から姿を消している。あっても西瓜一切れが四十八文から二百文に上がるなど、価格は暴騰していた。
将軍の後を追って一橋慶喜も大坂に入る。
その翌日、大坂の橋という橋八十箇所以上に木戸が建てられ、夕方から往来が差し止められた。夜遊びに出ていた者はもちろん、
橋を渡った川向こうの風呂屋に行っていた者まで帰れなくなり、川岸は往来が解除になるまで大混雑となった。
夏祭りは治安維持のためすべて中止、夏の風物詩である花火も狼煙と紛らわしいので打ち上げを禁止され、大坂の民の不満は、暑さと相まって募っていく一方なのであった。
土方は、大坂に出張している井上や山崎からの書状から目を離す。そしてに視線を移す。は部屋の隅で自分用の行灯に照らされて、
土方に頼まれた書状の清書を行っていた。
「あ、お茶ですか?」
はすぐに視線に気づき、顔を上げる。
「…ああ」
土方は頬杖をついた手の隙間から、くぐもった声で返事をした。
は筆を硯の端に横たえると立ち上がり、茶を淹れに台所へ向かった。
土方は再び書状に目を落とす。
大坂に派遣している部隊は、何とかうまくやっているようだ。だが物価の高騰や見慣れぬ警備の軍隊で町がごった返していることで、
大坂の人心は不安定になっている。いつ不満が暴発するかわからない地で、どこまで井上と三木三郎、そしてもともと大坂で活動させている
谷三十郎らがうまくやっていけるか、土方は胸騒ぎを覚えた。
また、大坂だけでなく京の様子も不穏になってきていた。
巡察の隊からは、物陰から自分たちを厳しく睨みつける視線を感じるようになったし、町の中が、地面からぞわりとする何かが上がってきて、
いいようのない気持ち悪さをはらんできているとの報告が来ている。
「お待たせいたしました」
茶を淹れたが部屋に戻ってきた。土方の文机にことりと湯呑みが置かれる。土方が湯呑みを手にとって、縁に口をつけた。
「原田さんのこと、よかったですね」
も土方の側に座り、一緒に茶を啜る。
「ああ…まあな」
土方は飲みやすく冷まされている茶をごくりと飲んだ。
新選組の内部でも何かと騒動が持ち上がっていた。
十番隊組長の原田が、呉服商の娘・まさを娶った。原田は巡察中にまさに出会い一目惚れをし、七日後には縁談がまとまるというめちゃくちゃな早さで行動した。
この縁談には当初、身分の壁があると思われた。
原田は会津藩御預の浪人、まさは商家の娘である。士農工商の身分に則れば、士の原田と商のまさの婚姻は許されざるものだ。
身分違いの婚姻を知って許したとあれば、新選組局長・近藤の監督責任になる。正式な武士身分を手に入れたい近藤土方にとっては大きな障害になる可能性が大だった。
そこで土方はこっそりと木屋町を訪れ、南部が宿としている家に転がり込んでいる松本良順に面会を請うた。まさの身分を原田とつりあうものにするため、
町医者の養女にでも出したい、それを手伝ってくれないかと頼むためだった。
松本は一も二もなく承諾してくれたが、結局まさの家は商家でも名字帯刀御免の名家であることが判明し、何の問題もなく結縁の運びとなったのである。
「原田さん、幸せそうでしたね。お祝いは何がいいでしょうか」
がふふっと笑いながら土方を見る。
土方はその笑顔を見ながら机に湯呑みを置いた。そして頭の中ではまったく別なことを考えていた。
原田の縁談がまとまるように頼んですぐに引き受けてくれる仁義の厚さ。
近藤に西洋の事情を説き、意気投合したあの気心。
屯所回診の際に見せた西洋医学の知識の数々。
風呂や病室設立など、正しいと思うことを初対面の自分につけつけと申し渡す気合い。
(あの、松本良順という医者…)
「土方さん?」
「…ああ」
が自分の顔を覗き込み、土方は我に返る。
「お茶、お口に合いませんでしたか? もう少し熱いのにいたしましょうか?」
茶を淹れ替えようとが手を差し出す。
土方は、茶はこのままでよかったのでその手を遮ろうと、自分の手を伸ばした。
二人の手が、湯呑みの手前で重なる。
「あ、すみません」
は手を引っ込めようとする。しかし土方はその細い手を上から握った。
土方はじっとを見つめる。
も土方を見上げる。
「土方さん…」
なぜ手を握り続けているのか、そしてなぜ見つめているのか。の目が問うている。
土方はひとり納得したように微かに頷くと、手の力を緩めた。
「お茶、片づけてきますね」
は手を引き抜くと、二人の湯呑みを持って部屋を出て行った。
軽い足音が廊下の向こうに消えてゆく。
土方は行灯の明かりが揺れるのを見つめながら、たった今固めた決意を胸の内で繰り返し呟いた。
翌日、が黒谷から戻ると、土方の部屋に斎藤が来ていた。
「ただいま戻りました。あ、斎藤さん、こんばんは」
は挨拶をしながら敷居をまたぐ。
「そこを閉めろ」
土方が腕組みをしてを見上げる。
はその視線にただならぬ何かを感じ、廊下に顔を出して誰もいないことを確認してから障子を閉めた。
土方と斎藤が並んで座っている。
部屋の空気はぴしりと張りつめていた。
「何か、お話でしょうか」
は脇に風呂敷包みを置き、二人の前に座った。
「もう少し前に来い」
土方の言葉には膝を進めた。
「松本って医者が来たのを覚えてるか」
土方が静かに切り出す。
「はい」
は頷いた。ちゃんと面と向かって話してはいないが、覚えている。
「あの医者に、お前のことを話すことにした」
は瞠目した。
自分のことを話すとは…土方はどういうつもりなのだろう。そして同席している斎藤も当然同意しているはずだ、どう思っているのだろう。
自分が時を越えてこの世に現れた瞬間に立ち会ってもいない、顔すらよく知らない相手に、何をどこまで話すつもりなのか。
「明日、南部先生の宿所を訪問する。松本法眼の在宅も確認してあるからそのつもりで」
斎藤がぼそりと言った。
は土方と斎藤を交互に見る。二人とも同じ目でを見つめている。
「わかり、ました…」
松本にももう訪問の話は伝わっているのだろう。拒否権はなさそうだ。
は諦めて、頭を垂れた。
よく眠れないまま朝が来て、は布団の上で目を開けた。
これから、新選組の回診を請け負った松本を訪問する。しかも自分のことを話さねばならない。思わず重いため息が出る。
「さっさと支度しろ」
土方が起き上がって布団を畳む。
これからどうなるのか、心が不安で膨らんでいくのを感じながら、も身を起こして支度を始めた。
僅かに朝餉を取ったは、土方と斎藤と連れ立って屯所を出た。目の前には嫌みなほど眩しい太陽が上がる。
三人はそれぞれの思いを胸に、黙って道を進んで行った。
鴨川を渡り、木屋町に入るとすぐに南部が寄宿している家があった。細い格子がついた戸の前で来訪を告げると、すぐに南部が出てきた。
「ご足労様です。メースは二階でお待ちですよ」
メースとは阿蘭陀語で師匠を意味する。松本に教えを受けた医者たちは、皆敬意を払って松本をそう呼ぶのだそうだ。
三人は狭い階段を上り、二階へと上がる。
階段を上りきる手前で土方はを振り返った。は無言で頷き返した。
「松本法眼、土方です」
「おう土方、入れ入れ」
すらりと襖が開かれると、中に松本がいた。屯所に来た時のようなかっちりとした服装ではなく、浴衣姿の気楽な格好である。
「おはようございます。大勢で押し掛けまして失礼いたします」
土方が頭を下げる。
「まあ座れ」
松本は自らを扇いでいた団扇で、並べられている座布団を示した。三人はそこへ腰を下ろした。
は目の前で胡座をかいている松本を見つめた。
医官らしく青々と剃りあげた頭に、神谷が叫んだとおりのタレ目。その目から発せられる力強い視線はに注がれ、探るようにじろじろと上から下まで見つめてくる。
は息苦しさを感じて、大きく開け放たれた窓を見た。四角く切り取られた風景には鴨川の澄んだ流れと、遠くに連なる山々が見事な借景になっている。
「で、何でい、俺に話ってのは」
松本が胡座の膝に手を置いて言う。松本には、土方から話を受けた斎藤が南部に取り次ぎを頼み、話があるから空いている時間に訪問したい旨を伝えておいてもらっていた。
はごくりと唾を飲み込み、土方を見る。
土方はゆっくりと口を開いた。
「こちらは山口と申します。斎藤の従兄弟です。会津藩の英吉利語習得に関わっており、私の小姓でもあります」
「山口です。よろしくお願いします」
土方の紹介に、は畳に手をついて深々と礼をした。
「ふうん。だがこの前の診察では見なかった顔だな」
松本が顎をさする。
どきん、どきんとの心音が大きくなってゆく。
「この山口は、女でして」
「…何?」
ぴくりと松本の眉が上がる。
はぐっと膝を覆う袴を握りしめた。
「何だって男ばかりの新選組に、女がいるんだ?」
松本が団扇を動かす手を止めた。
「それにはもちろん訳があります」
土方が居住まいを正す。
「法眼は“時渡り”をご存じか」
「ああ、今いるところから消えて、別の時に吹っ飛ぶってあれだろ。浦島太郎の煙も時渡りの一種だな」
「実はこいつが、その“時渡り”でこの時代に来たのです」
土方の声が、鴨川を流れる水の音の上を滑っていった。
20101115