薄紅の雨宿り 9
は大鳥とともに応対所に戻った。
「やれやれ…」
大鳥は椅子にどさりと腰掛けてため息をついたが、すぐに座り直して笑みを浮かべた。
「すまなかったね。嫌な思いをさせて」
「いいえ」
は首を横に振る。
「直参の幕臣たちは誰でも希望すれば入学できるのだけれど、陪臣は句読が終了している者に限っているんだ」
大鳥は続ける。
句読が終了しているということは、漢学の素読、つまり漢文を訓読文にして読む授業が終了している、陪臣に関してはそのような者でないと入学できないということだ。
そこで起こるのが、碌に勉強もせずに周りの後押しだけで入学してきた直参たちと、立身出世を夢見て本気で勉学をしてきた陪臣たちとの差である。
身分が上なだけで威張り散らしてきた直参たちが、勉学では陪臣たちに及ばない。陪臣たちのほうがどんどん稽古が進む。それが直参たちにとって癪に障るのだ。
直参たちも進んで勉強すればいい。それだけなのだが、陪臣どもと肩を並べて学べるかと直参たちは意地を張っている。
「真面目に学んでいる者の中にも困ったのがいてね…」
さらに大鳥は浮かぬ顔をした。
英吉利語を学びに来ている動機は人それぞれで、外国の知識や文化を吸収して日本をもり立てていこうという開成所の目的に沿った者もいれば、敵を知って攘夷を決行するのが目的の者もいるのだそうだ。
「前身である蕃書調所開設から七年…建物も新しくなってやっと軌道に乗ってきたと思ったらこの有様だ。このままでは一向に稽古が進まない」
大鳥は正面に座るを見つめる。
は話を聞きながら、頭の中で整理していた。身分がものをいう時代に、実力が必要な学問。その間でせめぎあいが起きている。自分は幸いそういったところで勉強をしてこなかったが、
もし勉強しなければならない場でそれ以前の問題が起きていたら、勉強したくても出来ないだろう。
「…動じないね」
ふっと大鳥は笑った。
「え?」
は我に返る。身の程を知れと言われても、家を継がない三男坊(は山口家の三男)など厄介者なのは本当だ。言い過ぎることは誰にでもあるし、身分制度の下ではどう罵られても、この時代においては仕方がないのではないかと漠然と思っただけだ。動じる動じないの問題ではない。
「その動じないところを見込んで頼みがある」
大鳥は前屈みになった。
「ぜひ、この開成所で教授をしてほしい」
「…え?」
は耳を疑った。
「君に来てもらって、頑張っている姿を生徒たちに見せてやる気を出してもらうだけのつもりだったけど、君なら実力もあるし、ぴったりだ!」
がたんと椅子を蹴り、大鳥は立ち上がった。
はまさかと思ったが、視線を合わせた大鳥の目がぎらりと光っている。
大鳥は、本気だ。
「そんな、私には無理です。京で修行せねばなりません」
自分の前で両手を振り、は必死で断った。
「じゃあ聞くが、君は私と大坂で会ったとき、拙斎先生に英吉利語で何を学んでいるのかと聞かれたね。その答えは見つかったのかな?」
大鳥が鋭く聞いた。
は返す言葉に詰まる。講師であるハーバーの作った勉強計画についてきただけで、特にこれといったものを目指しているわけではない。それは大鳥と大坂で会ったときと何も変わっていないからだ。
「何も目標としていない、図星だろう? だったら江戸へ出てきてその素養を活かし、指導にあたってもいいじゃないか」
大鳥はゆっくりとに近づいてきた。
に大鳥の影が覆い被さる。は動けずにごくりとのどを鳴らした。
「京にいて、その素養を活かす機会はあるか? ないだろう? 君も男子なら思うはずだ、自分の力を試したいと」
は押し黙る。男なら立身出世を夢見てそう思うのかも知れない。が、は女なのだ。
「生徒に多少問題があるとしても、君の動じない態度で臨んでいけばきっと生徒たちはついてくる。それに江戸なら外国の文書も頻繁に入ってくるから、
翻訳の仕事もある。己自身の研鑽にも事欠かない。悪い話じゃないだろう」
大鳥の手がの両肩を掴んだ。
「下世話な話ですまないが、会津藩からいくらもらっている? ここでは教授の引き抜きに相当の俸禄を払っているよ。住まいも身の回りの世話をする者も用意する。
教授は直参になる。どうだろうか」
幕府が海防や軍事、殖産興業で外国の知識を必要としたように、諸藩も同じ理由で洋学の知識を持つ者を必要としていた。優秀な家臣を江戸に送り込み洋学を学ばせ、
帰藩させて知識を広めていた。
しかし開成所でも優秀な人材の確保は進められていた。生徒の中で特に出来る者には教授とともに翻訳業務に就かせていた。その者が帰藩すると業務に支障が出る。
なので帰藩前に直参に取り立てて俸禄も上げ、江戸に引き留めることも行われていたのだ。
陪臣の積極的な取り立てには直参からの猛反発があったのは否めない。今は取り立ての数は激減している。
が、大鳥は目をつけたを逃したくなかった。
「…わ、私は…一橋公の命で、京にて学んでおります。一橋公の許可無くば、何も決めることは出来ません」
は俯いて手を固く握り、やっとそれだけを口にした。一橋慶喜の名を出せば大鳥は引き下がるはずだ。
「それは一橋公がいいと言ったら江戸に来てくれると受け取っていいんだね?」
大鳥が言質を得たりと笑う。
しまったと思い、は背中が冷たくなった。相手に、逆につけいる機会を与えてしまったのだ。
窓ガラスの向こうに、桜の枝がゆったりと揺れている。
淹れられた茶はすでに冷たくなっていた。
「一橋公には私から上申しておくよ。君が来るのを楽しみにしているからね」
大鳥は満面の笑みでを見送る。
「はい…」
は肩を落として開成所の玄関で草鞋を履いた。
「江戸で暮らすのもいいものだよ。何より仕事がある。君なら相当こなせるよ」
大鳥はが江戸に来るのを確信しているようで、ぺらぺらと話し続ける。
「お招きありがとうございました。では、失礼します…」
は丁重に頭を下げると、足早に開成所を後にした。
大鳥も門の外まで出てきた。が角を曲がる際に一度振り返ると、大鳥はまだそこにいて手を振っていた。
江戸の最先端機関で、教授の仕事。
一橋慶喜も、自分が言い出した英吉利語の教室から江戸へ行く者が出て喜ぶことだろう。
もし自分が本当に男で野心があれば、これほどいい話はない。一橋慶喜に反対されても、説得して江戸へ来るかもしれない。
しかし、自分は女だ。京で英語を始めたのも成り行きで、ここまで来たのも成り行きでしかない。この時代で生きていくために、必要なことだった。
教えられるほどの技量も、人前で講義をするほどの度胸もない。
それ以上に気をつけているのが、女だとばれないようにすることだ。
もし江戸に来させられたとする。土方も斎藤もいない。頼れる二人がいなければ、うっかりしてすぐに女だとばれてしまうだろう。そうなれば一橋慶喜にも新選組にも、土方たちにも迷惑をかけるに違いない。
一橋慶喜が自分を江戸に寄越さない理由はあるだろうか。女だからという理由は通用するだろうか。
は腹の底深くからため息を吐き出す。
風に吹かれたくず紙がの足下に当たり、はふと顔を上げた。
いつのまにか人々が行き交う大通りに出ていた。京よりも大声で客の呼び込みをする店員の声や、店先を冷やかしながら歩く者の足音に囲まれる。
はきょろきょろと見回して呟いた。
「ここ…どこだろう…」
日がとっぷり暮れた頃、はようやく試衛館に戻ってきた。
自分に割り当てられた部屋へ行って荷物を置くと、土方と斎藤の部屋へ向かった。
室内からはぼそぼそと話す声が聞こえてくる。その中に知らない声が混じっていた。
「です。ただいま戻りました」
が部屋の外から声をかけ、入室を許可する言葉を聞いて障子を開く。
そこには土方と斎藤、そして二人より少し年のいった男が座っていた。
はその場で手をついて、客人に頭を下げる。
「彦兄、俺の小姓の山口だ」
土方がを指し示し、男に向かって言った。
「ほう…歳三の…」
彦兄と呼ばれた男はのほうへ体を向ける。
「土方副長の小姓を勤めさせていただいております、山口と申します」
は頭を下げたまま挨拶をした。
「日野の名主で、佐藤彦五郎といいます。歳三の姉をもらっておりますから、歳三とは義理の兄弟にあたります。よろしく、山口さん」
男はそう名乗り、行灯に柔和な笑みを照らされて頭を軽く下げた。
「では私はこれで失礼するよ歳三。あまり気を落とすな。隊士募集の目処がついたら日野に来なさい、お前の姉さんも待ってるぞ」
佐藤は立ち上がり、同じく立ち上がった土方の肩に手を置く。
「落としてる暇もねえさ。日野へは、行けたら早馬で知らせる」
土方は口の端だけで笑い、佐藤を見送るために廊下へ出た。
(気を落とすなって…?)
は佐藤と土方の会話に小首を傾げた。
(山南さんのことだ)
斎藤がに耳打ちする。
今朝、が出て行った後に京から荷が来た。その中に沖田から佐藤に宛てた書状が入っていて、山南のことが書かれていた。書状を読んだ佐藤が土方に、山南について問い、
土方は山南の死について佐藤に語ることとなったのだと斎藤は小声で言った。
佐藤が試衛館を去ると、土方はちっと舌打ちをした。
「ったく、総司の野郎、俺が彦兄に言い出せないとでも思ったのか」
「実際、佐藤さんが沖田さんの書状を読んだ後、問われてから言っていたではありませんか」
「話には順番ってモンがあるだろうが。後で話そうと思ってたんだよ」
言い訳にしか聞こえないと斎藤が細い目で土方を見据える。
は現場に居合わせていないので何とも言えず、土方を見る。
土方はふんとそっぽを向いた。
三人は室内へ戻り、少し遅めの夕餉を食べながら、今日あったことを語り合った。
土方と斎藤はが出ていった後、隊士募集に忙殺された。
伊東と藤堂が伊東の自宅である三田から試衛館にやってきて、藤堂が事前に集めておいた資料をさばいた。
藤堂とは品川宿で喧嘩別れしてそのままだったので、は心配してそのことを問うた。
土方は和解したと短く言い、はそれを聞いて胸を撫で下ろした。
昼四つ頃になると、募集に応じていた者たちが次々と試衛館にやってきた。土方たちの到着を事前に知っていた藤堂が、希望者たちに入隊試験の連絡を入れておいたのである。
生国や剣の流派を確認し、二人一組で木刀や竹刀で戦わせ、四人は次々と入隊希望者の技量を見ていった。
夕方になると希望者はほとんど帰り、伊東と藤堂は再び三田へと帰って行った。
その頃ちょうど、先ほどまでいた佐藤彦五郎が試衛館を訪れ、土方と面会していったのである。
も開成所訪問について語り、大鳥に江戸へ来ないかと言われたことも話した。
「お前を江戸へ…教授だと?」
土方は眉をつり上げる。
「決定じゃないですけど…」
は俯いた。
「でも、ちゃんとお断りしました」
「馬鹿野郎、手前にその気がなくたって、向こうはあるんだろ」
「はい…多分…」
土方に鋭く言われ、は身を縮める。
斎藤は何も言わずに黙って座っていた。
開成所訪問を終えたは、明日から隊士募集を手伝うことになった。
希望者の評価を行えないの主な仕事は、希望者の略歴を記したり、土方たちに言われたことをこなすのが役目だ。
は斎藤から略歴の書き込み方法を聞くと、今日の疲れをとっておくために早く床についた。
深夜になり、は厠に行きたくなって目が覚めた。
部屋の障子を開くと外は真の暗闇で、物音すらその闇に飲まれたように静かだった。
きしりきしりと廊下を小さく軋ませ、は厠へと赴く。
すると、闇の中でも薄く光る廊下の先に、誰か座っていた。
「土方さん」
背格好からすぐに相手を見極め、は声をかける。
「…起きてたのか」
土方もに気づいて返事をした。
「いえ、厠に行こうと思って起きました」
は土方の隣に膝をついて座った。
土方は考え事をしていたようで、片膝をたてて頬杖をついていた。
江戸に近づくにつれ浮かべていた物憂い雰囲気と似た気配がする。
藤堂とのことは和解して済んだはずなのに、何を思っているのか。
まだ土方には深い悩みがあるのだろうと、の胸はちくりと痛んだ。
が持つ燭台の明かりが照らす中、土方が尋ねた。
「…どうだ江戸は」
はしばし考えて答える。
「京や大坂とは違いますね。えっと…何と言っていいのか悩みますけど…」
まだ一日しか経ってない上に、あまりよくないことしか起こっていない。は歯切れが悪くならざるを得なかった。
「江戸も、悪かねえぞ」
そう言うと土方はすっと立ち上がって、自分に充てられた部屋へと戻って行った。
(江戸も悪くない…?)
どう解釈したらいいのだろう。
土方が生まれ、育ったところの近くを肯定しなかったことに対してそう言っているのか。
が一橋慶喜の許可を得て江戸に来るようなことになってしまった時のための慰めなのか。
もう夜中だ、部屋まで押しかけて行って問いただすことも出来ず、は自分も立って厠に向かった。
隊士募集は数日に渡って続いた。
禁門の変以来高まってきた長州征伐の空気が江戸にも漂ってきているようで、試衛館を訪れる希望者からも、新選組が征伐に参加するのかとの質問が多く出た。
新選組に入れば征伐に参加し、天下のお役に立てる。そう思っている者も少なくなかった。
土方たちは征伐に加わるかはわからないとしながらも、全く無いとは言い切れないとして希望者の気持ちを下げないように努めた。
滞りなく募集が進む中、四月七日には元治二年が慶応元年に改元された。
禁門の変が起きて世が騒然となり、改元して世を平定しようとの目論見があった。
酩酊、徳化、天寧、大享、平成など二十の候補の中から、慶応が選ばれ、採用された。
訪れる入隊希望者の数が落ち着き、仮の名簿が出来たある日。
「他出する。お前も来い」
と土方はを誘った。
20100728