薄紅の雨宿り 6
土方が飯盛女を買って伊東から逃げ切ったその夜。
は本陣にひとり宿泊した。
土方に背を押されて、は横に長い木を渡した冠木門の内側に一歩踏み込んだ。
が振り返ると土方はとうに向こうへと歩き去っている。
どうしたらいいのかわからず目をぱちくりさせるの前に、斎藤が現れた。
「今夜は一人でゆっくりしろ。明日の朝、夜明けにこの前に出てくればいい」
「は、はい。でも、本陣に泊まるってどうすればいいんですか?」
は斎藤にこそりと耳打ちする。
「あの式台から奥に声をかけろ。誰か出てくるだろうから、後はその者に聞け。今日は関札が立っていなかったから、誰も泊まっておらぬはずだ」
斎藤はぼそりと言うと、笠の端に手をやって土方の後を追って行った。
宿を求め、あるいは翌日のための買い物を求め、通りは人でざわめいている。
それに背を向け、は瓦葺きの屋根がついた大きな建物の式台へ向かって歩を進めた。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
は薄暗い式台の奥へと声をかけた。
「…へーい」
ややあって、どたばたと足音がして人がやって来た。
「これはこれはお武家様、お泊まりで」
本陣の主と思われる、四十ぐらいの男が恭しく手をついてに頭を下げる。
「公用で旅をしている者です。一晩部屋を所望したいのですが」
は懐に手を入れ、きちんとたたまれた書き付けを取り出して主に見せた。
主は目を細めてそれを読む。
そこに書かれていた“一橋慶喜”の名を見ると突然蛙のようにびたりと板の間にひれ伏した。
は奥の部屋へ通された。
付書院に違い棚のある、典型的な書院造りの部屋だった。
部屋からは中庭が見えて、桜が一本植えられている。外の桜と同じく、花がほころんでかわいらしい姿だ。
さすがは大名や幕府の公用で旅する者が宿泊する本陣だけあって、整っている。
昨日泊まった宿はただの畳敷きで、付書院も庭もないところだったとは思い出した。
風呂が沸くまで、は一人で部屋にいた。
式台で桶を借り、手甲と脚絆、足袋をとって手足を清めた時に気がついたのだが、足の爪の周りは圧迫されて赤くなっていたし、かかとや足の裏にはまめが出来ていた。
今日の歩みは一段と早く、鈴鹿峠という高低差が激しい難所も越えた。昨日今日と調子よく歩きすぎてしまっていたの足には大きな負担となっていた。
こうして足を休めてから気づいたが、関節といい筋肉といい、足全体がとても痛い。明日、これで歩けるかどうか心配なぐらいだ。
風呂が沸いたと伝えられると、は風呂に入った。
少しでも痛みや疲れを取ろうと、湯で温まりながら足を揉んだりさすったりした。
しかし、じんじんと痛みが内部に染みいってくるような感覚に襲われるばかりだった。
足をひょこひょこと引きずりながら部屋に戻る。
荷物を確認して明日の着替えを箱に入れていると、部屋の外から失礼しますと声がかけられた。
「どうぞ」
が返事をすると、障子がすっと開き、女がどすどすと入ってきた。
の前にとんと夕餉の膳を置くと、女は指先を碌に揃えもせず畳に手をつき、に頭を下げた。
「今宵、あたくしがお勤めさせていただきます。よろしくお願いします」
「あ、はい、よろしくお願いします…」
はお勤めという言葉が随分仰々しいし、言い方も客相手につっけんどんなのではないかと思いながらも頷いた。
女は色とりどりの晴れ着を着ていて、念入りすぎるほど念入りに化粧をしている。はっきり言えば、けばけばしい。
が食事を始めると三味線を取り出して、おぼつかない手つきで弦を弾き、歌い始めた。その歌もあまり上手ではない。
が、きっとこれが本陣のおもてなしなのだろうと考え、は黙って箸を取った。
膳の上には野菜やら魚やらがいくつもの小鉢や皿に盛られて、豊かな彩りを見せている。
飯椀には白米が山のように高くよそわれていた。
しかし、足の痛みが酷くなってきたためか、は食欲がわかない。
残すのも憚られたので、は思い切って目の前の女に声をかけてみた。
「あの、食べきれないので、よかったら一緒に食べませんか?」
ぷつりと三味線の音が止む。
「え?」
女は怪訝そうにを見た。
「たくさん出していただいて申し訳ないんですけど、あんまり食欲がなくて。だから、もしよければあなたも」
はそう言って柔らかな笑みを向ける。
すると、女は三味線を取り落として、急に泣き出した。
(えっ)
は、何か悪いことを言ったのだろうか、こういったところでは一緒に食事をしようなどと勧めては失礼だったのかなどと、いろいろ考えてしまった。
「あ、ありがとう、ございます」
女は泣きじゃくりながら言った。
「え?」
はお礼の意味が分からず、女を見つめる。
「あ、あたしは、普段はあっちの宿で飯盛やってるんですけど、本陣にも呼ばれる女郎なんです。でも、どんなにお偉い方々も、あんたさんのように、
優しい言葉ひとつかけちゃくれなかった。ひ、酷い時には、食事も歌もそこそこに…あたしを押し倒して…うう…」
女が泣き崩れる。
はその姿をじっと見つめながら考えた。
島原や祗園のように、宿場にも自分を売って生活している女たちがいる。
しかも一晩の慰み者になるだけだから、男たちの扱いもぞんざいなのだろう。
女が泣き止むと、は箸と皿をもう一組持ってくるように言い、二人で食事をした。
からはとある方の言いつけで旅をしているとしか言わなかったが、女からは先ほど出てきた飯盛というものがどんなものか、いろいろと話をしてきた。
飯盛女は、表面的には飯を盛る係である。しかし街道に春をひさぐ職業はつきもので、木綿の粗末な服を着ていても化粧は濃く、飯を盛る以外の世話も担当するようになった。
そのほとんどが貧しい農家の娘で、年齢は七、八歳で、口減らしのところを年貢上納のためという建前で、飯盛旅籠へと身売りする。幼い頃は小間使いとして使われ、
十四、五歳になると客を取らされるのだそうだ。
粥しか食べさせてもらえず、毎日がひもじいので、客に大盛の飯をよそう。客は当然残す。飯盛女たちは客が残した飯をむさぼるようにして食べる。
飯盛女の名がついたのは、配膳の飯盛とこの飯盛をひっかけたらしい。
本陣を営む家族はその土地の名士だ。土地の名主や、その宿の問屋(といや。人馬や駕籠の申し込みを受けたり旅籠の紹介をするところ)を兼ねていることが多い。そんな家の者が泊まり客の相手をするわけもない。当然よそから飯盛女を呼ぶのだ。
女はに心を許したらしく、かいがいしく面倒を見た。
歩きすぎて足が痛むとが言うと、くたびれた時に効くからと灸を据えたり、まめに針を刺して中の水を抜いてくれたりした。
また、新しい草履を持ってきて打ったり揉んだりして和らげながら、旅先で小休止する際にはわずかな間でも草履を脱いで、ちゃんと姿勢を正して休むこと、
長旅を無事に終えられるよう、駕籠や馬を使って足を休ませること、その際には朝の方が料金も安く、夕方に急いで次の宿まで行くにも足が持つことなどを教えてくれた。
は治療を受けて茶を飲みながら、矢立と書き付けを使って、注意されたことを書き留めた。
夜が更けて、室内に布団がのべられた。
「さ、横になっておくんなまし」
と女が言い、は疲れたので素直に横になる。
その隣に女が転がった。
「え?」
はまさかと思って体を起こす。
「あたしにお任せください。お体の負担にはならないようにしますから」
女はの手に触れ、しなだれかかってきた。
はその体を押し戻し、今夜は本当に疲れているから一人で寝かせて欲しいと頼んで女を部屋から出した。
女は、お武家さんかわいいのねと笑いながら、に就寝の挨拶をして出て行った。
は女の影が障子から離れていくのを確認すると、どさりと布団に崩れ落ちた。
すぐに瞼が落ちてきて、気が遠くなってゆく。
花街の女性たちも不幸な境遇の者が多いと聞く。
こんな旅先の道中にも、身を売らねば生活していけない者たちがいる。
そういったことに出会うたびに思うのが、もし自分が土方に拾われなかったらどうなっていたかということだ。
土方の申し出を断ったことを心の中で詫びながら、は眠りに入った。
翌朝、まだ日が明け切らぬうちには本陣を出た。
ゆうべ、足を治療してもらったおかげか、だいぶ痛みが引いていた。
「お帰りの際にはまたお寄りくださいね」
見送りに出てきた女が言う。
「連れがいるのでお約束できませんが、もし関宿に泊まるようでしたらお世話になります」
は笠の紐を締めた。
「きっとですよ。関札があっても、引っこ抜いてお待ちしてますから」
関札とは、大名や公家が本陣に宿泊、あるいは休息をした時に、宿泊者を記して青竹に縛り付け、本陣表門に掲げたものである。それを引っこ抜いて待つとは
誰も泊めずにを待つということだった。
もちろん本当にそんなことはしないだろうが、待っていてくれるとの言葉には感謝を伝えた。
本陣の門前より少し離れた場所に、土方と伊東が立っているのが見えた。はひょこひょこと足をかばいながら二人の元へと歩く。
「おはようございます。お待たせいたしました」
「ああ」
土方は、ゆうべ別れたときとは異なるすっきりした面持ちでを見た。
「あれは何だ」
いつまでもの背中を見つめ続ける飯盛女に気づいて、土方はに問う。
「あの方は昨夜…」
は簡潔に、ゆうべ飯盛女が来たことを話した。
「君まで飯盛女を買ったのかい、…」
後ろから伊東がのっそりと声をかける。
「伊東参謀、あまりよくお休みになれなかったのですか?」
伊東は憔悴しきっている。は何かあったのかと土方に目配せをしたが、土方はそっぽを向いた。
「土方君がゆうべ、僕というものがありながら飯盛女を買ったんだよ〜」
わっと伊東が泣き出し、の肩口に顔を埋める。
「君はいつの間にかいなくなったと思ったら本陣に泊まるって土方君が言うし、飯盛女たちは鄙びているし、斎藤君はシュミじゃないし、僕はもうどうしたらいいか〜っ」
「い、伊東参謀…」
「参謀、てめえ俺の小姓に何してやがんですか」
土方は、伊東に泣きつかれて困るから伊東をべりっと剥がして突き飛ばした。
そこへちょうど斎藤が馬と馬子とともにやってきた。
は土方をじっと見つめた。
(ゆうべ…女の人と…)
夜を同じ布団で過ごすことを拒否したのは自分だ。だから土方が伊東をやり過ごすために誰とどうしようと、自分には何も言う権利はない。
それでもちくりと痛みを感じてしまうなんて、どうかしている。前はこんな風じゃなかったのに。
「どうした?」
土方が視線に気づいての顔をのぞき込む。
「い、いいえ」
ははっとして首を振った。
「、君も乗りたまえ」
伊東がの腕を引く。
「え?」
「その足で歩き続けられると思っているのかい? 道はまだまだ長い、足を休ませながら行かなきゃ駄目だよ」
「だ、大丈夫です、参謀、歩きますから」
「いいからいいから」
が足をかばっているのに、伊東は気づいていた。そして戸惑うをあっという間に馬の背に乗せ、その後ろに自分もひらりと跨った。
「降りてこい! 乗りたきゃもう一頭借りればいいだろ!」
土方が下から怒鳴りつける。
「君は一晩中僕をほっぽっておくし、はいないしだったじゃないか。これぐらいの役得がなきゃやっていられないよ」
伊東は口を尖らせ、馬子に馬を進めるように言った。
目の前をモンシロチョウがひらひらと飛び、遠くの景色が春の空気に霞む。
は馬から落ちないように手綱を握りながら、先頭を歩く土方の背を眺めていた。
「土方君が気になるのかい?」
後ろから伊東が笑みを混じらせて聞いた。
は言い当てられてぴくりと肩を揺らす。
「君がゆうべ土方君と過ごせばよかったのに。聞くところに寄ると、君と土方君は“知った仲”らしいじゃないか」
伊東は同じく手綱を握り、に体をぴたりとつけて囁いた。
伊東の言うとおりだ。
自分が土方と夜を過ごせば、何の問題もなかったはずだ。
だが自分はそれを拒否した。
今ここで迂闊な回答をすれば、土方が自分の拒否を受け入れてくれたことに傷をつけてしまう。
そうは思えど、まともな回答が思い浮かばない。は口を噤んだ。
「本当にかわいいね、は」
伊東がぷっと吹き出した。
「君は僕たちよりもより高いところから、僕たちとは別に命が下っている。好きなときに本陣へ泊まったっておかしくない。その間に寂しくなった土方君が
飯盛女を買ったとしても、何の不思議もないじゃないか」
「伊東参謀…お戯れは困ります」
くすくすと笑う伊東に、は内心しまったと思いながら眉を寄せる。
「ごめんごめん、ちょっとからかっただけだよ」
伊東はそう言って手綱から手を離すと、を後ろから抱きしめた。
「参謀…」
は伊東をの手をふりほどこうとしたが、落馬して怪我でもさせたらと思うと何も出来ない。
「君はかわいくて、体もこんなに華奢だ。土方君が守りたい気持ちもわかるな。困ったことがあったら、僕にも相談してくれないかい?」
「わ、わかりました」
「きっとだよ」
伊東とのやり取りが終わり、は前を向いた。
土方が笠の縁から射貫くような目でこちらを見ている。
伊東もそれに気づいたようだが、の体から手を離そうとしない。
は一橋慶喜からもらった鎖帷子をつけていてよかったと思いながら、馬上で揺られていた。
20100706