薄紅の雨宿り 13
生温かい感触が唇に触れ、離れる。
の目はまばたきを忘れた。
今の。
今のって…。
固まるに、土方はもう一度顔を近づける。
そして、また軽く唇を重ねた。
ついばむようなそれが何度か繰り返されて。
はやっと何をされているのか気づく。
駄目だと思いつつも、土方の肩を押す手に力が入らない。
土方はの体を倒し、口の中に深く押し入ってゆく。
肩にかけていた傘が支えを失い、土手の斜面を転がっていった。
「や…っ」
継がれる息の合間に、は短く抵抗する。
土方は自分の肩を押す細い手を剥がし、指を絡める。
濡れた土の香りが、二人の体を包んだ。
土方の手がの体を伝い、着物の裾をめくる。
「駄目…」
はその手を制そうとするが、土方にたやすく抑えられてしまう。
土方はの唇をむさぼり続ける。
消えたかと思ったところを見つけて。
冷えた体を預けられ。
側に置いてくれと見つめられて。
自分の中で、何かが壊れる音が聞こえた。
気がつけばもう腕の中の彼女の唇を塞いでいた。
「あ、あの、私、酔ってて…」
は言い訳にもならない言葉を口にした。
土方は目をまっすぐに見つめて言った。
「俺も、酔ってる」
二人の影は再び重なり合う。
土方の指がの腿に触れた。
きめの細かい感触が指先に伝わってくる。
「土方さん…止めてください…」
は離された手を再び土方の肩にかけ、少しだけ戻ってきた力で押した。
だが土方はの足の間に体を置き、びくともしない。
「…ほんとに、駄目っ」
の拳が土方の肩をどんどんと叩く。
彼女がこの世の誰とも結ばれてはならぬと固く戒めているのは百も承知だ。
誰にもその心を明け渡すなとも言った。
それでも。
この思いを、遂げたい。
土方の心に誘惑の火がともる。
「土方さん…!」
とは常にない乱暴な手つきで土方を押した。
「何だ」
の声があまりにも切羽詰まっているので、土方は少しだけ話を聞いてやろうと思い、体を起こした。
「体っていうか…頭…斜めに…しないでくれませんか…酔いが回って…吐きそう…」
ざくざくと、土方の草鞋が土を食む。
その背にはがだらりと背負われていた。
確かにここの土手は勾配が急だ。
酔っている時に頭を下にすると気持ちが悪くなるのもわかる。
が、よりによって人が口説いている時にそれを言うのか? と土方はため息をついた。
そこで無理をするわけにもいかず、土方は傘を拾ってたたむとの尻の下にあてがい、提灯も持ち、を背負って家へと向かった。
は土方の歩に従って揺られながら、体をすっかり広い背に預けていた。
酔いが回って気持ち悪いのは、振りだ。
あんなことをされては酔いなど吹っ飛ぶに決まっている。
悪酔いをした振りでもしなければ、あの場を逃れることなど出来はしなかった。
きっと土方はやめてくれると踏んで、嘘をついた。
でも、いったい土方は何を考えてあんなことをしたのだろう。
は土方の横顔を見る。が、暗くてどんな顔をしてるのかよくわからない。
「気持ち悪いんじゃねえのか」
苛立ちを含んだ声が土方の口から漏れる。
「あ…はい」
は上げた顔を土方の肩に伏せた。
今考えるのはやめようとは思った。こんなにまとまらない頭で何を考えようとも無駄だ。
いつのまにか雨は止んでいた。
背に、前に。
互いの温もりを感じながら、二人は土方家に戻った。
少し酔いを醒ましてから部屋に入ると言い、は廊下で降ろしてもらった。
「少しだけだぞ」
夜も更けて、気温はさらに下がっている。体を冷やしては風邪を引くかもしれない。
土方はを廊下の柱にもたれかからせると、部屋に入っていった。
小さく障子が閉まる音がすると、は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。暗い中でも白い息が漂うのが見えた。
あんなことがあった手前、すぐに同じ部屋で休むなんて切り替えができず、はしばらく自分を落ち着かせる時間がほしかった。
空を見上げると、先ほどまで雨を降らせていた雲が切れ、雲間から星が見え隠れしている。
ぎし、と廊下が軋む音が聞こえ、は振り返った。
為次郎がそこに立っていた。
「お帰り」
「あ…はい、すみません、土方さんに迎えに来ていただいて…」
はふらっと出て行ってしまった自分を恥じ、下を向いた。
為次郎はいいんですよと笑いながらの横に座った。
「何かお話があったのでしょうか。土方さんがおっしゃってましたが…」
土方がそんなようなことを言っていたのを思い出し、は為次郎に話しかける。
為次郎は口元を緩めると、まるで見えているように空を見上げた。
は為次郎の横顔を見つめる。
微かな星明かりに照らされた顎の線は、土方そっくりだ。いや、土方のほうが弟なのだから、土方が為次郎に似ていると考えるべきだろうか。
「さん、でよろしかったかな」
「えっ…」
突然本当の名前を呼ばれて、の心臓はぎゅうっと縮まる。
「歳三から聞きましたぞ」
の動揺を感じたかのように為次郎が笑った。
「経緯はだいたいあやつから聞きました。本当に、江戸に残るつもりはないのですかな?」
為次郎は優しく語りかける。
「もしあなたがここに残りたいと言うならば、かわいい弟の頼みだ、喜んで引き受けよう。他の家族もきっとわかってくれると思う」
は俯いた。
土方が為次郎の部屋を訪れたのは、このためだったのだろう。土方家を継いではいないが、もっとも年長である為次郎に話したのだ。自分が女であること。これまでのこと。そして土方が自分をここに残そうとしていることを。
「いいお話だと…思います」
は土方が話したであろうことを否定せず、答えた。
「でも…」
そして顔を上げ、為次郎に視線を向けた。
「私は、京を離れるのが最善だとは思っていません。京にいれば、数年後に出入り口である池は必ず光ります」
の小さな声が、雨に濡れた風に乗って為次郎に届く。
「それに?」
為次郎が続けた。
「え?」
「まだ何か理由がありそうですが?」
「い、いえ…別に何も」
はどきりとして再び俯いた。為次郎とはさっき二言三言話しただけだ、土方への思いを見透かされるはずがない。
それとも見えざる者には、どんなに微かな心の波動も感じ取られてしまうのかとは目を瞬かせる。
「本当に?」
「…本当です」
焦る気持ちを押し隠し、は冷静に言葉を放った。
「おや、これはこれは…歳三のひとり相撲だったかな?」
為次郎が苦笑いをする。
何を言われているのかわからず、はきょとんとした。
「」
その時、がらりと障子が開いて土方が出てきた。
「いつまで起きてんだ。もう寝ろ」
「あ、すみません、うるさいですよね。もう休みます」
は慌てて立ち上がろうとした。しかし為次郎がそれを制した。
「まあ、もう少しだけ私につきあってくれないか。歳三、酒を持ってきなさい。少しだけ温めてな」
「…わかった」
土方はため息をつくと台所へ向かった。
土方が消えると、為次郎はに向き直る。
「さん、もう一度、顔を触らせてはくれまいか」
「はい…」
は為次郎の側に寄ると為次郎の手を取り、顔に導いた。
ごつごつとした節の太い指が、の輪郭を確かめる。
は目を閉じ、為次郎の指の感覚を感じ取った。柔らかく、温かい指だ。
「そうか…あなたが…歳三があの娘と話をつけてまで…」
為次郎は低く呟くと、の手を握りしめた。
「歳三はあれでも心根の優しい、いい子だ。よろしく頼みますぞ」
は頷いた。
「私の方こそ、とてもよくしていただいています。ご迷惑をおかけしておりますが、今後もお世話になると思います」
「あれは迷惑だなんて思っちゃいませんよ」
為次郎は何度も頷いて、の手をしっかりと握った。
「酒だ」
土方が戻ってきた。手に持った盆には銚子がひとつと杯が二つ載っている。
「銚子を」
と為次郎が言うと、土方が為次郎に銚子を持たせた。
「お前とさんとで飲みなさい。ほら、杯を持って」
「ああ?」
為次郎の申し出に土方は眉をひそめる。
「俺と兄貴で飲めばいいだろ。こいつは酒が苦手なんだ」
土方がを横目で見て言う。
「まあまあ、一献一献」
為次郎が銚子を傾けようとするのを見て、は急いで杯を持って銚子の口の下にあてがった。
土方がを睨みつける。はちょっとだけ、と言って杯を受けた。
土方もしぶしぶながら杯を持ち、為次郎に酒を注いでもらった。
杯を持った二人はわずかな酒をぐっと飲み干した。
酒が喉を熱く滑り降りる。は喉に違和感を感じて咳払いをした。
「ごちそうさまでした。おやすみなさい」
は頭を下げると立ち上がり、先に部屋へと戻った。
土方は銚子と杯を盆に載せ、立ち上がる。
「歳三」
為次郎も立ち上がり、土方の肩に手をぽんと置くと耳打ちした。
「あれはなかなか手強そうだ。今のが固めの杯の練習だと思って、頑張れよ」
「た、為兄!」
土方は真っ赤になって小声で怒鳴る。為次郎は悠々と廊下を歩いて自室へ戻って行った。
そんな思惑があったとはつゆ知らず、は酒の力を借りてぐっすり眠ってしまった。
20100909