久遠の空 ドリーム小説 薄紅の雨宿り 4

薄紅の雨宿り

update:2010.07.02

薄紅の雨宿り 5 

 真っ青な空を頭上にいただき、江戸への道が始まった。
 土方はすたすたと軽快な足取りで、は小走り気味にその背を追う。

 「待て」
 その腕を、斎藤がぐっと引いた。
 「斎藤さん」
 はよろめきながら振り返る。
 「そんなに早く歩いてはいかん。旅ははじめの二、三日が肝心だ。足を大事にしろ」
 「でも、早く追いつかないと…」
 ぐずぐずしていたら土方の機嫌が悪くなるのは目に見えている。歩き始めに追いついておかないと、後でどんどん引き離されそうな気がする。
 斎藤は、土方さんがおまえを置いていくわけがないだろうと心の中だけで呟いた。

 「他人の振りをするな斎藤ーっ!」
 土方の叫び声に、と斎藤は前を向く。
 伊東が土方に腕を絡ませ、咲き始めた桜の花をうっとりと眺めている。
 土方は、てめえら二人で何をのんきに足を止めてんだと言わんばかりの目で怒っていた。

 斎藤は駕籠を呼び、土方と伊東をひとりずつ押しこめた。
 二人とも乗る際にはごねた。
 伊東は美しい春の風景を土方と眺められると思っていたのに土方と離されるのが嫌なようだった。 しかし斎藤が、窓越しに見る春も風流かと、と申し出たのを聞き、乗ってみることにした。
 駕籠に開けられた小さな窓。その窓から見える麗らかな景色は駕籠が進むごとに変化し、伊東の目を充分楽しませた。

 土方も自分が駕籠に乗るなどまったく考えていなかったようだった。
 斎藤の糸目に押し切られて乗った土方は、乗ってみてふと気づいた。誰にも邪魔されず、ひとりきりになれる空間がそこにあった。
 柄袋をかけたままの大刀を斜めに立てかけ、そこに頭を預けると土方はすぐに瞼が重くなってきた。

 ゆうべは急な人員変更による準備があった。自分の準備もそうだが、自分が屯所を離れている間に何が起きても対処できるよう、井上や監察を呼んで注意を与えたりもしていた。
 それが落ち着いたと思ったら、今度はが江戸へ行くという話を持ってきた。
 本当なら馬鹿なことを安請け合いしてくるんじゃねえと怒鳴りつけてやりたかったが、江戸行きを申しつけたのが彼女の雇い主である一橋慶喜なら仕方がない。 変わらないことをぐだぐだと責めるより、旅先での注意をあれこれと与えて心構えをさせておいた方が得策だと思い、そうした。

 長い話し合いが終わるとはぱたりと寝てしまったが、土方は眠れなかった。
 留守にする屯所のこと、旅路のこと。
 そして、江戸に着いてからのこと。
 考えることはいくらでもあった。
 それゆえに眠れなかったから、今この状況はありがたかった。

 ふと目を開けて駕籠の窓から外を見ると、斎藤がにも駕籠を勧めているのが目に入った。
 は軽く手を振り、断っている。
 斎藤が駕籠かきに二言三言言うと、駕籠かきは別の客を探しに行った。
 が斎藤に軽く頭を下げ、その隣に並んで歩き出す。

 斎藤はきっとにも駕籠に乗るように言ったに違いない。
 そしては初日だからとか何とか言って遠慮し、歩くことにしたのだろう。
 江戸までは十日以上かかる。初っぱなから無理しなきゃいいが、と土方は思いながら眠気に身を任せた。


 一日目は無事に目的地の石部宿に到着した。
 男の足によくついてきたは、陰ってきた日を背に浴びながら宿の家並みを目に入れると、ほっと息をついた。

 「大丈夫か」
 斎藤がの顔を覗き込んだ。
 は疲れをにじませながらもこくりと頷いて微笑む。
 顔を上げると、道がやや広がって左右に建物が並び、石部の宿をなしているのが見えた。

 宿駅制は江戸幕府の樹立と同時に始まり、幕府の朱印状を持参する者の荷物を運ばせ、主要の道路を整備補修した。
 参勤交代が義務づけられると東海道を中心に交通量が激増し、道路・宿・海路・橋の整備が進んだ。
 まず東海道、次に中山道、日光道中、甲州道中、奥州道中、いわゆる「五街道」が整い、それ以外にも脇街道として伊勢路・中国路・佐屋道の三つが重要視されるようになった。

 たちが今いる石部宿は京の三条大橋から約九里(およそ36キロメートル)。京を発した旅人のほとんどがここで最初の宿を取る。
 宿の道の左右には、旅人に必要な品々や土地の名物を売る店が建ち並んでいる。店先では店の女たちが旅人に声をかけ、引きずり込もうとせんばかりに腕を引いている光景も見られた。

 土方はざわつく往来をすいすいと歩き、今夜の宿を探し始めた。
 土方たちは会津藩の命で江戸へ向かっている。にしても一橋慶喜の思し召しである。つまり彼らは全員、公用の旅路だ。そういった者たちには大名行列の際に宿泊する本陣へと泊まる許可が与えられている。
 しかし土方は本陣へ泊まろうとせず、旅籠を物色していた。公的機関へ泊まるなど、堅苦しくて休んだ気がしないからだ。気軽な旅籠の方がいい。
 土方はちらりとを見やる。初日で気が張っているので元気そうに見えるが、足を気にしている。早く宿を決め休ませてやろうと思ったその時。

 「土方くーん、宿はここに決めたよー」

 嬉しそうな伊東の声が飛んできた。
 土方がそちらを向くと、伊東が宿の店先で草鞋を脱ぎ、店の女に足を洗う桶を持ってこさせていた。


 四人は伊東が決めた宿に泊まることとなった。
 伊東は石部一広い湯殿があるという触れ込みでこの宿を選んだらしい。
 「風呂は広いほうが気持ちいいだろう? だって足が痛そうだし、ゆっくり足を伸ばして湯に浸りたいんじゃないかい?」
 勝手に宿を決めやがってと憤る土方に、伊東はさらりと言い、に流し目を送る。
 急に自分に視線を向けられ、はどきりとした。

 伊東はしきりに土方を風呂へと誘った。
 土方がそれをかわしながら斎藤に目配せする。
 斎藤は旅装を解くと、土方と風呂に入りたい伊東をなだめながら風呂へと連れていった。

 部屋の障子が閉まると、土方とはふーっとため息をついた。
 「何とかやり過ごしたな」
 「はい…」
 この旅で一番気をつけねばならないこと。それはが女だとばれないように行動することだ。
 伊東はが女だと知らない。
 道を歩いたり食事をしたりといったことはともかく、風呂に入れば即わかってしまう。

 しかし長い道中、風呂に入らないわけにはいかない。
 そこでたちは出立の前夜、頭を付き合わせて考えた。
 風呂は、宿で働いている者たちが使っている湯を使わせてもらおうと。

 斎藤が伊東を風呂場に止めている間に、と土方は作戦を実行に移した。
 は風呂で使う物を風呂敷にまとめ、土方とともに宿の女将の下へと向かう。
 「女将、頼みがある」
 役者のようだと形容される顔に笑みを張り付かせ、土方は宿の台所で下働きの者に指示を出す女将に話しかけた。
 「へ、へえ。何かご用で?」
 女将は振り向き、その笑顔にぽーっとして動きを止める。
 「実はこの連れが極度の恥ずかしがり屋で」
 土方は自分の背に隠れるに視線をやった。
 は土方の後ろに隠れてうつむいている。
 「知らない野郎と風呂に入れねえんで、宿の内湯を貸してもらいてえんだが」
 そう言って土方はにっと笑い、は土方の後ろからちょこんと顔を出してお願いしますと呟き、細い腕を伸ばして女将の手に小さな紙の包みを握らせた。
 

 土方の笑顔と紙包みの中身に、女将は一も二もなく内湯を使わせてくれた。
 は土方が風呂の外で見張りをしてくれている間に素早く入浴を済ませた。


 女将に礼を言って部屋に戻ると、まだ斎藤と伊東は戻ってきていなかった。
 伊東は斎藤が引きつけ、宿の者に土方が頼み、が金を握らせて内湯を使わせてもらう。それが作戦だった。
 は本当は金でどうにかするなんて嫌だし、いつだってこの作戦が通用するとは限らないこともわかっている。
 だが江戸で開成所を訪問するという任務を無事に全うするためには、手段を選んでいる場合でもないのだ。
 「ありがとうございました、土方さんもお風呂に入ってきてください」
 が髪を拭きながら勧める。
 「斎藤たちが戻ってきてからでいい」
 土方はふいとから目を逸らして断った。

 二人が黙り、室内はしんとする。代わりに部屋の外の喧噪が低く聞こえてきた。
 土方がを視界の端に入れると、は旅の疲れと湯上がりの空気を漂わせている。
 途中までは駕籠との同道だったとはいえ、はすたすたと調子よくついてきていた。風呂も無事に借りられてほっとしているのだろう。
 注意せねばならぬ人物も今はこの部屋にいない。が雰囲気を和らげるのも無理はなかった。
 しかしそれがあまりにも無防備すぎて。
 土方は自分の手を、そっとの肩に伸ばそうとした。

 その時、きゅる、という小さな音が聞こえてきた。
 「あ…」
 が赤くなって自分の腹を押さえる。
 「お風呂に入って気が緩んだんですかね、おなか空いちゃいました」
 はばつが悪そうな笑みを土方に向けた。
 土方は自分をごまかすように大げさなため息をついた。

 「馬鹿か。まだ旅は始まったばかりなんだぞ、今からそんな緩んでどうすんだ」
 「すみません。でもご飯まだですかね」
 「お前、人の話聞いてねえだろ」
 「いたっ、おでこはじかないでください」
 「うるせえ」

 二人がそんな会話をしていると、斎藤と伊東が戻ってきた。
 「いいお湯だったよ土方君。、君も一緒に入ればよかったのに…あれ? 、入ったのかい?」
 伊東が湯気をふわふわと漂わせながら、の様子を見て秀麗な眉を寄せる。
 「はい、宿の内湯で」
 はゆっくりと伊東のほうを向きながら、緩めていた空気を締める。
 「大勢で入ったほうが楽しいよ。明日は皆で一緒に入ろう、ねえ、土方く」
 「俺は風呂へ行く。飯が出てきたら先に食っててくれ」
 明日こそはと期待を放つ伊東の言葉を遮り、土方は立ち上がって湯へ向かった。

 伊東はその後ろ姿に口を尖らせたが、すぐに気を取り直してに話しかけた。
 は言葉少なに当たり障りのない返答をし、土方が戻ってくるのを待った。

 土方が風呂から戻ってくるとすぐ部屋に夕餉が運び込まれ、四人は食事をした。
 は飲まなかったが、男三人は石部の銘酒・桜川を少したしなんだ。


 その夜のこと。
 夕餉を済ませて明日の支度も終わらせた四人は、早めに床に入った。
 この時代、旅の朝は早い。街灯などないから、早起きをして日のあるうちに移動し、出来るだけ距離を稼がねばならないからだ。

 、土方、斎藤、伊東の順に布団を並べる。
 は自分の頭上にある道中差しと、明日の着替えをもう一度確認して横になる。
 しかし、疲れているのに何故か寝付けない。
 部屋の中の空気が、いや、自分の隣で眠る土方が、異常なほど緊張した空気を放っているのを感じる。

 ごそりと音がして、畳の上を微かな音が移動してきた。
 何だろうと思ってがそちらへと寝返りを打つと。

 伊東が、土方の布団に潜り込もうとしていた。
 は驚きのあまり目を丸くする。
 しかし土方は慌てずに、腕に抱えていた刀の鯉口を切ると、伊東の手の甲に傷をつけた。
 伊東は予想していなかった痛みに小さな声を上げる。

 「…手当を」
 伊東が血のにじむ手を押さえながら、今度はに近づいてきた。
 「斎藤」
 土方が鋭く斎藤を呼ぶ。
 斎藤は呼ばれたと同時に布団から起き上がるとさっと伊東の身柄を抑え、自らの荷物から応急手当の道具を出して伊東の傷口を看た。
 は身を返して背を向けると、頭から布団をかぶる。
 かぶった瞬間、土方が面倒そうに舌打ちするのが聞こえた。


 翌朝、土方はまだ暗いうちにだけをたたき起こした。
 そして静かに宿の外に連れ出し、物陰に隠れて話を始めた。
 「お前、今夜から俺と一緒に寝ろ」
 「…はい?」
 は言われている意味が理解できずに首を傾げた。
 「だから、俺と一緒の布団で寝ろ」
 「な、何でですか、どうしてそんな」
 は補足された言葉でやっと言われていることがわかり、耳まで赤くして問い返した。
 「江戸に着くまで毎晩、ゆうべみてえに伊東に襲われてみろ、たまったもんじゃねえ」
 暗がりの中、土方のとげとげしい言葉がに降ってきた。
 「それは…そうですけど、だからと言って…」
 顔全体に熱さを感じ、は俯く。
 土方への気持ちを自覚してしまった今、近づきすぎるのは危険だ。
 しかも斎藤も伊東も同じ部屋で寝起きしているのに、二人で布団に入っているところを見られるなんて。
 恥ずかしいにもほどがある。

 「わかったな」
 「でも…その…困ります」
 「言いたかねえが、風呂にも協力してやってんだろ。お前も俺に少し協力しろ」
 「それは申し訳ないと思ってますし、感謝してます。でも…ごめんなさい」

 「…わかった」
 土方はしばし沈黙した後、の横をすり抜けて宿の中へと戻っていった。
 はぺたりとその場に座り込んだ。
 土方に協力したい気持ちはある。出来ることなら何だって手伝いたい。
 しかしこの気持ちに拍車がかかるようなことだけは避けたい。
 土方へ寄せる気持ちに気づいた後もどんどん恋心が育っていくのがわかる。
 どこまでも、まるで底なし沼のように気持ちが深くなっていく。
 そんなことを考えられる立場ではないのに。
 は頭を抱えてうずくまると、自分の心に蓋をしっかりしてから立ち上がり、宿へと足を向けた。


 支度が調うと、四人はすぐに石部宿を出た。
 「今日は関宿まで行きますからな!!」
 と土方は言い捨て、春を愛でながらのんびり行きたい伊東を尻目に、強行軍ともいえる早足で街道を歩く。

 土方の言う関宿は、石部から数えて四つ目の宿である。距離にすると約十里(およそ40キロメートル)を歩く。
 ゆうべのように、毎晩伊東に夜這いをかけられてはたまったものではない。
 そこで土方が考えたのは、二つの案だった。
 ひとつは、今朝に頼んだように、に同じ布団で寝てもらうこと。
 そしてもうひとつは―――


 四人は日暮れの直前に関宿へと入ることが出来た。
 「お前は今夜から本陣に泊まれ」
 土方はを立派な門構えの本陣に押し込むと、手近な旅籠へと入った。

 そこは飯盛旅籠だった。
 人が集まるところには、必ず“遊び”の場がある。
 それは旅路の宿においても同様で、東海道にも六つの公的な遊女を置く宿があった。
 しかし公許のない宿にも需要は当然ある。近隣の貧農の娘が身売りをし、給仕をしつつ旅籠の泊まり客に体を売る。それが飯盛女だった。

 土方は飯盛女を買った。
 あまり器量のよくない女を相手にしようとする土方に、伊東は自分を差し置いてこんな女とと目くじらを立てたが土方は全く意に介さなかった。

 土方が考えた第二の案がこれだった。
 関宿まで急いだのは、石部の次の水口、土山、坂下には飯盛旅籠がなかったからだ。
 を連れての旅は、本来なら坂下までが一日の距離としてはちょうどいい。
 しかし他に同衾する者を寄せ、吐くほど嫌な伊東を近づけないようにするためにはこれしか思い浮かばなかった。
 案の定、飯盛女とともに隣の部屋へ消えた自分を、伊東は追って来ず、策はうまくいった。


 髪も服も乱して、いびきすらかいて眠りに落ちた飯盛女を横にしながら土方は思った。
 が協力してくれればこんなことにならずに済む。
 が、本人に無理強いするつもりはない。
 だからひとりを本陣に泊めた。
 隣の部屋で彼女が眠っているのに、他の女を抱けるはずもなかった。


 「ハァ…」
 早く江戸に着けばいいと願いながら、土方は腹の底からのため息を吐き出した。







 20100702