久遠の空 ドリーム小説 薄紅の雨宿り 3

薄紅の雨宿り

update:2010.06.18

薄紅の雨宿り 3 

 広い空いっぱいに広がる青の下、新選組は近藤を先頭にして西本願寺への引っ越しを行った。
 壬生から西本願寺へは半里もない。四半刻もあれば着いてしまう。
 それでも壬生よりは確実に町中であり、目の前の堀川通りには人通りも多く、活気に満ちあふれている。


 西本願寺の裏から、高く長い塀に沿って歩いて角を曲がる。
 寺の門前に出た隊士たちからは一様に驚きの声が上がった。

 角の向こうに開けた景色。
 奥行きに沿って歩いてきた時も塀の長さに驚いたが、横幅の長さはその比ではなかった。
 どこまで続くのか、堀川通りに沿って道の向こうまで塀が続いている。
 その塀は奥行きに沿って作られている石積みから、腰の部分は石積みのままでその上は重厚な瓦屋根のついた板張りに変わる。
 塀には門が三つもついている。瓦葺きの門が二つ、檜皮葺きの門がひとつ。三つとも遠目に見ても、重たそうな屋根がついている立派な門だ。

 近藤は堀にかかる橋を渡り、一番手前の瓦葺きの門に相対した。
 門のところには人っ子一人いなかった。新選組が本日入ってくるのが知れているのだろう。
 右手には時を告げる太鼓楼が鎮座している。
 「でかいな…」
 近藤が思わず息を呑んだ。
 「何びびってんだかっちゃん。ここから先は敵陣なんだぜ。大将のあんたが堂々としててくれなきゃあ困る」
 土方は低く呟く。長州贔屓の僧が多いこの西本願寺に入ることは、敵の敷地に陣取るようなものだ。隣で歩き、土方の言葉を耳にしたも 背筋を伸ばさざるを得ない。

 ところが驚きの声は門をくぐってからのほうがさらに大きかった。
 正面に姿を現した北集会所。
 これから彼らが住まうその建物は、今までの家屋とは段違いだった。

 大きいと感じた太鼓楼が豆粒のように見えるほど、北集会所は広大な土地の上に立っていた。
 入り口は妻入り(四角い建物の短辺に入り口を構える造り。珍しい)になっており、奥行きのほうが長い。
 屋根はどっしりとした入母屋造り。
 重厚な軒丸瓦が、流れるように美しい筋目を作っている。
 正面入り口には大きな障子が三枚、その左右にやや小さめの障子が二枚ずつ。
 一間ないし一間半の幅を持つ縁側が建物の外をふちどっていた。

 「なんて大きい…」
 も土方の横で目を丸くする。
 「お前も馬鹿面してんじゃねえ。さっさと荷物置いてこい。どの部屋にどの隊が入るのか、俺とお前で指示出しだ」
 土方は自分の荷物を抱え、さっさと幹部用の建物へと歩き出す。
 「は、はい」
 も土方の後を小走りでついていった。

 二人は荷物を新しく割り当てられた部屋に入れると、図面を手にして北集会所の入り口に戻った。
 一番隊から順番に呼び出して、間仕切りをした室内のどこに入るのかを教え、隊士を誘導してゆく。
 「十番隊はっと…ここか」
 まだ呼ばれていないのに、十番隊組長の原田が図面を覗き込んできた。その鼻の頭が赤い。
 「どうしたんですか? 鼻、大丈夫ですか?」
 「一番乗りしようと思ったのによう、間仕切りの板にぶつかっちまった」
 原田はへへっと笑い、赤い鼻の頭を掻いた。
 自信ありげに原田が入り口の階段をかけ上り、開いた障子から中へ入ろうとするも、間仕切りの板に顔面を打ちつけてよろける。 その様子を想像したは、忙しいのも忘れて思わず吹き出してしまった。
 「またぶつからないように、気をつけてくださいね」
 「おう、気をつけるぜ。出来るだけな」
 原田はひらひらと手を振ると、十番隊の面々を連れて、割り当てられた部屋に入っていった。

 原田が沸き立つ気持ちもわからないではない。
 町外れから町中へ、そしてこんなに大きな建物への移転は、間違いなく栄転だ。
 ましてや敵陣に寝起きするなど、戦う者として血が騒ぐのだろう。
 他の隊士たちも興奮のままに刀を振り回して広さを確かめたり、柱に切りつけてその立派さを確認したりしていた。

 夕刻になると、どの隊も荷の片づけがひと段落ついた。神谷の采配で一番隊がいの一番に片づけ終わり、蔵へと運び込む荷物まで片づけた。巡察の隊は出かけていった。

 そこへ八木家から届け物が来た。酒樽のこもかぶりが五つも届いた。引っ越し祝いだろう。おそらく土方が出した建物借用の礼金と、 が池の様子見を頼んだ八木家のための金をすべて酒に変えたのだろう。
 近藤はその酒を、隊務の無い者たちに振る舞うことを許可した。隊士たちはますます浮かれ、寺の境内だというのに酒盛りのどんちゃん騒ぎが始まった。

 は神谷に少しだけ酒を注いでもらって飲み干すと、自室――といっても土方の部屋だが――に戻っていた。
 新しい部屋は北集会所から長い廊下で繋がっている建物で、今までよりも少し広い。書院造りの落ち着いた雰囲気で、華頭窓がついている。 あまり使われていないせいか、畳の匂いが清々しい。
 行灯に明かりを入れると、周囲がぼうっと明るくなった。

 北集会所の入り口で続けられている引っ越し祝いの宴はまだ続いていて、付随している幹部棟まで聞こえてくる。
 その喧噪が遠く聞こえるのはそれほど北集会所が大きいからだが、この西本願寺で一番大きいのは北集会所ではない。
 は昼間に引っ越しをしている最中に見た。
 阿弥陀堂と御影堂の巨大な様を。
 聞けば阿弥陀堂は横幅が約二十五間(45メートル)、奥行きが約二十三間(42メートル)、高さ約十四間(25メートル)。
 御影堂は横幅が約三十四間(62メートル)、奥行きが約二十七間(48メートル)、高さが約十六間(29メートル)なのだそうだ。
 は普段、黒谷でも大きな御影堂を見ているが、これだけ大きな建物が同じ敷地内に並んでいるとさすがに壮観だ。

 こんなに巨大な建物を複数擁しているとは、西本願寺とはどれだけ金が集まるのだろう。
 金があるということはその後ろに人があり、巨大な権力に通じる。これなら人を匿い、時期を見て長州へ逃がすなど、お茶の子さいさいだろう。

 西本願寺の僧と関わることはほとんどないだろうが、しばらくは気をつけておくに越したことはない。
 障子の向こうは庭である。さらにその向こうに、阿弥陀堂の提灯が見える。
 薄ぼんやりとしかみえないそれは、まるで西本願寺そのもののようで、はごくりと唾を飲みこんだ。

 その時、どすどすと廊下を踏みしめる音が近づいてきて、は障子に目を向けた。
 しゅっと鋭い音がして障子が開き、本来のこの部屋の主である土方が入ってきた。

 「お前は飲まなかったのか」
 土方はをじろりと見下ろして聞く。
 「ひと口だけいただきました」
 は酒を自粛しているが、せっかくの転居祝いだと思い、少しだけ飲んできた。
 「お前は酔っぱらうと手がかかるからな」
 土方が鼻で笑う。
 は言い返せず、障子の外に目を泳がせた。

 「…大きいですね、西本願寺。」
 「まあな。…あ」
 「何ですか?」
 「お前なら迷子になりそうだなと思ってよ」
 「そうですね、御影堂の向こうにも立派な建物がいくつか見えましたし、迷うかも」
 「馬鹿野郎、迷ったら探しに行くのが面倒だろ」

 は障子から土方に目を移した。
 「探しに来て、くださるんですか?」
 「…仕方ねえからな」
 
 土方もと目を合わせる。
 華頭窓から差し込む光が、窓の木組の影を畳に映す。
 は土方の視線を受け止められず、影に目を落とした。


 「土方さん」
 障子の向こうに、ゆらりと揺れる長髪が現れた。沖田だ。
 「何だ」
 土方が障子を開く。
 「西本願寺をぐるっと一周して、ここが最後だったものですから、ご挨拶をと思って」
 にこりと沖田は笑い、にも会釈をした。もこくりと頷いて返す。
 「いやー広いですねえ。へたすると迷子になりそうです」
 「勝手に迷っとけ」
 「あれ、さんのことは探しに行くのに、私は探してくれないんですか」
 「っ、聞いてたのか」
 「聞こえただけですよ、ちょっとだけ」

 そこまで言うと沖田はふと外を見て、廊下へと出た。
 「沖田さん?」
 の問いかけに答えず、沖田は障子を後ろ手に閉める。しばし動かずにいたと思ったら、素早く庭へと降りていった。

 ややあって沖田は戻ってきた。
 「どうしたんですか? 急に…」
 が不思議そうに聞く。
 「植え込みにタヌキか小猿でもいるのかと思って見に行っただけですよ」
 沖田は縁側に上がった。
 「何がいたんだ?」
 土方が腕を組んで問う。
 「番犬がいました。大きなのがね」
 涼しい顔で、沖田は笑った。
 

 西本願寺への移転は、その日のうちに無事に終了した。
 寺から借りた布団は新しくふかふかで、心地よく身を横たえたは黒谷への道順を頭の中で考える。
 地理的には壬生よりも南に下がった。北上して大通りに出てもいいし、東へ向かって鴨川沿いに歩いてもいい。時間は今までよりも少し かかりそうだが、景色が変わって面白いかもしれない。
 そんなことを考えていると、疲れたのかすぐに眠気が襲ってきた。

 土方もまた、布団に入って天井を見つめながら考えごとをする。
 昼間、引っ越し作業の休憩中に北集会所の周りを歩いてみた。空いている土地がまだまだある。捕縛してきた者を入れておく牢屋や、 首切り場なども増設できそうだ。
 そして移転が完了した今、すぐに江戸行きの人選を行わなければならない。
 誰を向かわせればまともな隊士を選んで連れてくることが出来るか。
 剣の腕前が強いことはもちろん、情報収集が巧みであったり、算盤に強かったりと、特色のある人物を連れてきてもいい。
 何より近藤一派に、強いて言うなら自分の目論見に忠実になれる人物がいい。
 三人程向かわせるつもりなので、その三人で剣の腕前を見極められ、人柄や能力を見抜き、新しい者たちをまとめあげてきてもらいたい。

 顔を横に向ければ、が隣の布団で穏やかに眠っている。
 西本願寺で迷子になったらなどと話したが、迷子の途中に男色のケがある僧侶にでも捕まったら、などあっと言う間に餌食に されてしまうだろう。
 そうならないよう、余計なところはうろつくなと釘をさしておかねばならないと土方は思い、目を閉じた。


 夜が明けて、翌日。
 西本願寺での最初の朝である。は阿弥陀堂で行われている朝の勤行を聞きながら目を覚ました。そして時間がかかってもいいように、少し早めに黒谷へ向かった。
 黒谷に着くと、公用方筆頭の野村へ、西本願寺への移転が完了したことと、隊士補充のための江戸行きがすぐに行われそうなことを報告した。

 一方、土方は近藤と朝餉をとりながら、江戸行きの人選について話していた。
 すると近藤が、江戸行きに沖田はどうかと推してきた。
 沖田ならば剣の腕も立つ。
 しかし土方は、近藤は沖田を生まれたばかりの姪に会わせてやりたいがために推していることを見破った。
 近藤は他の人選に固い面々を揃えれば大丈夫だろうと言い、沖田を江戸へ向かわせようとした。


 東下は着々と準備が進められる。
 向かう面々には井上と三木三郎が選ばれた。井上はまとめ役としてぴったりだし、もちろん剣にも通じている。
 三木は、べたべたとひっついて回られることに嫌気がさした伊東に厄介払いをされて推されたのだった。 近藤は三木とて仮にも神道無念流の免許皆伝であるから大丈夫なのではないかと許可を出した。

 同じ頃、は英吉利語の授業で課題がたくさん出て忙しくなった。ハーバーが、自分の兄に頼んで送ってもらった本場のテキストを使い、 英吉利語から日本語へ、日本語から英吉利語への翻訳や会話の練習を急激に増やしてきたのである。
 このところ、英吉利語を学ぶ面々に欠席が目立ってきた。京の治安が悪く、見廻りが強化されたためである。
 本当は会津藩からすれば、たとえ弱くともも警備に加えたい。が、一橋慶喜のお声掛かりで始まった英吉利語の授業を潰すわけには行かず、 また、講師であるハーバーの熱心な説得により、は警備の係を免除され、英吉利語の勉強一本に専念することが出来ている。
 で自分だけが優遇されていて申し訳ないと思うから、とにかく勉強に打ち込む。もともと英吉利語に関しては飲み込みが早い 彼女だったが、最近はハーバーも驚くほどの早さと正確さで翻訳や会話のやりとりの能力を伸ばしていった。


 そうこうしているうちに数日が過ぎ、やっとも早帰りを許されて、翌日は休みをもらった。
 ハーバーは元来熱心だが、それが最近は特に強い。まるで自分の作品に磨きをかける職人のようだとは思った。

 熱心と言えば、沖田も江戸行きが決まってからは、同じように感じられる。特に神谷に対しては一事が万事、鋭くなっている。 が早朝稽古をちらりと覗いた時には、まるで神谷を追い出さんとしているかのように打ち据えていた。
 はたまりかねて、深夜に神谷を呼び出して話を聞こうとしても、神谷はただ何でもない、稽古だと言って首を振るだけ。 そして必ずにこりと微笑んで立ち去るのであった。

 二人の間に何かあるのは明らかだ。
 しかしはそれ以上立ち入るのを止めた。
 神谷に聞いて何も喋らないのなら、沖田に聞いても同じだろう。自分は知らなくていいことなのだ。二人が二人だけで解決するのだと思う。
 あの二人なら大丈夫だし、沖田が江戸に行っている間に時間が解決してくれるかもしれない。あまり心配しすぎるのはやめようとは息をそっと吐き出した。


 沖田、井上、三木の三人が江戸へ行くのを明日へと控えた日の夕方、英吉利語の授業を終えて帰り支度をしていたを、訪ねてくる者があった。

 「よーう、久しぶり。元気にしてたかい?」
 まだ桜の花が咲き始めたばかりだというのに胸元をはだけさせ、髪はところどころほつれて、肌理の細かい肌にばらりと落ちている。
 「さん、お久しぶりで」
 後ろにはがっしりとした体躯の男――新門辰五郎もに挨拶をした。
 「あ、あなたは…」
 は意外な来訪者に目を丸くして。

 その反応が気に入ったのか、にやにやとその男は笑った。
 一橋慶喜が。
 
 「…どうぞ」
 宿坊の中に二人を入れ、は自分とハーバーを含め四人分の茶を出した。
 「ありがとよ」
 慶喜は湯呑みを掴むとずずっと中身を啜った。
 「イツモお世話になってマース」
 慶喜がこのイギリス語修得を勧めてくれた本人だと知り、ハーバーは頭を下げる。
 「いいってことさ」
 青い目を細めて自分を見つめるハーバーに、慶喜は軽く手を振った。

 「あの、ご用件は」
 何もなしにこの男がふらふらと出かけてくるはずがない。は慶喜を注意深く観察した。
 「あーそうそう、用事ね」
 慶喜は湯呑みを畳の上に置く。そしてに流し目を送った。

 「アンタ、江戸へ行ってきてくれ」

 「…はい?」
 たっぷり時間をとって、は聞き返した。
 「江戸だよ、えーどー」
 「聞こえてましたけど、江戸…江戸って、どういうことですか?」
 は血の気が引いて呼吸が浅くなるのを感じる。この前のように大坂までならともかく、江戸までなど行けるわけがない。土方の元を離れて、そんな遠くまでなど。
 「大坂でアンタに、大坂で見聞きしたことを英吉利語でしたためてもらったろ? あれを江戸の開成所に送りつけてやったらベタ誉めでさ。 是非あんたに江戸まで来てもらいたい、開成所へ見学に寄越してくれって」
 「ええっ?」
 は青ざめた。まさか大坂で書いた見聞記をそんな風にしていたなんて、予想もしなかった。

 「聞けば新選組が近々江戸へ下るそうじゃねえか。アンタも江戸へ行ってきなよ、そいつらと一緒にさ」
 慶喜は、まるで小さな器に入れられた金魚のように口をぱくぱくさせるを面白そうに眺めて言う。
 「いえ…その…無理です」
 は喉元に震える手を添え、やっと声を絞り出した。
 「無理じゃないデス! 人に呼ばれタラ行かねばなりマセン。行ってきなサイ」
 ハーバーは興奮しての手を取る。
 が人一倍努力をし、英吉利語の力を伸ばしてきたのを一番よく知っているのはハーバーだ。 どこかで彼女が認められる場所があったらいいとずっと考えていたのだ。ハーバーは今がまさにその時と、握る手に力を込める。
 「そ、そんな、ハーバーさんまで…」
 この二人は自分が女だと知っている。
 女の身で江戸まで行くのはかなりの困難を伴うだろうし、通常ではない環境に気が回らなくなって、どこかで女だとばれてしまったらと 思うとは気が気でない。

 「いいじゃねえか、そう気負わずに行ってこい。これは命令だ」
 慶喜は居直って懐から布の包みを取り出し、の前に放り投げた。がしゃりと中身が音を立てる。
 同時に辰五郎が、小さな箱のようなものが二つくっついたものをその横に置いた。
 「これは往復の旅費だ。足りなければ俺の名を出しな。何とかなると思うぜ。開成所を訪問する際の詳細も入ってるから、よっく読みな。 それと、急に行けって言われても困るだろうから、旅に必要そうなものを揃えさせた。じゃあ、そういうこって」
 そう言い捨てると慶喜は従ってきた辰五郎とともに宿坊を出ていった。

 は見送ることも出来ずに呆然とする。
 本気で、この何も出来ない自分に江戸まで行けと言ったのだろうか。
 隣ではハーバーが何か騒いでおり、英吉利語でおめでとうとか名誉なことだとか、そういったことを言っている のがぼんやりと聞こえる。


 「どうしよう…」
 は眉を寄せて下を向いた。




 20100615