久遠の空 ドリーム小説 薄紅の雨宿り 4

薄紅の雨宿り

update:2010.08.13

薄紅の雨宿り 10 

 試衛館を尋ねてくる入隊希望者はまばらになり、仮の名簿も出来た。
 「あ〜よかった、これで一息つけるよ」
 黒く光る道場の板張りの上に足を投げ出して藤堂が言う。
 「ありがとう藤堂君、君が事前に集めておいてくれたおかげで、よさそうな人材がたくさん来たね」
 伊東が仮の名簿を眺めて微笑む。
 藤堂はえへへと笑い、頭をかいた。

 そこへ、厠に立っていた土方が戻ってきた。
  「土方君、だいたい面接は終わったようだけど、これからどうするつもりだい?」
  伊東が名簿を差し出して聞く。
  土方はそれをひったくるように取ると、さっと目を通した。
 「平助、次に希望者がまとめて来るのはいつだ」
 「えっと…十六、七日辺りにしておいたよ。住まいが遠い希望者も結構いて、土方さんたちが来るってわかってから連絡したし、近場の希望者で最初は手一杯だと思ったから」
 藤堂が言う。
 藤堂は試衛館の門人にも協力してもらい、武蔵、相模、甲府などでも隊士を募る活動をしていた。今回、土方たちがやって来るとわかった藤堂はすぐに希望者へと面接の連絡をしたが、 試衛館までは遠いのですぐには来られない。それに藤堂の読みどおり、近場の希望者ですぐに連絡が取れる者たちとの面接で、ここ数日は目一杯だった。

 「わかった。それまで暫時休息だ」
 土方は名簿を斎藤に渡す。
 「そうかい、じゃあ皆で江戸見物としゃれこむのはどうだろう? 、君は江戸は初めてだったね。案内するよ」
 伊東がににじり寄り、両手を取った。
 すかさず土方がを伊東から引きはがす。
 「他出する。お前も来い」
 「は、はい」
 首根っこを掴まれながら、は返事をした。
 「斎藤、平助、留守にする。ばらばらと希望者が来るかもしれねえ。来たら相手しておけ」
 「はい」
 斎藤はこくりと頷いた。
 「うん、いってらっしゃい」
 藤堂はひらひらと手を振る。
 土方はの襟首を掴んだまま、部屋を出た。
 「土方君、僕も…」
 と伊東が廊下に飛び出したが、土方は無視してすたすたと歩いて行った。
 部屋に残された斎藤と藤堂はがっかりする伊東の背を眺め、二人して顔を見合わせて笑いを押し殺した。


 試衛館を出て、土方は太陽を背にして歩いた。
 は土方の早足についていかねばと隣に並ぶ。
 しかし、普段は駆け足なのではないかと思うほどに早いのに、今日はとてもゆったりした速度だ。
 も歩調を合わせながら、そっと土方を見上げる。
 思案顔だ。
 整った眉を寄せて、形のよい唇を引き結んでいる。
 土方が何かを真剣に考えている時、は話しかけないようにしている。
 どこへ行くのか、いつ試衛館に戻るのか聞いてみたかったが、は腹の底に言葉を納めて黙ってついていった。


  しばらく歩いてゆくと、と土方は一軒のぜんざい屋の前に立った。
 「ここで何か食って待ってろ」
 土方はの背をぽんと押し、自分は中に入ろうとしない。
 「え?」
 「すぐ戻る」
 が突然のことに目をぱちくりとさせていると、土方はさっさと往来に戻ってしまった。
 がぽかんとしているうちに、土方の背はだいぶ遠くなる。
 この近くに用があるのかもしれない。はそう思い、ぜんざい屋の暖簾をくぐった。



 土方はどうしたのだろう。まだ来ない。
 は二杯目のぜんざいを食べ終わり、匙を置くと懐紙で口を拭いた。
 すぐに戻るといった土方の言葉を真に受け、一杯目は運ばれてきてからすぐに食べ終えた。
 が、土方はなかなか店に入ってこない。
 は仕方なく二杯目を注文した。時々、沖田と神谷に付き合って甘味屋を訪れる時には、沖田が勝手にお代わりを注文してしまう。三杯目までは何とか付き合えるが、 その後は沖田に食べてもらう。次々と重ねられる椀と、神谷の渋い顔を思い出し、は一人でくつくつと笑った。

  二杯目は時間をかけてゆっくりと食べた。
 ふっくらとした小豆が柔らかな甘さを出し、とてもおいしい。
 江戸に来てから、いや、京を出立してから、これだけのんびりと何かを食べたことはなかった。
 ゆっくりとした時間を過ごせるのはありがたいが、土方が戻ってこないのが気になる。
 は席を立ち、店の入り口に歩いて行く。
 暖簾をめくって、その辺に土方がいないか覗いてみた。


  隣の店の前に、土方の後ろ姿があった。
 まさかこんなところに置いていかれはしないだろうと思っていたが、は三つ巴の紋がついた背中を見て安心する。
 土方は馬を引いていた。
 そして、薄い黄色の地に華やかな春の文様が散らされた着物の姿と相対していた。

 どきん。
 の心臓が、妙な音を立てる。は思わず着物の合わせ目を握った。
 土方と向かい合っているのは女性だ。小柄で細く、豊かな黒髪を美しく結い上げ、真っ赤な顔で俯いている。
 「お体を、お大切に…」
 と、その女性が言うのが、の耳にまではっきりと届いた。
 女性が土方に向かって下げた頭の簪が、しゃらりと音を立てる。
 「…ああ」
 土方は短く言って頷いた。

  誰なんだろう。
 は無意識のうちに唾を飲み込んだ。
 他出するとは、ここで待っていろとは、このことだったのだろうか。
 少なくとも自分が会っていい相手ではなさそうだ。そうでなければ土方が、ここまで自分を連れてきて一人にするわけがない。

 今なら土方は気づいていない。
 は静かに店の中に戻ろうとした。
 しかしその時、後ろから腕を強く掴まれた。
 「お客さん、いくらお武家さんだからって、お代を置いていってもらわないのは困るなあ」
 の腕を掴んだのは店の主人だった。堂々たる大柄な体に前掛けを巻き付け、こめかみをぴくぴく言わせている。を食い逃げだと思っているようだ。
 「ち、違います。あの、連れが…」
 そんなつもりは毛頭無い。は必死で手を振り、誤解を解こうとした。
 「…何してんだ、お前」
 その声に土方が振り向く。
 ついでに花柄の着物の女性もに目を向ける。
 (穴を掘って入りたい…)
 は自分の迂闊さを呪った。


 は店の中に戻ってきちんと二杯分のぜんざい代を払った。
 店を出ると、薄黄色の着物の女性はもういなくなっていた。
 土方とは宿場を出てから馬に乗り、西に向かって走り出した。

 が前に、土方が後ろに乗り、手綱を握る。
 自分の後ろに座る土方の体温を感じながら、は先ほどの女性について思いを巡らせた。
 土方は何も言わないが、あの人は誰なんだろう。
 前に日野の連光寺から来た知り合いには会わせてくれたのに、何故今回は会わせてくれなかったのだろう。

 もしかして…。
 の頭を、ある考えがよぎった。
 もしかしたらあの女性は、土方の許嫁なのではないだろうか。
 土方には江戸に将来を誓った女性がいるのは知っている。江戸に来たら顔を見せに来るのは当たり前だ。
 それならば、誰にも邪魔されずに会いたいに決まっている。
 許嫁の話はするなとか、一緒になる気はないとか言っていたけれども、それは彼特有の照れ隠し…なんだと思う。

 京で浮き名を流していても、土方には待っていてくれる人がいる。待たせている人がいる。
 美しくたおやかそうな女性で、細やかなところまで気がつきそうな感じだった。きっと彼の意に沿うような家庭を作るだろう。
 土方には同じ時代に生きる者同士で結ばれるという、当たり前で普通な幸せがあるのを改めて思い知らされた気がした。

 は顔を上げる。
 遠くに見える川の土手沿いに、桜が咲いているのがぼんやりと見える。
 異なる時代に生きる自分が、こんな気持ちになる必要などない。
 吹き抜けていく風に胸を開くと、涼しさが心を均してゆくような気がしてきた。
 はその風に甘えるように目を閉じた。
 「疲れたか?」
 土方が声をかける。
 「少しだけ」
 は目を閉じたまま答えた。
 「着くまで寝るなよ」
 「はい」
 土方が馬腹を蹴る。馬はそれに呼応して足を速めた。



 日が天高くまで来た頃、土方は馬を止めた。
 土方に続いて馬から下りたは、きょろきょろと辺りを見回す。

 ここも宿場のようで、品川宿や内藤新宿ほど大きくはないが、往来に建物が立ち並ぶ。
 足早に道を行く旅姿もあれば、のんびりと歩く姿もあった。

  土方は馬を引いたまま、街道沿いに並ぶふたつの長屋門のひとつに入っていく。も後ろについて門をくぐった。
 「歳三、来たか!」
 大きな式台から、先日試衛館を訪れてきた佐藤彦五郎が顔を出す。
 「よう、彦兄」
 土方が相好を崩した。
 「上がれ上がれ、約束通り早馬で知らせてくれたから、お前の姉さんがご馳走をたんまり用意してるぞ」
 佐藤は土方から馬の手綱を受け取ると、土方を瓦屋根付きの式台から上がらせようとした。
 「ああ、あんた、お小姓さんだったね。あんたも来てくれたのか、さあ、どうぞ」
 少し後ろで立ち尽くしているにも佐藤は声をかけ、中に入るように促す。
 土方も後ろを振り向きちょいちょいと手招きをした。
 は頷いて土方の後から式台を上がった。

 式台を上がると、新しい畳の香りがふわりと漂ってきた。建物は最近のもののようで、柱も天井も真新しい。
 左には大きな畳敷きの部屋があり、その奥は土間で、人がひっきりなしに出入りしている。
 「、こっちだ」
 土方に呼ばれ、ははっとして右に進む。
 二間ほど続いた畳部屋の向こうにある床の間に二人は連れて行かれた。

 床を背にして佐藤が座り、その前に土方とが並んで座る。
 佐藤が腕組みをすると、せわしい足音と共に一人の女性が部屋に入ってきて、佐藤の脇に腰を下ろした。
 「よく日野に戻ってきたな歳三」
 佐藤が目を細める。
 「元気そうでなによりよ」
 脇に座った女性も笑顔で土方に話しかけた。

  「でもね歳三」
 女性が後ろから、紐でくくられた紙の束を取り出して、土方の前に放り投げた。
 「何なのこれは! 京であなたが誰と何しようと構わないけど、もらった恋文を送りつけてくるなんて!」
 はその紙束に視線を落とした。中身まではわからないが、奉書紙に包まれたそれは間違いなく文である。
 土方を見ると、いたずらがばれた子供のように、にやにやと笑っていた。
 「まったく、悪ふざけもいい加減にしなさいよ」
 「悪い悪いノブ姉」
 さらにたたみかける女性に対し、土方は手を振る。
 「ノブ姉、紹介する。こいつは俺の小姓で山口だ」
 それ以上の追撃をごまかすように、土方はを指し示した。
 「山口です。お見知りおきを」
 は名乗り、女性に向かって丁寧に頭を下げる。
 「、こっちは俺の姉さんで彦兄に嫁いでる、ノブだ」
 土方は女性をに紹介した。
 「歳三がいつもお世話になってます。姉のノブと申します」
 ノブもに頭を下げた。
 「わがままだから大変でしょう? よろしくね」
 くすくすと笑いながらノブは言う。
 「いいえ、こちらこそよくしていただいています」
 はより深々と頭を下げた。

 「まあいいわ。山口さんに免じて許してあげる」
 ノブは腰を上げて、土方とを連れて隣の部屋の前に立った。
 「忙しいだろうけれども、少しはゆっくりしていきなさいよ」
 ノブが障子を左右に開く。
 障子の向こうは三つの部屋の襖を外し、中央に長々と卓が置かれていた。
 卓の上には大皿小皿を問わず、ぎっしりと料理がのせられている。
 周りには人がずらっと並んで、土方の姿を見るとわあっと歓声を上げた。
 「皆、あなたが来るかもって彦五郎さんから聞いて、今か今かと待っててくれたのよ。あなたがさっき早馬で知らせてくれて、仕事も放り出して来てくれたの」
 ノブが言うと、皆は立ち上がって土方の周りにどっと集まってきた。
 「歳さん、立派になったな!」
 「京じゃ大活躍なんだってな、聞かせてくれよ」
 「近藤さんの話もしてくれ、局長ってどんだけ偉いんだ?」
 「わかったわかった」
 土方はもみくちゃにされながら席に座らされ、酒を注がれ、話をせがまれる。
 も小姓だと紹介されると、京での土方の様子を語るように頼まれた。
 「余計なこたあ喋んじゃねえぞ」
 土方に睨まれ、は言葉を選んでゆっくりと話した。
 話を聞いて皆は、驚いたり頷いたりして遅くまで盛り上がった。

 は皆が酔っぱらっている席でやっとここがどこなのか聞くことが出来た。
 ここは江戸の西に位置する日野という宿場で、土方の故郷なのだそうだ。
 土方は早くに両親を亡くしており、兄弟の中では特にノブに懐いて育ったのだという。
 酒が入っている口から、土方が子供の頃の逸話をいろいろと聞き、も興味深く耳を傾けた。


 宴会は二日ほど続いた。
 入れ替わり立ち替わり人がやって来ては挨拶を繰り返し、は湯あたりならぬ人あたりをして少し疲れを感じていた。
 そんなに土方は再び出掛ける旨を申し渡した。







 20100812