久遠の空 ドリーム小説 薄紅の雨宿り 14

薄紅の雨宿り

update:2010.09.17

薄紅の雨宿り 14 

 翌日、と土方は石田村を後にした。
 為次郎をはじめ、土方家の人間は皆、二人の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
 たった一晩だけだったが、にとって土方の実家は静かで居心地がよかったし、彼が育った家を見ることが出来たこともよかった。
 そして何よりも、土方が自分のために心を砕いて、江戸への居残りを考えてくれたことが嬉しかった。
 その申し出を断ってしまったのだから、今まで以上にしっかりしなければと、は拳に力を入れた。

 土方を見上げると、もう実家を訪れた気安さは微塵もなく、まっすぐに前を見据えている。
 も前を向いて、土方の歩幅に合わせて歩き出した。



 二人は馬で試衛館へ戻った。
 藤堂と斎藤は二人の戻りを迎え、伊東は二人だけでどこまで行ってきたのかと口を尖らせた。

 その翌日からは、藤堂が言ったとおりに入隊希望者の第二陣がどんどんやって来た。
 も帳簿をつけたり、幹部たちの補佐をしたりと忙しい毎日を過ごすこととなった。



 そして、早く咲いた桜も遅く咲いた桜もすっかり散り、四月も終わりに近づいたある日。
 とうとうたちは京へと戻ることになった。
 新入隊士は五十二名。それを九つの隊に分け、一同は東海道に入るべく、品川宿に泊まった。

 は土方に協力してもらって一人で風呂に入らせてもらい、部屋でぼんやりしていた。
 どうやら風邪を引いてしまったらしい。土方家を訪れた夜に体を冷やしたのがはじまりだったようだ。
 その後の忙しさに気を張っていたが、新入隊士が決定した途端にくたりと横になってしまったのである。

 寒気がするので、衣替えの季節は過ぎていたが綿入れを貸してもらい、はそれを肩にかけておとなしくしていた。
 長く歩くことは出来ないが、行きと同じように駕籠と馬を使って何とか同道できる。
 は早く良くなるように祈りながら、茶を啜った。

 「どうだ具合は」
 土方も風呂から上がってきた。
 は赤い顔をしてこくりと頷く。
 これから熱がまだ上がりそうな顔をしていやがると、土方は短くため息をついた。

 土方はすでに布団が敷かれているのを確認すると、を抱き上げて布団に押し込んだ。
 同じ布団に自分も入り、綿入れの上からを抱きしめる。
 「風邪、移りますよ…」
 はかすれた声で言う。
 土方は無言のまま、を抱きしめる腕に力を込めた。
 余計な期待などしない。土方は、自分の具合が優れないままだと道程に遅れが出るから、早く治って欲しくてこうしているだけだとは己に言い聞かせる。
 でも腕の中にいると、つい居心地が良くて、甘えてしまう。将来を約束した相手がいる男とこんなことをしている自分が嫌なのに。
 放してもらおうとが身じろぎをした時、土方の唇がの耳元に寄ってきた。

 「お前に、頼みがある」
 「…何でしょうか」
 病人の自分に何をだろうとは耳を澄ませる。
 「伊東のことだ」
 「参謀の…?」
 の目に、僅かながら光が浮かぶ。
 「そうだ。斎藤から聞いた話では、伊東は俺たちが日野に行っている間、試衛館に来ない日があったらしい。斎藤がそれとなく聞き出したところによると、幕府寄りでない人物と会っていた可能性が高いそうだ」
 「幕府寄りでない…」
 は曇っている頭でも何とか土方の話を理解しようと、重要な言葉を繰り返した。
 「伊東と何か話した時は、どんな小さいことでもいい、報告しろ」
 「わかりました」
 「ただし、無理矢理聞き出すようなことはするな。お前が危ない」
 「わかってます」
 自分が土方の命を受けていることを見破られたり、行き過ぎて女だとばれてしまって弱みでも握られたら元も子もない。ただ伊東から何か聞いたら土方に報告するだけ。は細心の注意を払わねばならないことを心に刻んだ。

 「頼んだぞ」
 土方はそう言うとを仰向けに転がし、の顎を取って顔を近づけた。
 の手が、病人とは思えないほど素早い動きで土方の唇を塞ぐ。
 「何するんですか」
 「依頼の前払いだ。行きの飯盛女買いで金がねえからな」
 土方は悪戯っぽい目でを見下ろす。
 「土方さんの頼みなら、これぐらいただでします」
 さんざん世話になっているのだからとは付け足す。
 「それに…許嫁のかたに、怒られます、よ?」
 は笑った。うまく笑えただろうか。自信はない。


 「別れた」
 土方がぼそりと言う。
 「…え?」
 は耳を疑った。今、別れたと聞こえたが、聞き間違いだろう。
 「お琴とは、別れた」
 「え…え? 別れ…?」
 いつのまに、との脳内はぐるぐるかき回される。
 あの時だろうか。日野に向かう際に立ち寄ったぜんざい屋の前で、許嫁と思しき女性がいた、あの時。
 許嫁が赤い顔をして俯いていたのは、涙を堪えるためだったのか。
 もしそうだとしたら、土方が自分に許嫁を紹介しなかったのも理解できる。
 そして、河川敷にあった桜の木の下で、あんなことをしようとした理由もわかった。


 「土方さん…」
 は土方を見上げる。
 おとなしくなったを見て、土方もと目を合わせる。


 「許嫁のかたに振られたからって、やけになったらいけませんよ」
 「…は?」
 「ノブさんのところに送ったお馴染みさんたちからの手紙を、許嫁のかたが見て怒ったんでしょう? 土方さんのお戻りをずっとお待たせしているし、便りもあまり書かないからとうとう…」
 「ばっ、馬鹿! そんなんじゃねえよ! どこから来ンだその勘違い!」
 「心配しなくても大丈夫です、私、土方さんが振られたなんてそんなこと、組の皆さんに言いふらしたりしません」
 「そうじゃねえっつってんだろうが!」

 「とにかく、私じゃ慰めになりませんから、京に戻ったらお馴染みさんの誰かの所へ―――」
 が嘆息すると、土方はの手首を掴み、布団に押しつけた。
 「
 「は、い…」
 土方は射るような視線でを見る。
 は気圧されて、無意識のうちに喉を鳴らした。
 あれだけのことをしても自分の気持ちにまったく気づいていない。
 どうなってんだ、この野暮天女はと土方はため息をついた。

 「だいたいお前、下手くそなんだよ。少しは練習しろ」
 「下手って…何…が…」
 にやにやと笑う土方の目。その視線が自分の唇に注がれているのに気がつき、はかあっと顔に血が上った。
 土方の手が、の短い髪の隙間に差し込まれる。
 「ほら、練習だ」
 「や、そんなの上手にならなくてもいいです」
 「遠慮すんな」
 「して、ませ……ん…」

 がらっと障子が開き、伊東が入ってきた。
 「土方君ひどいじゃないか、僕が風呂に入るまで待っててくれればよかったのに…って、お取り込み中だったのかい」
 「伊東参謀…」
 ずかずかと部屋に入ってくると伊東は早口でまくし立てたが、二人を見て目を細めた。
 その後ろは斎藤がいる。
 は目をきらりと光らせると、脱力する土方の下からよろよろと抜け出して伊東の背後に回った。

 「伊東参謀、助けてください。私病気なのに、土方さんが無理しようとするんです」
 「え? そうなのかい? 土方君、いくらが好きだからって、それはいけないよ」
 の発言に伊東は秀麗な眉を寄せる。
 「何言ってやがる。こっちへ来い」
 寄りによって伊東の後ろに隠れるとはと、土方は眉をつり上げてに手を伸ばした。
 「参謀、お願いします。良くなるまで看病してくれませんか」
 「おやおや」
 「看病なら俺がしてやる。とにかくそこから出てこい」
 「病人のたっての頼みだ、土方君、とりあえず今夜はを預かるよ。、おいで」
 「はい」
 伊東は懐から扇子を取りだしてぱっと広げると、優雅にそれを振りながら退出した。も伊東に続いた。
 はちらりと斎藤に視線を送る。
 斎藤もそれに答え、目だけで頷いた。
 部屋には土方と斎藤が残された。


 伊東の部屋に入ると、伊東がすぐに布団へと案内してくれた。はおとなしくそこへ潜り込む。
 「どういうつもりなんだい?」
 の隣にごろりと横になった伊東が聞く。
 「別に、言ったとおりです」
 は布団から頭だけを出して答えた。
 伊東はの前髪を指に巻き付け、くるくるともてあそぶ。
 「僕の側にいて、土方君と寄り添わせない作戦だとしたら見事だなと思ったんだけど」

 伊東の指摘に、はぴくりとした。
 そう、当たっている。伊東の姿を見た時に、江戸へ来た時のことを思い出した。土方は伊東が夜な夜な現れるのを警戒して、飯盛宿に泊まり、飯盛り女を買っていたのだった。
 自分が土方と寝ればそれが防げると土方に提案されたが、拒否をした。
 先ほど、土方は金がないと言っていた。それでは飯盛女作戦は使えない。
 元々は伊東と土方を引き離しておけば済む話だ。つまり、自分が伊東を引きつけておけばいい。そうひらめいたのだ。

 黙りこくるに、伊東はくすくすと笑う。
 「君に免じて、道中は土方君とそこそこ仲良しにしておくよ。病人は安静にしてゆっくり休むのが何よりの薬だ。今は君の体調がよくなるのを最優先にしようじゃないか」
 伊東は立ち上がり、宿の者に手桶と手ぬぐいを借りて来た。
 冷たい水に浸された手ぬぐいが額に載せられ、はその気持ちよさに目を閉じる。
 「喉が渇いたら言うといい。水の用意をしてあるからね」
 伊東は行灯に火を入れるととの間に丈の短い屏風を立てた。
 「明日の駕籠の手配も頼んでおいたから、心配は無用だよ」
 「ありがとう、ございます…」
 ふふっと伊東は笑うと、僕はもう少し起きているからと屏風の裏に消えた。

 墨をする音がし、黒い香りが漂う。
 さらさらと筆が紙の上を滑るのが聞こえてくる。
 行灯の明かりはそう明るくない。手元が見えるようになるのがせいぜいだ。屏風を立てる必要などない。
 見られたらまずいものを書いているのだろうか。
 何を書いているのか気になるところだが、とりあえず伊東を土方の元に行かせないことには成功したので、あまり欲をかかないことにした。



 一行は東海道を進み、五月九日には草津へ到着し、翌日京へ戻った。
 近藤をはじめ、沖田、神谷、井上らは幹部たちの無事な戻りと、大勢の隊士獲得をおおいに喜んだ。
 風邪を引いていたも旅の途中で回復し、しっかりとした足取りで西本願寺の門をくぐった。


 はすぐに一橋慶喜に手紙を書き、京へ戻ってきたことを報告した。
 黒谷に通い出したの元に、慶喜が現れた。

 慶喜は、英吉利語の授業が始まる前の宿坊にふらっとやって来た。
 は慶喜が上座に座ると、その前に平伏する。
 「江戸行き、大儀であった」
 だらしなく胸元を開け、髪はほつれている。遊び人の浮之助の格好だ。
 「出立前はお気遣いいただき、ありがとうございました。おかげさまで無事に戻ってこられました」
 はそう言うとより深く頭を下げた。

 「聞いてるよ、アンタ、開成所であっちのやつらとやり合ったんだって?」
 慶喜はくくくと喉の奥で笑う。
 「いえ…そんなことは…」
 は二つの派閥に別れた開成所の面々を思い出す。あの時は身の程を知れと怒鳴られて、何も言い返すことが出来なかった。自分は何もしていない。 誰かが慶喜に書状をしたためたのだろうと推測する。

 「大鳥に、開成所の教授になれって言われたんだろう?」
 「…はい」
 その話題が来たかとは冷や汗を垂らした。
 だが、自分の気持ちは決まっている。
 「浮之助様、私は」
 は顔を上げた。

 「やんないよ」
 慶喜は肘をついてを見つめる。
 「…え?」
 は行きたくないと言おうとした言葉を飲み込んだ。
 「アンタを江戸にはやらない。行きたいっつったって行かせねえからな。以上だ」
 そう言い放つと慶喜は立ち上がって、ぽかんとするを尻目に宿坊を出て行った。

 「若、よろしいので」
 護衛についてきた新門辰五郎が慶喜に話しかけた。
 「ああ、いいのさ。江戸の野郎どもが残念がったりほっとしたりするのが目に浮かぶぜ」
 慶喜は緑の影が落ちる階段を降りてゆく。
 「それにな」
 そしてゆっくりと宿坊の屋根を振り返る。
 「あれは来るべき時に必要な人材だ。それまではせいぜい泳ぐがいいのさ」
 その目は遊び人ではなく、日本の中枢にもの申す男の目だった。


 は勉強机を並べながら思う。
 江戸に行けと言われても仕方がないのに、逆に禁じられた。
 これで江戸に行かなくて済むと、胸をなで下ろす。

 授業が終わったら、寄り道せずに早く帰ろう。眉間に皺を寄せるあの顔の元へ。
 そう思ったが、結局江戸行きについてあれこれと勉強仲間に聞かれることになり、帰りはとっぷりと日が暮れた後になってしまった。
 また遅えと怒られるのだろうと思うと、の口元には苦笑いが浮かぶ。
 空に瞬く星たちを見上げながら、は早足で帰り道を辿った。






 20100909





本章参考文献:
『新選組日誌コンパクト版<上>』 菊地 明・伊東成郎・山村竜也 新人物往来社 2003年
『知れば知るほど面白い 土方歳三』 藤堂利寿 学研 2004年
『新選組決定録』 伊東成郎 河出書房新社 2003年
『土方歳三の生涯』 菊池明 新人物往来社 2003年
『江戸の旅は道中を辿るとこんなに面白い』 菅野俊輔編著 青春出版社 2009年
『現代訳 旅行用心集』 八隅 蘆菴・桜井 正信 八坂書房 2001年
『東京大学百年史 通史一』 東京大学百年史編集委員会 1984年