港 1
多くの隊士を江戸で獲得した新選組は、西本願寺集会所の建物にふさわしい大所帯となった。
人数が増えると言うことはそれだけ新選組の規模も大きくなると言うことだ。
外から見れば喜ばしい、組織として成長してきたと思うだろう。
しかし、人の目が多くなることは、必ずしも喜ぶべき事柄ではない。
とある日の朝、が黒谷へ出かける支度をしていると、副長室に沖田が挨拶にやってきた。
「おはようございます土方さん、さん」
「ああ」
「沖田さん、おはようございます…?」
が沖田を振り返って挨拶を返すと、沖田の後ろで小さな影がもぞりと動くのが見えた。
「おはようございまーす…」
沖田の背中からぴょこりと顔を出したのは神谷だった。だが、いつもは朝の太陽のように明るい笑顔が、今日は曇っている。
「おはようございます神谷さん、どうかしたんですか?」
浮かない顔つきの神谷を、は覗き込んだ。
「ほら、あれですよ」
再び背に隠れる神谷を苦笑いで振り返り、沖田は言った。
「あれ…あ、あれですか」
は少しばかり顎に手を当てたが、沖田が言外に示しているものに思い当たり、頷いた。
新しく入隊してきた隊士たちは、京に到着した翌日の朝、一番隊から十番隊に数人ずつ分けられ、仮の配属先を定められた。
ひと月ほどは見習いとしてこの配属先で組の隊務や生活に慣れさせ、やがて正式に配属先が決定するのである。
沖田がまとめる一番隊には五人の見習いが配属になった。
そのうちのひとりが、まことに厄介な男だったのである。
男の名は中村五郎。神谷と同じ十七歳。
その中村が、一番隊の見習いたちに荷物用の札を配って挨拶をしている神谷に向かってとんでもない言葉を口走ったのだ。
「あんた、女子だろう?」
と。
一瞬で神谷の怒りは沸点に達した。中村の胸元を掴むと、二度言ったら斬ると脅したのである。
はその現場を見ていなかったが、後から沖田に聞いてその迫力を想像し、そうだろうなと頷いた。
神谷は見た目こそ華奢だが、組の中でもっとも厳しいと謳われる一番隊に所属しているし、何と言ってもあの池田屋で病に倒れた沖田を守って奮闘した勇士だ。
女子のごとく見られるのを嫌っている神谷に、中村の言葉は禁句だった。
それ以来、神谷は中村から執拗に追いかけられている。
中村は神谷を女子だと疑っているようで、それを何としてでも暴こうとしているのだ。
神谷はあまりにも中村がしつこいので、逃げ回っている。
今朝も井戸端で歯を磨いている時にあれこれと話しかけてきた。それで今、ようやく中村を振り切って沖田の後ろにくっつき、副長室までやって来たのであった。
「まったく、朝から晩までしつこいんですよ! 気が付けば側にいてやたらと話しかけてくるし、遠くにいると思えばこっちをじーっと見てるし、気持ち悪いったらありゃしない」
神谷はぶるっと身を震わせる。
「さすがにここまではついて来なかったみたいですねえ」
沖田が廊下に顔を出す。
「用もないのに鬼副長の部屋に来るわけないですもんね」
神谷が勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「そんなくだらない理由で朝っぱらから雁首揃えてくんじゃねえよ、散れ!」
下っ端の事情など知らんと、土方が怒鳴りつける。
「自分は関係ないからって冷たいんだから」
神谷がぶつぶつと言いながら土方を睨んだ。
「まあまあ神谷さん、私も土方さんにご挨拶に来ただけですから。朝餉までちょっと境内の散歩でもしようかな。神谷さん、一緒に来てくれます?」
沖田が誘うと、神谷は喜んで後ろについていき、副長室を辞した。
は文机に向かう土方の背を見やる。苦々しい雰囲気が漂っている。
せっかく隊士拡充をはかってこれからなのに、面倒なことが起こりそうだと思っているのだろう。
は風呂敷の中身を確かめながら思った。
神谷の身に起きていることは、自分にも降りかかるかもしれない。
男の身である神谷ですらこうして疑われているのだ、女であることを隠している自分は、なおのこと気をつけねばならないと。
実際、女子のようだと噂されたのは神谷だけでなく、もそうであった。線が細く、巡察にも稽古にも顔を出さない。
しかも黒谷で英吉利語を、夷狄の言葉を学んでいるとはどういうことなのだと、新入隊士の間では密やかに話し合われていた。
それでも本人に問いただしたり、よけいなことを聞いたりする者が現れなかったのは、ひとえに土方のおかげだった。
はあの鬼副長の小姓である。厳しい隊規を作り、屯所内を鋭い目で見回り、剣術の稽古に赤い面紐で現れては次々と新入隊士たちを打ち据えてゆく。
その鬼の小姓に手出しをして無事に済むわけがない。誰もが震え上がり、影でこそこそするに留まっていた。
しばらくすると神谷は自力や他力で問題を解決した。
中村から沖田の名で茶屋に呼び出された神谷は、女子なんだろうと詰め寄られ、烈火のごとく怒って中村の服を切り、啖呵も切って茶屋を後にした。
神谷を呼び出したのが中村だと察した一番隊の相田と山口は土方に直訴し、一番隊から中村を追い出すことに成功したのである。中村は配置替えとなり、原田が束ねる十番隊に落ち着くことになった。
そのようにして神谷も沖田も、様子を見ていた土方もも胸をなで下ろし、新選組内部の動きは一時的に小康状態へ移って行ったかに見えた。
次に起こったのはもっと大きな―――日本国全体に関わる大きな出来事だった。
将軍徳川家茂が江戸を出立し、西に向けて進軍を開始したのである。
目的は長州の再征討だった。
昨年に起きた禁門の変以降、幕府は第一次長州征伐を計画していた。しかし長州側が三家老の首を差しだし恭順の意を示したため、計画は実現せずに終わった。
安心していた矢先、長州内で権力の交代が起こり、今度は倒幕派が実権を掌握、それを知った幕府は今度こそ堪忍ならぬ、長州を断固叩きのめすべしと動き出したのだ。
幕府は江戸や大坂の豪商たちに長州征討のための献金を命じ、慶応元年五月十六日に江戸を発った。
それを聞いた近藤は非常に張り切り、隊士を集めての朝礼でも、おおいに力のこもった檄を飛ばした。
「これでようやく大樹公のお役に立てるなあ」
いかつい顔を綻ばせながら近藤は自室への廊下を歩く。
近藤が喜び沸き立つ様子を見て土方も口元を綻ばせた。
集会所の前がわっと涌いたかと思うと、神谷と、十番隊へ移動になった中村、十番隊組長の原田が中心となっていた。
中村をあしらった神谷は沖田の側へ寄り、何事か言われてしゅんとしたかと思うと、今度は同じ隊の相田と山口の元へ行き、にこにことまぶしい笑顔で話しかける。
「神谷清三郎は今が正に成長期だな」
近藤がその光景を見てますます笑みを広げた。
このひと月ほど、神谷は沖田と秘密の特訓を続けていた。二人で、誰にも負けない神谷流の戦いを模索していたのだ。
それがだんだんと形を成してくると、神谷の中に自信が生まれてきた。自信は自然と神谷に輝きを添え、女子として花開く年齢になってきたことも相まって、美しささえ醸し出していた。
ところが、男所帯の新選組ではその輝きが徒になり、中村のように“妙な目つき”で見るものが増えてくる。神谷の周りには騒動が絶えなかった。
そこへ近藤が、ひとつの話を神谷に持ちかけた。
その日、が黒谷から戻ってくると、暗くなった集会所の階段に神谷がひとりで腰掛けていた。
「…さん、お帰りなさい」
「ただいま戻りました。おひとりでどうしたんですか?」
辺りを見回してみても、いつも一緒の沖田の姿が見えない。
「ええ、ちょっと…」
神谷はため息をもらして下を向く。
は何となく神谷をひとりきりにしておくことは憚られる気がしたので、隣にそっと腰を下ろした。
神谷はしきりに前髪を摘んで、しごいては指を離す。
白い額に黒い髪がぱらぱらと落ちた。
暗い夜空に灰色の雲がたなびき、ゆっくりと形を変えながら東の山並みに消えていくのが何度も繰り返される。
神谷はようやく小さな息を吐き出し、話し始めた。
「近藤局長が…私に元服を勧めて…」
「元服、ですか…」
は元服についてよく知らない。元の時代の成人式のようなものを想像してみた。
「局長が烏帽子親を務めてくださるのはありがたいんですけど…」
「えぼしおや…」
話はあまりよくわからないが、神谷がとまどっているのはよくわかる。
「神谷さん、もしかして元服」
「ごめんなさい、何でもないです! おやすみなさいっ!」
急に神谷は立ち上がり、階段を勢いよくかけ上がると、一番隊の部屋へと入っていった。
は神谷のあまりの素早さに、呆然とその背を見送った。
は土方の部屋へ戻った。
「ただいま戻りました」
「ああ」
土方は文机に向かって書状をしたためている。
はその背に向かって話しかけた。
「土方さん、元服ってどんなことをするんですか?」
「元服?」
「神谷さんが局長に勧められたとか…」
は事の次第を土方に話した。
「元服は前髪を剃り落として、烏帽子親に大人の名前を付けてもらって大人の仲間入りをするもんだ」
「大人の仲間入り…」
はそれを聞いて考える。
神谷は前髪を落としていない。つまりまだ大人の儀式を行っていないのだ。大人の名前を付けてもらうなど、とても大事なことに違いない。それを局長たる近藤がやってくれるとは、大変ありがたいことなのではないだろうか。
隊を挙げて大人の儀式をしてもらい、局長が名付け親になる。神谷が新選組の中で頑張ってきたからだろう。それなのに、神谷の表情は浮かないものだった。何故だろうとは首を傾げる。
「元服すりゃあ、今よりは奴を変な目で見る野郎も減るだろ。とっとと前髪落としちまえばいいんだ」
土方が面倒そうに息を吐く。
確かに神谷は隊内で話題に上りやすい。
しかしそれは愛くるしい神谷の見た目だけではないとは思う。
神谷は心底明るい。幼い頃に母親を失い、父と兄をもまた火災で失うという災難にも遭った。新選組に入り、人も斬った。
それなのに自分を見失わず、仕事を次々とこなしてゆく様はきらきらと光輝いている。そのあふれんばかりの輝きが、どうして人を引きつけずにいられようか。
ふと気がつくと、土方が頬杖をついてこちらを見ている。
「…何か?」
「お前も元服するか?」
土方がにやりと笑う。
は頭上にもくもくと想像を広げ、“ちょんまげ頭”になっている姿を思い浮かべる。
微妙、という顔つきになったを見て、土方はくつくつと笑った。
神谷が元服に悩んでいる頃、にも問題が起きようとしていた。
「京を離れる…?」
いつもどおり黒谷での授業に集った以下、英吉利語習得の面々は言葉を失う。
彼らの師であるハーバーは青い目をしばかたせて頷いた。
「最近、京、危険になってきまシタ。私の兄も、早く国に帰るよう、しょっちゅう手紙よこしマス」
生徒たちは何も言えずにただハーバーの言葉を聞いていた。
市井が攘夷に沸く昨今、会津藩お雇い扱いとは言っても京に住まうハーバーへの視線は厳しいものがある。住まいである書葎みなと屋の近所の者たちは
ハーバーの人となりをよく知っているから理解があるのだが、たまたま彼を見かけたものは、恐ろしいものでも見るようにハーバーを凝視するのだ。
はじめのうちはスーツで黒谷に出入りしていたハーバーだが、その姿が余りにも目立ちすぎるので、今は羽織袴に笠をかぶっての黒谷通いをしている。
それでもすっと伸びた高い背と、見上げたときに見える金髪碧眼は十二分に目立っていた。最近では物騒だからと、英吉利語習得の面々がみなと屋まで付き添うこともしばしばという状況である。
「それで、先生はこの後どうされるおつもりなのですか?」
「横浜に行こうと思いマス。横浜の友達に手紙出したところ、通詞の仕事あると返事きまシタ。横浜に来る船を待って、国に帰りマス」
「横浜ですか…」
江戸から戻ってきたばかりのは、横浜がどんなに遠いのかを考える。滅多に行き来の出来ない、遠い道のりだ。イギリスなどさらに遠い。
この大恩ある人に、もう二度と会えなくなるかもしれないと思うと、は頭を垂れた。
「あなたタチはもうワタシがいなくても、ジュウブンやっていけマス。それは教えたワタシが保証しマス」
ハーバーはにこにこと笑みを浮かべると、授業を始めると言って居住まいを正した。
まさかこんな急にハーバーとの別れがやってくるとは、生徒の誰もが思っていなかった。
も講義を受けながら、もうこの碧い目の笑顔に会えなくなってしまうのかと思うと、胸がふさがって苦しくなるのだった。
20101026