久遠の空 ドリーム小説 薄紅の雨宿り 11

薄紅の雨宿り

update:2010.08.20

薄紅の雨宿り 11 

 昼餉をもらった後、土方とは日野宿本陣を後にした。
 「息災でな」
 主であり義兄の佐藤彦五郎が、門の外まで出て二人を見送る。
 「彦兄も」
 土方も並んで門をくぐる。
 「体には気をつけなきゃ駄目よ」
 その後ろから姉のノブが土方に言う。
 「ノブ姉こそ、彦兄のこと尻に敷きすぎるなよ」
 「まあ、この子ったら」
 土方が口の端だけで笑うと、ノブはむっと口を尖らせて大きな背をばしっと叩いた。
 「山口さん、歳三が何かやらかしたら私の代わりにきつく叱ってやってくださいね」
 ノブが一番後ろを歩くを振り返る。
 は頷くともなく苦笑いだけを見せた。
 「また来いよ」
 と見送りを受け、土方とは日野宿本陣を出た。


 土方は旅装に身を包んだ人が行き交う大通りから外れ、南に向かった。
 辺りには田畑が広がり、ところどころにぽつぽつと家が立っている。
 二人はのんびりと農道を歩いて行った。

 次はどこに連れて行かれるのだろう、馬を頼まなかったということは、そう遠くへは行かないのかもしれない。もし土方が考え事に没頭していなければ聞いてみようかとは土方を見上げる。
 土方が、じっとこちらを見ていた。
 しかもただ見ているだけでなく、こちらの何かを読み取ろうとするような視線で。
 「あ、の、次はどこへ…」
 は無意識に胸元に手をやり、問うた。
 「俺の実家だ」
 土方が答える。
 「近いんですか?」
 「まあな。今度は歩いて行ける」
 「はい」
 土方はから視線を外した。
 は手を胸の前から下ろし、ふうと息を吐いた。

 二人はのどかな田園風景を通っていく。
 時折ちらりと土方を仰ぎ見ると、やはり考え込んでいる表情になっていた。
 京からこちらへ来る途中にも思案に眉を寄せていたが、それは藤堂へ山南のことをどう語るかについてで、藤堂と話し合って解決したはずだ。
 ところがここ数日も土方は同じように、難しい顔をしている時がある。何をまだ考え込むことがあるのだろう。
 小姓とは名ばかりで碌に土方の役に立っていない自分には及びもつかないような、副長という立場ならではの悩みが土方にはあるのかもしれないとは思った。

 には、もうひとつ気になることがある。
 土方が江戸に来た以上、自分の故郷を訪れるのはわかる。
 それに何故自分を同行させるのだろう。
 一人で行き来する方が気楽だし、存分に羽を伸ばせるだろう。
 許嫁らしき女性と会った時だって、自分が待っていなければもっとゆっくり話が出来たのではないだろうか。

 もし土方が一人で出掛け、自分が試衛館に置き去りになった時のことを考えてみる。
 斎藤が守ってくれるとはいえ、伊東が何らかのちょっかいを出してくるだろう。それで厄介ごとが起きる場合を想像してみれば、連れ出した方がましだということなのだろうか。

 遠くに桜並木が見えてきた。土手の上に木が並び、薄い桃色の花が鈴なりに咲いている。川風に揺られる様は、春そのものだ。
 風に翻って白く光るその光景に、は目を細めた。



 「ここだ」
 土方が、茅葺きの長屋門の前で足を止める。
 はその門が横に広いのにも驚いたが、その奥に入ってもっと驚いた。

 門の向こうには、母屋がずっしりと構えていた。
 屋根が、門と同じく茅葺きなのだが、比較にならないほど分厚く巨大だ。
 広い庭には数多くの植物が緑をなしており、奥の方にはお稲荷さんとおぼしき赤い鳥居が見える。

 「歳三さん、お帰りなさい!」
 溌剌とした笑顔で出迎えたのは、二十歳そこそこの若者だった。
 「隼人、どうだ。ちゃんとやってるか」
 「はい、歳三さんのおかげで!」
 「そうか」
 肩から手ぬぐいを抜き取って近寄ってくる青年は、人なつこい様子で土方に話しかける。
 土方もにこやかな笑みを浮かべて青年と言葉を交わした。
 「母も為次郎おじさんもお待ちしてますよ、入ってください。お連れさんもどうぞ」
 青年は土方とを家の中に誘った。


 (ここが…土方さんのご実家…)
 は広い部屋に通され、座りながらそっと室内を見回した。
 床の間には古そうな掛け軸が据えられていて、その前には白磁の一輪挿しがあり、桜の枝が花開いている。
 縁側からは庭が見え、家に入ってきた時に見た緑が並んでいた。
 「本当に久しぶりですこと。私たちもあなたが佐藤家にいる間に出向ければよかったのだけれど、生憎忙しくて…」
 二人の前に茶が置かれた。
 「お久しぶりです、なか姉さん」
 土方が頭を下げる。
 も揃って頭を下げた。

 そこへ先ほどの青年が、年のいった男性とともに部屋へ入ってきた。
 「歳三、お帰り」
 「為兄」
 土方はすっと立ち上がり、年のいった男性のそばに寄るとその手を取って、床の間の前に置かれた座布団まで導いた。
 はその様を見て、ふと思った。
 昔、土方から盲目の兄がいると聞いたことがあった。この男性がたぶんその人なのだろう。

 「為兄、なか姉さん、隼人、息災で何よりだ」
 全員が座ると、土方はぐるりと顔を見回して言った。
 「お前もな、歳三」
 為兄と呼ばれた年かさの男性が、口元に深い笑みを湛える。そしてまるで見えているように首を動かした。
 「もう一人いるようだが…どなたかな?」
 は意表を衝かれた。自分はこの部屋に入ってきてから、まだ一言も発していない。盲目の男性がこの部屋に入ってきてからも、身じろぎ一つしていない。なのに、この人には自分がいるのがわかるのだろうか。
 「ああ、俺の小姓で山口ってんだ」
 「や、山口です。いつも土方さんにはお世話になっております」
 土方の紹介に、はやっと口を開いた。
 「、こっちが今、家長を務めている隼人、隼人の母親で俺の死んだ兄貴の嫁さん、なか姉さんだ」
 「歳三さんがお世話になってます」
 「ようこそお越しくださいました」
 出迎えてくれた青年と、茶を持ってきてくれた女性がそれぞれ頭を下げる。も手をついて挨拶をした。

 「俺の一番上の兄貴の、為次郎だ」
 土方は最後に盲目の男性をに紹介した。
 「為次郎と申します。どうぞよろしく」
 為次郎は低い声でに言葉をかける。
 「山口です」
 は他の二人にしたのと同じように、深々と頭を下げた。
 為次郎の手が前に伸びる。
 「手を」
 と土方が言い、の手を掴んで為次郎のそれと重ねた。
 為次郎はの手をそっと両手で包み込む。

 しばしの間、為次郎はそのままでいた。
 これが目の見えない為次郎なりの相手の確認方法なのだろうと、は動かずにいた。
 「…山口さん、すまんが顔を触ってもよろしいか?」
 為次郎が切り出す。
 は土方を見た。
 土方は少し硬い表情になったが、頷いた。

 は少し前に進み出て、為次郎の手を頬の辺りへと持っていった。
 為次郎の手のひらがの顔の輪郭を伝い、指先が額、目、鼻筋、唇の端と順に触れる。

 「歳三」
 の顔から手を離した為次郎が、土方に向き直る。その声は柔らかだが、底知れぬ深い何かを感じさせ、は身を震わせた。
 「為兄、あとで積もる話がしたい。飯を食って風呂に入ったら、ゆっくりな」
 土方は為次郎に言う。それはまるで、為次郎が言わんとする何かを感じ取り、制するような口調だった。
 「…よかろう」
 為次郎は頷くと、ふっと雰囲気を緩めた。


 茶を飲みながら土方が、京での暮らしや新選組についての話をする。
 為次郎も隼人も、土方が語るきらびやかであり、血生臭くもある都の様子に身を乗り出した。
 しばらくすると夕餉が運ばれてきた。
 土方の話は尽きなかったが、昨日までのような大人数による騒々しさはない。は土方の声に耳を傾け、話を振られれば頷いたりしながら、落ち着いた食事の時間を過ごした。


 「お風呂沸きましたよ、どうぞ」
 と、なかが男たちに風呂を勧めてきた。
 「為兄、先に入れよ」
 土方が為次郎を促す。
 「そうかい、じゃあ遠慮無く」
 為次郎がゆっくりと立ち上がった。
 「そう、風呂と言えば、歳三さんはよく私を捕まえて、熱い風呂に放り込みましたよね。“これぐらい熱い風呂に入れなければ、将来偉い男にはなれねえぞ”とか言って。とても熱かったのに、私は本気で信じて我慢して入ってました」
 隼人が為次郎と一緒に立ちながら笑う。
 「それから風呂上がりに相撲の真似事をしていたな。家の柱に張り手を何度も何度もかますもんだから、家がギシギシ言って倒れねえかヒヤヒヤしたもんだ」
 為次郎も白い歯を見せた。
 「そうだったか?」
 土方はうそぶく。
 は為次郎と隼人が語った風呂の光景を頭に思い浮かべた。
 …土方ならやりそうな気がする。
 そう思うとくすりと笑いが漏れ、土方に肘でこっそりとつつかれた。

 為次郎に続いて土方が風呂に入った。
 体から湯気を上げて部屋に戻ってきた土方は、
 「次はお前だ。今夜は為兄と話がある。先に休んでいろ」
 と言って、襖一枚隔てた隣の為次郎の部屋の前に移動する。
 は言われたとおりに風呂をもらうことにし、運び込まれた布団を敷いて、借りた着替えを持った。

 「為兄、俺だ」
 土方が一声掛けて為次郎の部屋の襖を開けた。すたんとそれが閉められる。
 が廊下に出、障子を閉めようとしたその刹那。

 「お琴に、会ってきた」
 襖の向こうから、土方の声が流れてきた。


 どれぐらい熱い風呂に浸かっていたのか分からない。はくらくらする頭で何とか着替えを済ませ、風呂から出た。
 部屋に戻るとさっと障子を開けて着替えを中に入れ、すぐに閉めて部屋から遠のく。
 この時代の夜は静かだ。車の音も電車の音も、室内を照らす微かな電気の音もない。
 先に休んでいろと言われたが、静寂の中で隣の部屋の会話が聞こえてくるのが怖い。
 風呂でのぼせたし、少し外でも歩いてこようとは考えた。

 は居間に足を向けた。
 そこには思った通り、隼人がいた。
  「すみません、ちょっと散歩してきます」
 は隼人に告げる。何も言わないで消えれば後で土方が心配するだろうが、家の誰かに言っておけば安心するだろう。
 「お付き合いしましょうか?」
 隼人が腰を浮かす。
 「いいえ。すぐそこに土手がありましたよね、そこまでですから」
 は顔の前で手を振った。
 「そうですか、じゃあちょっと待ってください」
 隼人は立ち上がって部屋から出て行き、ややあって戻ってきた。
 「これをどうぞ。土手なら今、桜が満開です。花見酒など」
 そう言って、に徳利を差し出した。徳利の首には持ち手のような細い縄が巻き付けられ、頭には杯が乗っている。
 「私、お酒は…」
 は酒は止めておけと目をつり上げる土方の顔を思い浮かべた。
 「夕餉の時、ちっとも召し上がらなかったじゃないですか。少しだけでもおもてなしさせてくださいよ」
 隼人はの手に縄を握らせる。
 確かに夕餉の席では酒を飲まなかった。隼人と為次郎がどんなに勧めても一滴も飲まず、土方もをさりげなくかばってくれた。
 しかし土方家の当主である隼人に“おもてなし”と言われて断るのも憚られ、持って行くだけならとは考え直し、隼人に礼を言って外へ出た。


 隼人が気を利かせて持たせてくれた手提げ提灯を揺らしながら、は暗闇を歩く。
 空は雲がかかり、鈍色。
 その下を自分の草履が地面をこする音だけとともに進むと、目指す土手まで来た。

 見た目よりも急な斜面を上り、土手の上に立った。
 下にはそこそこ幅広の川があるようで、水面がかすかにきらめき、豊富な水が流れる音が低く響いてくる。
 左右に視線を散らすと、土手沿いに植わっている桜が、消炭のような暗い背景にぼうっと浮かび上がっていた。


 は土手の中程に、一本だけ立っている桜の木を見つけた。
 転げ落ちないように気をつけ、そこまで下りる。
 提灯が倒れないように何度も平行を確かめて下に置くと、も木の根に腰を下ろした。

 他の桜は土手の道沿いに行儀良く並んでいるのに、この木だけがぽつんと道から外れている。
 けれども枝振りは立派で、花も美しく咲いている。
 そんなこの木に何となく引かれて、は土手を下りてみたのだった。

 土方に連れられて江戸までやって来て、試衛館や彼の姉の嫁ぎ先である日野宿本陣や、実家を訪れた。
 はその間に見た土方の、普段は見られないような顔を次々と脳裏に浮かべる。
 久しぶりに顔を合わせた知人に見せた、屈託のない笑顔。
 ぴりぴりとした緊張を微塵も漂わせない、寛いだ雰囲気。
 昔のことを言われ、誤魔化しきれずに赤くなった耳。
 冷静な面持ちの多い土方の顔が崩れるのを思い出し、はふふっと肩を震わせる。

 だが、映像が突然切り替わり、の心に黒い幕が落とされたかと思うと、そこに左三つ巴がくっきりと浮かび上がった。
 それは土方の背中で、その向こうには淡い黄色をした着物の女性の姿がある。
 あれが土方の許嫁。あれが話に聞いたことのある、お琴という女性。
 この世でただ一人、土方との将来を約束された人。
 は膝を抱えると、その間に顔を埋めた。



 「桜の木の下には…」
 は小さな声を絞り出した。
 桜の木の下には死体が埋まっているという。
 ならば、どうしてその花びらはこんなにも白いのだろう。
 死体が埋まっているのならその血を吸って咲く花びらは赤くてもいいではないか。

 いや。
 桜の花びらが白いのは、木に魂を浄化してもらったからかもしれない。
 埋められた死体は木にそのすべてを吸い上げられ、白く輝く魂となって、花びらから空に上る。
 だからこうして闇夜にもほのかに光っているのではないだろうか。


 ざぶざぶと絶え間なく川の音が聞こえてくる。
 その音にはふと我に返った。
 何を剣呑なことを考えているのだろう、と。
 桜の木一本ずつに死体が添えられているわけでもないし、科学的な根拠があるわけでもない。
 感傷的になりすぎだ。

 でも。
 そう思わざるを得ないほど、夜の桜は幻惑的な生命の色を見せて。

 「美しいな…」
 は上を見る。
 曇り空に光はないが、自分の頭の上は満開の桜だ。

 その時、こつんとの手に何かが倒れて当たった。隼人がくれた酒の徳利だ。
 「少しだけなら…いいかな」
 は、よせばいいのにとわかっていながらも、少しも口をつけずに返すのも悪いと思いながら杯を取り、酒を注いだ。

 冷たい杯の縁から、まろやかな酒の香りが立ってくる。
 はぐいっとそれを呷った。
 不健全な妄想を罰するように、酒が喉の奥を焼いていく。
 罰を甘んじて受けるような心持ちで、はさらに杯を重ねた。


 体の隅々まで酔いが回り、心臓がとくとくと早めに鳴る。
 その音に重なるように、桜の花が不規則に揺れ出した。
 猫の毛のように細かく柔らかい、春の雨が降って来たのだった。

 (雨…)
 雨に当たってはいけない。それはよくよく理解していても、全身が気だるくて動くことが出来ない。
 幸い、桜の傘の合間を縫ってを濡らすほどの雨脚ではない。
 酒と桜と、雨のもたらす静けさに飲み込まれて、はずるずると体勢を崩し、目を閉じた。










 20100820