久遠の空 ドリーム小説 港 3

update:2010.11.12

港 3 

 数日後の朝。
 が黒谷へ出かけた直後、西本願寺の太鼓楼脇にある門の前に駕籠が止められた。中から男がひとり出てきた。

 「松本ってんだ。近藤局長と約束がある。通してもらえねえかい」
 松本と名乗る男は、門番の隊士たちに剛胆な笑顔を向けた。
 頭を青々と剃り上げ、医官が着る、羽織によく似た十徳を身につけている。胸元にある胸紐は、腰にたばさんだ脇差とともに位の高さを示していた。

 松本はすぐに局長室へ案内された。
 「松本先生、ようこそお越しくださいました」
 近藤がいそいそと廊下へ出迎える。
 「よう近藤」
 松本は近藤の元へと足音高く向かった。

 「先日は長々とお邪魔いたしまして失礼いたしました。本日はご足労いただきまして」
 「固え挨拶はよしてくんな」
 近藤の丁寧な挨拶を松本は遮った。

 「ああ、トシ、こちらが松本良順先生だ」
 近藤は土方に松本を紹介した。
 「佐倉順天堂をお開きになった佐藤泰然殿のご子息で、十八の時に幕医松本良甫先生の養子に入られた。長崎で西洋医学を学ばれ、長崎の洋式病院開設に携わられる。 江戸に戻られてからは大樹公の侍医となり、法眼に叙せられ、翌年には医学所頭取…でよろしいですか」
 土方が立て板に水を流すごとく、松本の経歴を口にした。
 「トシ」
 近藤は苦笑いをする。初めて会う相手に土方が、あからさまに警戒しているからだ。それに、幕府の人間が相手ということで、こちらが雑多な集団と舐めてもらっちゃ困るとも思っているのだろう。
 「昨日あんたが話したんだろ」
 土方はフンと鼻を鳴らす。ゆうべ、松本を招くにあたって近藤が話したのをそのままそっくり言ったのだ。
 「へえ、じゃあおめえが土方ってのかい」
 松本は顔色一つ変えずに土方に近寄った。
 「近藤が言ってたぜ。土方がいるから新選組は安泰だってな」
 「…それはどうも」
 何を話しやがったと土方は目で近藤を問いつめる。
 近藤は笑いながら、いつまでも立ち話というのも何だからと、松本と土方を部屋の中に通した。


 「土方よ、あんたどこの生まれだ?」
 松本がどっかりと座り、土方に問う。
 「武州多摩、石田村ですが」
 まだ警戒の糸を解かず、じっと松本を観察しながら土方が答える。
 「ああ、やっぱりその喋り方、そっちだと思ったぜ。石田村か…じゃあ、本田覚庵さんってえ医者を知らねえかい」
 「…存じております」
 土方は本田の名を聞いて内心驚いたが、それを隠してゆっくり顔を上げた。
 本田は石田村の近隣、下谷保村の名主で医業を営んでおり、土方の従姉妹が嫁いでいる。土方もよく本田家を訪れていた。
 「本田先生ともご懇意だったのですか?」
 近藤が身を乗り出す。本田は近藤ともよくよく知った間柄だった。まだ近藤が天然理心流の宗家を継ぐ前に、六所宮(大国魂神社)へ額を奉納した際、本田に揮毫を頼んだりもしたほどの仲である。
 「いや、俺じゃなくて親父がな。よく治療の相談を手紙でしてたぜ。頼りになるって」
 松本は顔いっぱいに笑みを広げ、ばんばんと土方の背を叩いた。
 身内の話がでたことで、土方の眉間の皺が少し緩まった。そんな土方を見て、近藤は内心ほっとした。

 和らぎが感じられた場に神谷が茶を持って現れたのだが、松本を見るなり、とんでもない一言を放ったのである。

 「あっ、タレ目…!」
 と。

 一同がその発言に固まる中、神谷は失礼を詫びて部屋から逃げ去ったのだった。



 夜になり、が黒谷から戻ってきた。
 副長室に入ろうと廊下を歩いていくと、その向こうにある局長室の前に潜む影があった。
 「どなたです?」
 は中の様子を聞こうとしているその影に声を掛けた。
 影はどきっと飛び上がり、ゆっくりとの方を振り向く。その口には人差し指が当てられていた。
 「中村さん?」
 中村五郎だった。
 何をしているのだろうとが首を傾げると、中村は苛ついたようにの羽織の袖を引っ張った。

 は中村の隣に低く体を伏せさせられる。
 中村はの耳にこっそりと小声で話しかけた。
 (今、幕府の偉いお医者様がお見えになってて、全員診てもらったんですよ。でも神谷だけよくない病気があるらしいって言うんで、幹部がここに集められてるんです)
 (え?)
 は耳を疑った。

 神谷が、悪い病にかかっている?
 いつも快活で、暗くなりがちな組織の中、常に明るさを振りまいているあの神谷が?

 “幕府の偉いお医者様”がそう言うならば間違いないだろう、は中村とともに、障子の腰板の影に隠れて中の様子をうかがった。
 は荷物を胸元に抱え、中村の横顔を見る。眉間に険しさをにじませ、漏れてくる言葉を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてている。
 神谷は中村の態度に手を焼いていたが、中村は中村なりに神谷のことを案じているのだな、とは少しだけ中村に同情した。


 神谷の病は、“如心遷”という病名だった。
 男の体が女に変化するという、西洋でもたったの四例しか類を見ない奇病なのだと、中の声は言った。

 命に別状はないが、見た目が女子に近づいてくるのを本人が気にして気鬱になるのがもっとも恐ろしい、神谷がそうならないように皆で神谷の 身なりを気にせぬようにしてくれと滔々と語るのを聞きながら、は考えた。
 まさか神谷がそのような難病にかかっていたとは。確かに神谷は男にしては可愛らしい様相だと思っていたが、まさかそれが病だったなんて。
 だからこそ、この前沖田が言っていたように元服をためらっていたのか。見た目が女子に近づいていくのに前髪を落とすなんて、似合わないのではないかと。


 「お前ら、そこで何してんだ」
 冷たい声が廊下を撫でる。
 と中村が後ろを見ると、手燭を持った土方が眦を吊り上げて二人を見下ろしていた。


 中村は幹部棟の廊下からつまみ出され、は土方に引っ張られていった。
 「すみません、盗み聞きしてました」
 は素直に詫びる。
 「そんなこたあどうでもいい」
 土方はをぐいぐいと平隊士部屋の奥へと連れていく。
 「これを見ろ」
 かさりと土方が紙を広げた。
 「今局長室にいる医者が書いたもんだ。何だかわかるか?」
 は蝋燭の明かりにそれをかざす。四角い部屋の中に布団らしきものがきっちり並べられている。布団と布団の間には丸が描かれ、矢印で手桶と記されていた。
 「治療のための部屋…ですか?」
 「ああ、洋式病院の簡略図なんだそうだ。あっちの講堂にこれと同じようなもんを作ったから、お前、同じかどうか見てくれ」
 「かしこまりました」
 土方はに紙と手燭を押しつけ、すぐに戻ると言っていずこかへ消えた。

 は手燭を掲げ、目の前にある建物へ入っていった。
 そこは西本願寺の二十八日講用の部屋で、土方が寄越した紙のとおりに布団がのべられていた。手桶も示されたように配置されていた。さすがは土方である。
 図の通りにはなっていたが、換えの手ぬぐいがわかりにくいところに入っていたので、は籠を出してそこに手ぬぐいを入れた。

 「どうだ」
 土方が部屋に入ってきた。
 「はい、大丈夫です」
 は振り返って土方に紙を返した。
 「じゃあここに病人を移すか」
 土方はそれを受け取り、懐にしまう。
 そしてを廊下の端に連れていって、辺りを確認すると囁いた。
 (お前はどっかに隠れてろ)
 (え?)
 は問い返す。
 (近藤さんの知り合いの医者は、隊士全員を診察した。お前のことも、見たらきっと診ようとするだろう。そうなったら…)
 (はい。では台所にいます)
 (医者が帰ったら呼びに行く。それまでおとなしくしてろ)
 (お願いします)
 二人は静かな会話を終えると、それぞれの場所へさっと散って行った。



 数刻前、神谷が局長室から慌てて去った後、土方は松本の希望で屯所内を案内した。その時に隊士たちが部屋でごろごろと寝転がっているのを見て、松本が注意した。
 しかし寝転がっているのは皆病人だった。個々に医者にかかるよう言ってあるのだが、面倒がって行かない者が多く、治るまでそうしてじっとしているのだ。

 松本がそれを聞き、診察を行うと申し出た。蘭方医学の腕前を見せてやると。

 道具を取り寄せての本格的な診察が行われた。早駕籠で道具を持ってきたのは、会津藩の藩医、南部精一郎だった。
 南部を助手に据え、次々に診察は行われた。しかし男所帯ゆえの気楽さが不潔を呼び、鼻が曲がるような臭気を放つ隊士が大勢出てきた。
 松本は水浴びをしてから診察に寄越すよう言った。そして土方を呼びつけて衛生と健康の関わりを説き、清潔を保つために風呂場の整備や掃除洗濯のための小者を雇うよう言い渡した。

 土方はすぐに行動した。西本願寺の門主の元へ出向き浴桶を三つほど借り受けると言い渡した。相手の否やは聞かない、自分の即断が近藤の評価に繋がるからだ。
 その場に伊東がおり、土方は渋る門主を説得しておくよう、伊東に流し目を送った。伊東は一も二もなく受け入れた。
 伊東が門主と二人きりで何かを話していた。長州と繋がっているかもしれない、あの門主と。今一番大事な仕事に目を向けねばならないことはわかっていたが、土方はその事実を心の隅に差し込んでおいた。

 土方は風呂と病室の準備を整えると、松本に検分を願った。松本は両方をとくと見、揃うまでにあと数日はかかると見込んでいたので、「兵は拙速を聞くと申しますゆえ」と言う土方の素早さと、理解力からくる正確さに感心した。

 「どれ、じゃあ土方も診てやろうか」
 と松本が言った。土方が自分は問題ないと断ると、松本は新選組副長という大事な役目を持つ者がそれではいけないと言い、近藤の勧めもあって受けさせられた。
 土方は着物を脱ぎながら、やはりあの時を追いやっておいて正解だったと胸を撫で下ろした。


 その頃は、台所を片づけて茶を飲んでいた。
 食事の当番が男ばかりなので、台所は調理の際の汚れと食べ残しで汚れていた。
 このままでは臭くてここにいられないし、ただいるのももったいないので、片づけをしたのである。
 竈や調理台を磨き上げるのは容易なことではなかった。汚れがこびりついていて、力任せにごしごしとこすらねばならない場所もあった。
 何とか汚れを落とすとごみをまとめ、台所の外へ出した。猫や鳥に荒らされないよう、上から籠を乗せて重石もしておいた。 明日、ごみを処理してくれるように頼んでおけばいい。

 ひとりきりで静かに茶を啜っていると、外でどやどやと声が聞こえてきた。
 (お客さんが帰るのかな…)
 はもう少しの辛抱だと息を潜める。

 「ああ、そうだ。飯のことについて何も言ってなかったな」
 と声がして、ずかずかと重い足音が台所に近づいてきた。
 (まさか…)
 はどきりとして茶を捨て、湯呑みを流しに置いて逃げ道を探す。横についている戸が目に入り、そこを開けて外に出ようとするが、焦っているせいかがたがたと言うだけで戸が開かない。
 「松本先生、今日はもう遅いですし、後日でも」
 土方の声が聞こえる。
 「ちょっと台所見るだけだ、すぐ終わらあ」
 松本が正面の戸を引いた。

 「ほう、まあまあだな」
 手燭で中を照らしながら松本が言う。
 の姿は消えていた。土方は背中に冷たいものが伝うのを感じたが、再び胸をなで下ろす。
 「残飯はどうしている」
 松本は、ほんの少しだけ開いている横の戸を開けた。そこには籠で蓋をされたごみがあった。
 「土方、これだけ残飯やらごみやらがあるんなら、屯所で豚を飼え。あれは滋養の元だ。お前らみたいな戦いの日々ならきっと力がつくぜ」
 松本は豪快に笑った。
 「では早速そういたします」
 土方は冷静さを取り戻して言った。

 今度こそ足音が太鼓楼の門に向かっていく。
 は集会所の柱の影で息を整えた。
 間一髪、戸が開いてあの場から抜け出すことができたのだ。全速力で走って集会所の柱の裏側に滑り込んだ。安堵感からずるずると体が滑って、ぺたりと尻をついた。



 この日は何とか難を逃れた。
 しかし後日、は松本と対面する。
 土方、斎藤と一緒に、松本の仮寓を訪れることになるのだった。



 20101109