久遠の空 ドリーム小説 港 2

update:2010.11.05

港 2 

 大坂がにわかに騒がしくなってきた。
 征伐のため長州に向かっていた幕府軍が、急遽大坂に留まることになったからである。
 当初の予定では京にも大坂にも立ち寄らず、姫路を大きな休憩所とするはずだった。幕府は自らの意志で長州を討つ、天皇の許可など不要との姿勢をとっていた。
 しかし天皇のいる京を素通りするのはやはりよろしくないという慎重な意見が出され、大軍勢は大坂に入り、京におわします天皇に挨拶をしていくこととなったのである。
 この時点では誰も、まさか将軍家茂がここで没することになろうとは毛ほども想像していなかった。


 将軍の到着はまだ先だが、警備のために諸藩や幕府の諸隊が大坂に下ることになった。新選組もそれに漏れず、下寺町の万福寺を割り振られ、人数を動員することになった。
 「山崎君、今の大坂はどんなだね」
 局長室では幹部が集まり、大坂を探っている山崎を招いての会議が行われている。
 監察の山崎烝は隊士の素行も調査しているため、変装して局長室までやって来ていた。今回は小間物売りの変装で、馴染みの妓への贈り物を勧めに来たということになっている。
 「騒がしくなりそうな気配ですわ」
 山崎は首に掛けた手拭いを抜き取ると、小間物が入っている箱の上に置き、報告を始めた。

 「幕府が江戸と大坂に出した長州征討の献金命令は米の価格の高騰をじわじわと呼んでます。それに対して民の間から不満の声も上がってきている次第です。
 それに征討を声高に叫ばれて長州が黙っとりませんで、一部の過激派たちが京坂近郊に集まりつつあるようです。
 明石の尼崎では、昨年の禁門の変に敗れた長州の山本文之助いう男の墓にぎょうさん行列が出来て、大変な人気ですわ」

 山本文之助は禁門の変で京都から命からがら敗走し、落ち延びて尼崎藩に入った。尼崎藩は勤王の藩だから安心だと踏んだ山本だったが、尼崎藩は幕府の命を受けて警備を行っており、山本は捕縛されてしまう。 山本は「残念、残念」と叫びながら自害して果てたのだという。
 その山本の墓が二月頃から願掛けをするとどんな病でも治るとの噂が流れ、大坂の町人たちの間で爆発的な人気が出た。大勢の人が墓前に押しかけ、大坂から尼崎まで三里(約12キロメートル)に渡って 墓参の列が続いたのだそうである。
 見かねた幕府は「残念さん」と呼ばれた山本の墓参を禁じ、参道の橋を壊した。しかし信仰は途切れず、船を使ったり回り道をしてまで訪れる者が後を絶たなかった。

 「そんなことで人心を惑わそうとは…長州め」
 近藤はぎりと唇を噛む。幕府に反旗を翻そうとする長州のものを拝もうとは、それを守る側として許すまじき行動だ。
 「もともと京は王城の地ですし、大坂も今そんな雰囲気ですんで、あまり刺激してもどうかと」
 山崎は畳に手をついて報告の終わりを告げた。

 「そうか…では大坂へ派遣するのはどの隊がよかろうな」
 近藤はぐるりと幹部の顔を見渡す。
 反幕府の気配が漂う中、情報をしっかりと掌握して、民の心を刺激しない行動を取れる者。そしていざというときに腕が立つ者。
 「源さん、行ってもらえるか」
 井上源三郎に白羽の矢が立った。
 「かしこまりました」
 井上が両手をつき、深々と頭を下げる。

 「あともうひとつ隊を派遣したいが…」
 近藤はまた全員の顔に目を向けた。
 「局長、それならば三木はどうでしょうか」
 伊東が扇子で自らの実弟である三木を指した。
 「彼も神道無念流免許皆伝の腕前ですし、人当たりは悪くない。井上さんの元でご指示いただければ、必ずやお役に立つでしょう」
 「そうだな…それはいいかもしれん。頼んだぞ、鈴木君」
 近藤の大きな手が、参謀・伊東甲子太郎の実弟である三木の肩に置かれる。
 「はい」
 三木は返事をすると、兄の伊東に目を向けた。伊東がにっこりと笑みを向けると三木は伊東に期待されていると思い込み、頬を赤らめて近藤へ意気込みを語った。
 しかし周りの人間には分かっていた。伊東が三木を推したのは、自分にしつこくまとわりつく弟を追い払うためだということを。
 それに気づいていないのは当の本人と、元来人が良すぎる近藤だけだった。

 こうして大坂へは井上源三郎率いる六番隊と、鈴木三木三郎率いる九番隊が向かうことが決定した。
 そして大坂で活動している山崎や谷三十嘯スちと合流し、万福寺を中心とした大坂の治安維持に携わることになった。



 新選組は京坂近郊の治安安定に奔走する。
 大坂においては長州と繋がりがあると思われる儒学者、京都では長州人などを捕まえて、他の潜伏者について尋問を行った。

 も自らは探索や捕縛に加わらないが、朝な夕なに副長室へ飛び込んでくる情報でそれらを把握していた。
 しかし何よりも詳しく生々しい現場の様子を伝えてきたのは、出動した沖田からだった。


 一番隊の出動先には、も多少のかかわりがあった。
 ある日、会津藩にいわゆるタレこみがあった。
 膳所藩士の河瀬太をはじめとする一味に、将軍暗殺の疑いあり。上洛途中の将軍を待ち受け、身柄の奪取、最悪の場合爆殺までも計画に入っているとの、見逃せない情報だった。
 「山口! 山口はおるか!」
 黒谷で英吉利語の授業中、公用方の野村がずかずかと宿坊に入ってきてを呼んだ。
 「馬を貸し与える。急ぎ屯所に戻り、新選組に将軍暗殺の疑いのある一味の捕縛の命を伝えよ! 詳細はこれに書いてある、急げ!」
 「は、はいっ」
 野村の険しい表情には慌てて勉強道具をまとめ、野村から書状を受け取って馬を駆り、西本願寺へと戻った。

 西本願寺の集会所に入ったは、近藤と土方に野村からの書状を渡した。近藤は中身を確認すると、
 「トシ、すぐに出動できる隊はないか」
 と聞いた。
 「一番隊がいいだろう。今朝方巡察が終わったばかりで、次の巡察までに日がある」
 土方は即答する。
 「君、総司をここへ。同時に一番隊全員に出動の準備をするよう伝えてくれ!」
 「承知いたしました」
 はすぐに立ち上がり、袴の裾を翻して一番隊の部屋へ向かった。

 呼び出された一番隊組長の沖田は局長室に入った瞬間、ただならぬ空気を察して目の奥に灯をともらせた。
 近藤から一番隊へ河瀬捕縛の命令が下される。
 沖田は頷き、静かに部屋を出ていくと、すでに支度の整った神谷以下一番隊を引き連れて近江方面へと発った。


 翌日、河瀬らは一足早く幕吏が捕まえてしまい、一番隊に手柄はなかった。しかし会津藩から河瀬の家宅捜索を命じられ、今度は大津へと急行した。

 が沖田から話を聞いたのは、その大津から帰ってきた夜のことだった。
 局長室に近藤、土方、伊東が集まり、沖田から大津出動の経緯を聞いた。も状況把握のため、土方に言われてその場にいた。

 大津にある河瀬の自宅を捜索に行った沖田たち一番隊は、家にいた妻に事情を聞くため、同行を求めた。
 「女の身支度がございますゆえ、少々お待ちを」
 と河瀬の妻は言い、新選組を家の外に待たせた。

 ところが、どんなに待っても妻は出てこない。それどころか家の中からきな臭い匂いすらしてくる。
 沖田たちが邸内に踏み入ると、廊下の途中に黒い影があった。
 河瀬の妻が正座をして喉を突き、自害を図っていた。
 庭を見ると、紙切れが黒くひらひらとした消し炭になって地面にへばりついていた。かろうじて燃え残った部分を見てみると、河瀬の署名がある。 河瀬が仲間とやり取りした書簡とおぼしき燃えくずだった。
 夫が捕まり、尋問に耐えている。妻の立場の自分が、その夫の足枷になってはならないと、覚悟を決めたのだ。
 命を賭しているのは男だけではない。
 男を支える女もそうなのだ。

 は思う。この世で生きていくことしか考えていない自分の考えは何と浅いのだろう。
 土方の顔を、は見た。
 万が一の時に、自分はこの人のために命を賭けられるだろうか。
 いずれ、賭けねばならぬ時が来るのだろうか。


 「さん、さんってば」
 は肩を叩かれてはっとする。沖田が隣で苦笑いを浮かべていた。
 「報告はもう終わりなんですけど…ちょっといいですか?」
 「はい」
 沖田が手招きするのに、はついて行った。
 ちらりと土方を見やったが、土方は近藤たちと今後についての話し合いに入ったようで、のほうを気にする様子もなかった。


 沖田はを集会所の前にある大きな銀杏の木の陰に連れてきた。
 夜が更けると、境内は本当に静かだ。もう誰もが眠りに入っている時間なので、人の気配もない。
 「沖田さん、どうしたんですか?」
 は沖田を見る。沖田は持ってきた手燭で自分との間を照らした。
 「神谷さんのことなんですけど…」
 蝋燭の火がゆらりと揺れる。

 「神谷さんの?」
 「元服するって聞いてます?」
 「はい」
 「元服したら…その、前髪を落とさなきゃいけないじゃないですか」
 「…はい」
 「神谷さんが前髪を落として落ち込んでたら、慰めてあげてくれませんか?」
 「え?」
 「元服するのはいいんですけど、神谷さん、前髪を落とすのは嫌みたいなんですよ。えっと…その…そう、似合わないんじゃないかって心配してて」
 「はあ…」
 「たぶん神谷さん、ひとりでこっそり落ち込むと思うんですよね。だからさん、神谷さんが落ち込んでるのを見かけたら慰めてあげてください」
 「それはいいですけど…そうお思いになるなら、沖田さんが慰めてあげればいいんじゃないですか?」
 「私は剣術以外気の回らない男ですから、神谷さんの隣に座っても、何を言ってあげればいいかわからないんですよ。その点、さんは細やかな人だからお願いできるかなって」

 頭を掻きながらそういう沖田を見て、は心の中で呟いた。
 以前、神谷が元服のことで落ち込んでいたのはこのことだったのかと。
 そして沖田が剣術以外気が回らないなんて、そんなことはない。もし本当にそうなら、神谷が落ち込まないように気を回す相談など自分にすることなどない。
 不器用なんだな、とはくすりと笑った。

 「わかりました、もし神谷さんが落ち込んでいたらそうします」
 がそう言うと、沖田はぱっと笑みを広げた。
 「よろしくお願いします! ああよかった、さんならきっとうまく慰めてくれると思いますんで」
 「だといいんですけど」
 喜ぶ沖田に、はあまり期待されても困るなと苦笑いを返した。
 「今度お礼しますよ。何がいいだろう。あ、新しい甘味屋さんを見つけたんです! おごりますよ」
 「お、お礼なんていいですよ…本当に…」



 将軍の行列は、滞りなく西へと向かい、閏五月二十二日(7月14日)に入京した。
 前日には河瀬らの属する膳所藩へ宿泊する予定だったが、河瀬らの企てを警戒した幕府軍は迎えの用意が調っていた膳所藩を素通りした。
 入京の日は五つ時より雨だった。新選組は京の東、三条蹴上まで軍勢を出迎え、二条城入城まで警護の列に加わった。
 将軍は一度施薬院に入って衣服を改め、衣冠姿の一橋慶喜と共に参内し、この度の長州再征を奏聞。翌日二十三日早朝に二条城へ入った。
 ところがこの謁見で天皇は、前回の長州征伐を率いた尾張の徳川慶勝から長州が恭順したとの報告を受けたばかりで、まだ一年も経たぬうちにこうして将軍自らの親征が行われるのか疑問視する。
 一橋慶喜や松平容保ら現在の朝廷と幕府を繋ぐ者たちと相談の上で勅許を申請せよとのお達しが出て、将軍はそれまで大坂城に滞在することとなってしまった。
 将軍徳川家茂の大坂長期滞在が始まるのはここからだ。


 翌日二十四日、将軍は京を出発して大坂に向かった。しかし四つから降り出した雨が雷雨に変わり、伏見で泊まることになる。
 新選組も藤ノ森まで警護のため同行し、その後は大坂に派遣した部隊に任せることにした。

 二十五日、将軍は大坂に入る。大坂では将軍以下、大変な数の軍勢がいつまでになるかもわからない滞在をすることに不安が広まっていった。
 そこへまた長州がらみの参詣事件が起こる。
 禁門の変の直後に、大坂にあった長州藩の蔵屋敷が取り壊された。その跡地にある柳の木が今度の対象になった。
 その柳の葉を煎じて飲むとどんな病でも必ず完治するとの噂が流れ、あっという間に人々が群がった。
 無論、幕府は「残念さん」の時と同様、参詣を禁じる触れを出した。



 こうして無事に将軍が大坂へ入るのを見届けた京の新選組には、つかの間の平和が訪れる。
 もちろん大坂の動向は逐一報告が来るので、決して気を抜くことは出来なかった。

 そんな中、近藤が外出した。
 「江戸で会った人が大樹公(将軍)に着いて上京してきているんだ」
 夜半に帰営した近藤は大きな口を横に広げて微笑み、が淹れた茶を啜った。
 「そうですか」
 近藤が久しぶりにいかめしい顔つきを緩めているのを見て、もほっとする。
 「近々、その人が屯所に来たいと言っていたんだ。いいよな、トシ」
 「いいんじゃねえか、あんたが呼びたいってんなら」
 土方も茶を飲みながら返事をする。
 じゃあいつ呼ぼうかと近藤は浮かれ気味に思案を始めた。

 近藤がこれほど喜ぶ相手はどんな人なんだろう、気になるが自分は昼間は黒谷に行かねばならない。今回その人物と会うことは叶わないだろう。
 またの機会だろうな、とは思った。


 しかしは程なくしてその人物と出会うことになる。
 そして自らの重大な秘密を告白せねばならない事態に陥る。
 蘭方医・松本良順法眼、その男に。




 20101104