久遠の空 ドリーム小説 第十二章その後 寄り道

第十二章その後 寄り道



 京へ戻ってきてから、の様子が変わったと土方は思う。
 黒谷へ行ってイギリス語の勉強をし、屯所へ戻ってくる、それは変わらない。しかし今までは帰ってきてから食事を済ませると行灯に火を入れて勉強を進めてから床についていたのに、身の回りのことをするとすぐに寝てしまうのだ。
 「おやすみなさい」
 と言って布団に潜り込み、程なくして寝息をたてる。
 江戸で彼女に迫ったから自分を避けて、という雰囲気ではない。単に疲れているだけのようだ。
 黒谷で何かしているのかーーー気になりながらも、本当に大事なことなら報告するはずだと土方は思い、聞かずにいた。





 「ご指導ありがとうございました。また明日お願いします」
 は床板に手をつき、頭を下げる。
 うむ、と目の前の人物は満足そうに頷く。
 は荷物をまとめると、黒谷を後にした。

 日が落ちるのがだんだんと遅くなってきた、その中をはてくてくと歩く。
 鴨川から川風が上がってきて、節々が痛む体に気持ちよく吹きつける。は疲れとともに大きく息を吐いた。

 さわさわと柳の揺れる川岸。
 五条大橋を渡って川の向こう側に出ようと思ったとき、
 「じゃないか?」
 後ろから声がかけられた。

 振り向くと、伊東がそこにいた。
 「伊東参謀」
 は伊東に小走りで駆け寄り、ぺこりと頭を下げた。
 「こんなところで…って、黒谷からの戻りの途中かな?」
 「はい」
 「それはそれは、こんな遅くまでご苦労様」
 伊東はにこりと美しい笑みを浮かべる。
 「参謀は、何かご用でお出かけですか?」
 「いや、土方君は相手にしてくれないし、内海もうるさいから気晴らしにね。そうだ、夕餉はまだだろう? 一緒に食事しないかい?」

 はわずかに逡巡した。
 もし伊東と話す機会があったら報告しろと土方から指示されている。だが無理はするなとも言われている。
 そして土方の指示を受け入れたのは、にも伊東に聞きたいことがあったからだ。

 それは、山南のこと。
 山南が切腹したあの日、伊東と弟の三木がこっそりと話していた会話の断片。
 伊東が山南の死に関与しているかもしれない。
 それを暴いてどうこうしようとはかけらも思っていないが、本当のことが知りたい。

 この機会をどうとらえるべきだろう。好機か、そうでないのか。
 迷いはすれど、ここで断る理由も見当たらない。は、
 「お供させていただきます」
 と伊東の隣に並んだ。
 伊東は口元に弧を描くと、の背に手を添えて歩き出した。


 伊東とは少し歩き、七条にある小さな茶屋へ入った。伊東の馴染みの店らしく、店の女将は伊東を見るとすぐに奥の部屋へ案内した。


 中庭に面したその部屋は、とても静かで趣があった。
 庭には高低様々な植え込みがあり、低い石灯籠のあかりに照らされて青い姿を浮かび上がらせている。
 細い水の流れが庭を横切り、白砂の端にはししおどしが控えていた。


 「江戸行き、ご苦労だったね」
 「遠かったですよね、お疲れさまでした」
 整えられた酒肴を前に、二人はまず一杯飲んだ。
 は遠慮がちに伊東とやや距離をとって座る。
 酒はよせと眉をひそめる土方の顔が頭に思い浮かんだが、少しだけならひどく酔うこともないと思い、一杯だけつきあうことにした。
 「風邪もすっかり治ったようだし、安心したよ」
 「あ、そうですね。参謀にはお手数をおかけして申し訳ありませんでした」
 江戸からの戻り直前で風邪を引き、伊東に看病してもらいながらの道中だったことを思い出し、は頭を下げる。
 「いいんだよ、君が元気になってくれれば。まあ、土方君とゆっくり話が出来なかったのは残念だったけどね」
 伊東は涼やかな目をに向けた。
 は曖昧な笑みを返す。
 具合が悪かったのは本当だ。しかし、伊東から土方を引き離すための作戦でもあった。
 行きは夜な夜な飯盛女を買っていた土方も、帰りはその金がなかった。伊東を土方に近づけさせないためには、手段は何でもよかった。
 伊東は面倒見がいい。病気の自分を置いて土方の部屋に忍び込もうとはしないだろうと踏み、は伊東に看病を頼んだのだった。

 同時にそれは、土方から自分が離れる口実でもあった。
 キスが下手だから練習だなんて、あんなことをされたら。
 好きな相手だけれども、向こうは自分のことを好きでもないのに。
 許嫁に振られたショックで、一時の紛らわせであんなことをするなんてひどいのに。
 ますますこの気持ちは奥へ奥へと踏み込んでゆく。
 許嫁がいることがなんとありがたかったことだろうと、今更になって思う。彼には相手がいるのだからと、自分を押しとどめてこられたのだ。

 「…? 大丈夫かい?」
 自分の思考に入り込んでしまったの前で、伊東が手を振る。
 ははっとして箸をとり、膳の上の小鉢に手をつけた。

 「罪作りだよね、土方君も」
 伊東はくつりと笑う。
 は自分が土方のことを考えていたことを見破られたと思い、箸を止めた。
 「あんなに冷たそうな風を装っていても、考えていることは火のように熱い。彼の持っている理想と僕の持っている理想をすり合わせて、ともに近藤局長をもり立てていきたいだけなのに、照れ屋さんなんだから」
 「はあ…」
 伊東の物言いに、は知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ。
 土方は照れ屋である、それは認めるが、伊東に対しては心底嫌がっているのをは知っている。いや、誰でも知っている。気づいていないの本人ばかりだ。
 
 「最近、疲れてるんじゃないのかい? 土方君が目に見えて心配しているよ。君がいない時間は機嫌が悪いし、いればいるで君のほうばかり気にしている」
 「ええ…まあ…」
 はそっと視線を外した。
 確かに疲れている。
 は江戸から戻ってきてから、黒谷での剣術体術の稽古にまじめに取り組むようになったのだ。
 相手が土方ならまだいい。
 もし組み伏せられたのが他の男だったら。
 もし女だと感づかれて、体を暴こうとする者が相手だったら、今のままでは最低限の抵抗すら出来ないだろう。
 それを反省したは、自分の身は出来る限り自分で守ることにした。そのために黒谷で藩士を対象に行われている稽古に、積極的に参加するようになったのである。
 師範には、その姿勢は大いに喜ばれたが、今までさぼっていた分だとよけいに厳しい稽古を付けられている。そのため、西本願寺の屯所に戻ってくるともうへとへとなのだ。

 「土方君は君のことがとても好きみたいだね。妬けてしまうよ」
 「いえ…そんな…」
 苦笑いを浮かべる伊東に、は手を振って否定した。
 土方は自分のことをそんな風に思っていない。女だとばれないように、時を越えてここにいることを知られないように協力してくれているだけだ。
 すべては秘密を守るための振り、芝居なのである。
 この前は許嫁のことがあって、気の迷いでキスをされたけれども、あれはあくまでもあの場のことだけ。



 ばっ、馬鹿! そんなんじゃねえよ! どこから来ンだその勘違い!
 そうじゃねえっつってんだろうが!

 ふと土方が自分の推測を打ち消したことが脳裏によぎる。

 万が一にも、お荷物の自分のことなど。絶対にない。
 いてはならない自分がなぜこの時代にいるのか、一番よく知っているのだから。
 絶対に…。
 は頭を振る。


 「だけどね、僕だって負けないよ。江戸で彼に接吻されたのは君だけじゃない」
 「え?」
 は再び自分の考えに入り込みそうになったところを引き戻された。
 「僕もされたんだからね」
 どうだ、と言わんばかりの顔で伊東はを見た。



 「…」
 は目をぱちくりとさせる。
 コンと、ししおどしが音を立てた。


 「張り合うのが君のような美しい子だと僕もやりがいが」
 「…伊東参謀!」
 は目を輝かせて伊東の側へと膝を進める。
 伊東は、距離を置いて座っていたが急に近づいてきて、驚いて杯の酒をこぼしそうになった。

 「教えてくださって、ありがとうございます」
 はにこりと笑って銚子を持ち、伊東に酒を勧める。
 「あ、ああ」
 伊東は予想外の反応に面食らい、杯を出すのが一瞬遅れた。


 そうか、とは笑みをたたえる。
 伊東にもそうしたのか。
 つまり、本当に誰でもよかったのだ。
 気を紛らわせるためには、自分でなくても。
 一瞬でも勘違いしてしまった自分が恥ずかしい。
 あり得ないとわかっているが、勘違いの方向へと事が向かっていなくて本当によかった。
 はにこにこと上機嫌で伊東に酌をする。


 普通は自分の思い人が別の相手と…と知れば、少なくともいい顔をしないのではないだろうか。の反応に伊東は困惑する。
 土方は絶対に譲らないという余裕の現れなのだろうか。
 (この態度といい、夷狄を打ち払おうとする新選組の中にあってただ一人英吉利語を学んでいる事といい、もしかするとこの子は意外と大物なのかもしれない…)
 面白い子だ。
 伊東はにんまりと笑った。


 は膳に載っている汁椀を取り、口元に運んだ。
 爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。
 透明に澄んだ汁の中に茗荷が浮かんでいた。

 「いい香りだね」
 伊東も茗荷に気づき、汁を啜る。
 「茗荷って、食べると物忘れするって…」
 そんな話を聞いたことがあったなとは思った。
 「、それはちょっと違うよ」
 伊東がふと顔を上げる。
 「その話は、釈迦の弟子に周梨槃特という者がいてね、彼の墓に多く自生していたことに由来するんだ。槃特は生来物覚えが悪く、もの忘れもひどかったらしい。 遂には自分の名前すら忘れるようになったので、自分の首に名札をつけていたそうだ。そこから来たただの俗説なんだよ」
 「そうなんですか…」

 芽生えてどんどん育ってくるこの気持ちを忘れることなど、きっと出来はしない。
 俗説だとしても、茗荷を食べて土方への恋心を少しでも忘れることが出来たらどんなに楽だろうか。
 はしょうもない考えにくすりと笑いながら、心持ち苦めなその実を噛んだ。


 二人は日常のことや江戸下向のことなどを、しばらくの間話していた。
 の遅い帰宅と、許嫁と別れた土方の心情に関する度重なる勘違い、伊東と二人きりで長時間過ごしていた事へ土方の雷が落ちるまで、あと一刻。







 20100918