薄紅の雨宿り 12
さわさわと桜の枝が揺れる。
は目を覚ました。
辺りは暗いままで、しっとりとした空気がすうっと喉に入り込んでくる。
その中に、よく知っている匂いが混じっているのに気がつき、身じろぎすると、暖かな何かがすっぽりと自分を包んでいた。
「…?」
はゆるゆると顔を上げて首を後ろへ向ける。
土方が、自分の後ろに座り込んでいた。
土方はを後ろから抱え、二人の頭の上に傘を広げて木にもたれ掛かっている。が目を覚ましたのに気づくと、ふーっと息を吐いた。
「こんなところで何やってんだ」
土方はをぐっと抱き締める。
「土方さん…?」
は座り直そうとしたが、酒と、周囲を包む湿り気で体が重く、動けない。
「為兄との話が終わってお前を呼ぼうと思ったら部屋にいねえし、隼人から散歩に行ったって聞いたとたんに雨降ってくるしよ」
「すみません、ちょっと…その…桜が見たくて」
「だったら俺が部屋に戻るまで待ってればよかっただろ。一人で出歩くんじゃねえ」
「…そうですね」
は霞がかった頭で考える。
何も知らない土地でひとり、日の落ちきった夜にふらふらと出掛けるなんて、どうかしている。
そこへ雨が降ってくれば、土方に心配をかけないわけがない。
はもう一度すみませんと呟くと、土方に体を預けた。
土方はの頭に手を置き、細く柔らかい髪の感触を確かめる。
為次郎と長々話をして、を交えて三人で話そうと思ったら、彼女は部屋にいなかった。
しばらく待っても戻ってくる気配がなかったので家の中を探すと、隼人から外出を告げられて。
外に目をやると、庭の草木を細やかな雨が撫でていた。
傘を引っ掴んで土手へと走ると、花明かりがぼんやりと遠くまで続いている。
そう遠くまでは行っていないはずだと思いながら、土方は歩いての姿を探した。
しかしどこにも人の動く影が見えない。
まさか雨に打たれて元の時代に帰っちまったのかと、夜気に身を震わせた時。
土手の斜面に立つ桜の木の根に、きらりと光るものが見えた。
土方は短い草の生える斜面を駆け下りる。
いた。
が木の根にもたれて倒れている。
土方に居場所を教えるかのように光っていたのは、隼人がに持たせた提灯だった。
土方はすぐにの顔をはたく。
しかしは目を閉じたままで、すう、と息をするだけだった。
微かな明かりに照らされた横顔は、あっけないほど安らいだ顔で。
土方はの体を抱き起こすとその後ろに座り、を抱えて木に背を預けた。
提灯の側には銚子が転がっている。拾って中の匂いを嗅いでみると、ほのかに酒の香りが上がってきた。
酒はよせと言ってあるのに、飲んで寝ちまいやがったのかと土方は推測する。
幸いなことに、頭上の花に守られて、雨粒は地面まで届いていない。いつぞやのように、雨に当たって中途半端に
時を越える心配はなさそうだ。
春の雨だからこれ以上雨脚が強まることはないだろう。
だがもし雨が花びらの隙間から漏れてきた時のことを考え、土方は傘を広げた。
春になったとはいえ、夜の空気はまだ冷たい。の手足も頬も、すっかり冷たくなっている。
風邪でも引いたらどうするんだと土方はの体にぴたりと寄り添った。
それでも知らないところで元の時代に戻ってしまったわけではないことに、土方の心は凪いだ。
が目を覚ましてからしばし。
ざぶん、とぷんと、川の水が岸辺に打ち寄せる。
二人とも口を開かないまま、時が過ぎた。
「…何か、ご用でしたか?」
静寂に石を投げたのはの方だった。
「あ?」
「為次郎さんとお話が終わって…私を呼ぼうとしたって、おっしゃってましたよね」
「…ああ」
は待ったが、土方は一向に続きを話そうとしない。
体に回した手の人差し指を時折とんとんと打ち付けるだけだ。
ざあっと、強く風が吹き、薄く光る花びらが漆黒に散る。
「…お前」
土方が、すっと息を吸った。
「はい」
が答える。
土方はの耳元に唇を寄せて言った。
「江戸に、残る気はねえか」
「……え?」
は俯いた顔を上げた。
「開成所の教授方に声かけられてんだろ。一橋公に行けと言われたら、公に雇われてるお前は断れねえ」
「は…い…」
の体が無意識に小さく震え出す。
「もしお前が女だと露見してみろ。公だけじゃねえ、会津藩にも近藤さんにも迷惑がかかるだろう」
土方はの震えを感じ取り、彼女の両手を自分のそれで覆った。
「男の振りも疲れてるんじゃねえのか」
「…そんな、こと」
「もしお前が望むなら、俺の実家にお前を置いてやってもいい。もちろん女としてだ」
「でも、京に戻らないと…おかしく思われませんか?」
「お前は江戸で死んだことにしておく。旅先で命を落とすことだって珍しくはねえからな」
「…」
「どうだ」
は再び項垂れた。
土方の展開する理論は分かる。ここで自分が京で積んできた全てを捨てて、女としてこの地で過ごすのが、あらゆる方面においていいだろう。
しかし、それは自分がこの時代の人間であるならばの話だ。
自分は元の時代に戻らねばならない。その出入り口としてもっとも可能性が高いのは、京の壬生にある、前川邸の庭の池だ。
同じく時を越えてきた猫から、出入り口は一カ所ではないと聞いたが、無闇に京を離れたくない。
新選組は今や京の治安維持になくてはならない集団だ。現在のところ、組の解散など考えられない。
土方がいつ日野へ戻るかもわからない状況で、ここに世話になり、水場を探す。
そして時を越える光を湛える水場を見つけたら、飛び込まなければならない。
共に秘密を抱えてくれた斎藤にも、局長である近藤にも、得体の知れない自分によくしてくれた沖田や神谷にも、こんなに惹かれてしまった土方にすら別れを言えずに、
この世界を離れなければならないのだ。
だが、それ以上に。
土方の側を、離れたくない。
土方が自分のことをよく考えてくれるのには感謝の言葉もない。
しかし、もし自分がここに残らせてもらうとする。
土方は近々京へ戻る。
土方家の人たちが理解を示してくれて、家事の手伝いなどをさせてもらいながら何とか置いてもらっている間には、
土方の許嫁であるあの人が、嫁ぐ家の様子を見に何度かやってくるかもしれない。
それに笑顔で応対できるだろうか。
「…土方さんのご実家に、ご迷惑をおかけするわけにいきません」
はやっとその一言を絞り出した。
「家のことを手伝ってくれれば、迷惑になんかならねえ」
土方が即答する。
「でも…」
口にしてはいけない。これは私情だ。
側を離れたくないなんて、言えない。
「お側に…土方さんのお側に、置いていただけませんか?」
しかし、酔いの醒め切らぬ頭では、思いを堰き止めきることは出来なかった。
「あ?」
「えっと、その…私、小姓ですから…開成所のことは、自分で何とかしますから…」
訝る土方に、は零れてしまった言葉を必死で取り繕う。
「だから…今まで通り小姓として、土方さんの…お側に…」
言いたいことがまとまらない。己を踏みとどまらせるだけで精一杯だ。
体を離せばもう少し冷静になれるかと思い、は土方の腕をどかそうと力なくもがく。
土方の腕が緩まり、は横抱きにされた。
土方の指がの顎をとらえ、上を向かせる。二人は視線を合わせた。
の目は酔いと戸惑いで潤み、頬も上気して赤い。
土方はの髪に指を差し入れる。
暗闇の中でもわかる、射るような視線。
抑えられているため目をそらすことが出来ないは、それを遮断するようにまばたきをする。
まばたきはほんの一瞬のはずだった。
その隙に、土方が唇を押しつけてきた。
20100826