薄紅の雨宿り 4
翌日の朝。
東の空が薄明るくなり、朝を告げる。
桜の花が陽光に照らされてきらきらと光を反射する中、冷たい空気がゆっくりと暖まってきた。
そんな春の朝の景色とは裏腹に、江戸へ向かう旅支度を調えた土方の表情は不機嫌そのものだった。
今日は隊士募集のため、選ばれた人員が江戸へ向かう日である。
本来ならば沖田、井上、三木の三人が出立するはずだったのに、その誰もが見送りに加わり、代わりに別の面々が旅装に身を包んでいる。
土方、斎藤、伊東。それにが手甲に脚絆、合羽を身につけ、門の前に立っていた。
江戸行きの人員が変更されたのは、ゆうべ遅くのことだった。
西本願寺への移転は無事に済んだものの、土方の元に斎藤からやっかいな進言がもたらされたのだ。
伊東が、西本願寺の裏方と通じているらしい、と。
斎藤は、が伊東に何らかのよくない感情を抱いていることを気にしていた。
しかしそれを無理に問いただすようなことはせず、伊東の動向を追うことにした。
伊東に気取られないよう彼の行動を見張り、ついに伊東が西本願寺の西門の向こう、門主の広如の私邸へと消えていくのを見つけたのである。
西門は“向こう”からしか開かない。勤王家の寺に門を開けさせるということの意味を、斎藤は重く見た。
そして斎藤は伊東が西本願寺と通じていることを土方に上申したのだ。
伊東は社交家だ。隊士の誰とでも話をするし、話の端々から窺える交友関係も広い。
その伊東が西本願寺の誰とどうなろうと不思議ではない。
が、そう言い切る土方に斎藤は、山南が亡くなったことを引き合いに出した。山南が島原の茶屋で伊東と会っているのを見た時に感じたざわめき。
それを土方に知らせなかったことが、今でも斎藤の胸に黒い影を落としていた。
山南の面影が土方の脳裏に甦る。
伊東と西本願寺をこのままにしていてはまずい。
そう思った土方は、伊東と寺を引き離すため、急遽奇策に出る。
伊東を、隊士募集の名目で江戸にやってしまうという策に。
しかし、それだけでは駄目だ。伊東がこの機会を利用し、自分に都合のいい隊士ばかりを選んでくる可能性がある。
沖田や井上が伊東に太刀打ちできるとは思えない。
そこで土方は他の人員も変更し、伊東に加えて自分と斎藤で江戸へ向かうことにしたのだ。
急すぎる変更に周りが不信感を抱かないよう、近藤や斎藤と口裏を合わせて、隊士の人選には隊の重役が赴くべしと会津藩から通達が来たことにした。
土方に呼び出されて嬉々として局長室に出向いた伊東はそれを聞くと、しばし考え込んだ後にふふっと笑って頷き、江戸に行くことを喜んで了承した。
そしてすぐに準備をすると言い、局長室から退出した。
こんな見え見えの手に伊東が気づかぬ訳がない。あの笑みは、きっと見破られている。だがこちらの策に乗ってくれればそれでいい。
近藤が、伊東にそう警戒しなくてもと自分を諭すのを聞きながら、土方は自室へ戻った。
繊細な組子のついている障子を閉めると、土方はため息をついた。
急な話だが、伊東を西本願寺から遠ざけるためには今もっとも有効な手段だと思われる。自分が抑え役に回らねばならぬのが腹立たしい。
どうせ抑えるなら、今はこの部屋にいない彼女の方が―――
そう思った時、ぱたぱたと軽い、しかしどことなく焦りを含んだような歩幅の狭い足音がして、部屋の障子がぱしんと開かれた。
「ひ、土方さんっ…!」
が息をはずませて入ってきた。
暗がりでよく見えないが、かなり急いで戻ってきたようだ。
土方は、つい今しがたそこで伊東か斎藤にでも会い、自分が東下するのを聞いて慌てたのかと想像した。
「聞いたのか。俺は江戸へ」
行くから、戻ってくるまで自分のことは自分でなんとかしろと土方が続けようとしたところ、は後ろ手に障子を閉め、
素早く土方に寄ってきた。
はぐっと土方の前襟を掴み、しがみつくように体を近づけた。
自分が江戸へ行くのがそんなに寂しいのかと、都合のいい解釈が土方の脳裏をかすめる。
しかし、次にが口にした言葉は、都合も何もない、予想の範疇など軽く吹っ飛ぶようなことだった。
「土方さん、わ、私、江戸に行くことになってしまいました。どうしたら…どう…」
「…ああ?!」
たっぷり時間を取り、土方は眉をつり上げた。
二人は互いに自分たちの状況を報告しあった。
まずから、一橋慶喜が宿坊に現れて江戸行きを命令していったことを。
そして土方から、江戸へ向かう人員が急遽変更になったことを、それぞれ簡潔に話した。
「じゃあ、江戸へ一緒に行けるんですね」
がほっとした表情を見せる。
「馬鹿野郎、俺もお前も望まない形で行くんだぞ。気ィ抜いてる場合か」
土方が目を眇めてを睨みつけた。
「…すみません」
は、土方と一緒なら何とかなるかもしれないと思ってしまった自分を恥じ、肩を落とす。
その様子を見て土方は、最悪の事態じゃねえってことは確かだがな、と心の中だけで呟いた。
もし自分が東下して留守の間に、気の利く井上なり島田なりを護衛につけるとしても、彼女を副長室へ一人で置いていって何かあったら事だ。
それに自分が東下せず彼女を一人で江戸にやることは出来ない。まったく土地勘のないところへ一人でほっぽり出したら、何かと事件に巻き込まれることの多い彼女がどうなるか、知れたものではないからだ。
しかし一緒に江戸へ下るにしても、問題は容易に幾つも思いつく。
まず、彼女が自力で江戸までたどり着けるのか。
江戸についてからも、洋学所とかいう所でしっかりお役目を果たしてこられるのか。
何よりも、全ての日程をこなして無事に京へ戻ってこられるのか。
だが、起こるかわからない事態をいつまでも考えていたところで仕方がない。
「支度だ」
土方はすっと立ち上がり、先日の引っ越しで襖の奥へしまったばかりの行李を取り出した。
「決まっちまったからにはもう考えても仕方がねえ。そんなことよりさっさと支度するぞ。出立は朝早えからな」
話しているうちに随分と時が過ぎてしまったようだ。障子の向こうは真っ暗で、物音はほとんど聞こえてこない。
「何してんだ、早くしろ」
まだ座り込んでいるを振り返り、土方は小声で鋭く言った。
「は、はい」
は慌てて行灯を土方の隣に引き寄せ、自分も行李と慶喜からもらってきた包みを並べて、一緒に準備を始めた。
支度を整えると土方は斎藤を呼び出した。
が同行する話を聞くと、斎藤も一瞬目を丸くしたが、黙って頷いた。
土方と斎藤がと相対して座り、旅の注意点をあれこれと述べる。
はそれをひとつひとつ書き出して、何度も頷きながら聞いた。
旅に関する諸注意が終わると、土方からこの江戸行きで考えられる問題点が提示された。
土方が先ほど容易に思いついた諸々のほかに、もっと難しいことがある。
伊東だ。
土方、斎藤と、の秘密を知る二人が一緒なのは僥倖に恵まれている。
が、同時にあの伊東とも行動を共にしなければならない。
伊東に、が女だとばれずに京都と江戸を往復できるのか。
そして自身が言い出さないので誰も口にしなかったが、伊東に対して含むところがある彼女が揉めずにやっていけるのか。
「何とか、気をつけます」
は正座した膝の上の拳をぐっと握り締めて答えた。
行灯のあかりにぼんやりと照らされたその表情は返答とは裏腹にこわばっている。
「ふん、どうだかな。お前はこんなやっかいな江戸行きを簡単に受けてくるような野郎だからな」
土方は煙草盆を引き寄せると煙管を咥え、一服し始めた。
「江戸行きはこいつの落ち度ではないでしょう。あんたと俺で固めれば、それこそ何とかなると思いますが」
斎藤がぼそりと呟いた。
ぷかりと煙を吹かして、土方はを見る。
斎藤の言うとおりなのは百も承知だ。
江戸に行かねばならぬ事態になってしまったのは仕方がない。雇い主の命令だ。
伊東のことも、楽観視は出来ないが自分と斎藤で何とかするしかない。いや、してみせる。
やすやすと伊東にこちらの手を見せてなどやるものかと土方は眉間に力を込めた。
「出立は夜が明けたらすぐだ。もう間もないが少し休んでおけ」
土方が煙管を灰皿に打ち付ける。
こつんと響くその音とともにと斎藤は頷き、体を休めることにした。
そんな夜が明け、現在に至った。
門の前では、出発する面々と隊士たちが挨拶を交わしていた。
人だかりが出来ているのは伊東の周りだ。伊東は愛想良く手を振り、ひとりひとりに声を掛けている。
が笠の紐を締めていると、神谷が寄ってきた。
「さん、これ」
神谷は四つにたたんだ紙をに差し出す。
その両手が包帯でぐるぐる巻きになっている。包帯で覆いきれていない傷口は赤黒く、痛々しい。
「手、どうしたんですか?」
「何でもないです。それよりも、これ、持って行ってください」
手の痛みを想像して眉を寄せるに、神谷は紙を突き出した。
がそれを受け取って広げてみると、人の顔をした四つ足の動物のような絵が描かれていた。
「これは?」
は顔を上げて神谷に聞く。
「知らないんですか? これは白澤(はくたく)と言って、持っていれば何事も難なく運んで不運からは免れ、海山の災難や病気もへっちゃらなんですよ。
つまり、旅のお守りです」
神谷がにこりと笑って答えた。
はもう一度白澤の図を眺める。
顔は人のような目鼻口があるが、体は牛のようである。
頭髪とあごひげは長く、頭には角も生えている。
角は頭だけでなく体にも数本ついていた。
白澤の周囲には山や海、そして川を模した文様が配され、旅の無事を祈る守りとしてふさわしい。
「これ、本当は沖田さんにあげるつもりだったんじゃ…」
ふと思いつき、は聞いた。
自分が旅に出ることは、今さっき隊内に公表されたばかりだ。神谷が自分のためにこれを用意していたとは思えない。
本当は江戸に行くはずだった沖田のために用意しておいたのだろう。
神谷はぼんと赤くなり、の肩の辺りをぽかぽかと叩く。
「もう、さん! 誰のために用意したものだろうと、御利益は変わらないからいいじゃないですかっ」
「そうですね、ありがとうございます。大切にします」
はその手を除けながら苦笑いをし、首から提げている小さな袋に白澤の守りをしまった。
土方が、西本願寺前の堀にかかる橋を渡る。
「それでは、行って参ります」
は笠の角度を直して会釈した。
「いってらっしゃい! 旅のご無事を祈ってます!」
神谷が満面の笑顔で送り出す。
その隣には沖田が立った。二人の間に漂っていた不仲の空気は、いつのまにか消えていた。
はそのことに安堵し、くるりと踵を返す。
振り向かず早足で歩く土方の後ろにが続く。
頭上ではトンビが高く飛んで。
江戸への旅が今、始まりを告げた。
20100624