薄紅の雨宿り 2
伊東の知略と神谷の演技力により、西本願寺への移転は確実となった。
だが、すぐに屯所となる建物の明け渡しには至らなかった。
借用証文に署名はしたものの、西本願寺側は貸し出す建物にある寺の持ち物を移動させたり、建物の点検をしたいと申し出てきた。
また新選組側でも、本堂と屯所の境に竹矢来を結んで往来を仕切ることにし、巨大な北集会所内はいくつかに仕切ることにした。
それに、八木家の庭に作った道場も移築する必要がある。
西本願寺側が荷を運び出し、新選組側が大工を入れて改築を終えるまで十日ほどを見込み、その分引っ越しは日延べになった。
「やれやれ、ゆうべはどうなるかと思いました」
神谷が賄い方から朝餉の膳をもらいながら呟いた。
「本当にお疲れ様でした」
隣で同じように膳を手にしてが言う。
「副長の我が儘に付き合うのも楽じゃないですよ、まったく」
ぷうと神谷は頬を膨らませる。土方からは西本願寺の署名をもぎとってきたことに、何の労いの言葉もなかったからだ。
「まあまあ神谷さん、あなたのおかげでうまくいったことは皆がわかってますよ」
沖田がそう言って神谷の頭を撫でると、神谷はぱっと明るい表情になって自分の席に座る。
「じゃあ私は部屋へ戻りますね」
は大部屋で食事をとる沖田と神谷に挨拶をすると、膳の上の皿を寄せて湯飲みと急須を置き、土方の部屋に戻っていった。
「土方さん、お待たせいたしました」
は膳を部屋に入れて並べた。
「ああ」
土方はぐっと大きく伸びをすると膳の前に座る。
が茶を淹れると、冷たい空気の中に香ばしい香りが漂った。
二人は箸を取ると食事を始めた。
静かで、若干の緊張を含んだ時が流れ出す。
「今度」
それを先に打ち破ったのは土方だった。
「はい」
は顔を上げ、土方を見る。
「隊士を募集するんで、誰か江戸へやろうと思ってる」
箸を動かしながら土方は続けた。
西本願寺への移転のもっとも大きな理由は、隊の拡充に伴う大きな寝起き場所の確保だ。それが叶った今、隊士募集に移らねばならない。
近藤曰く、兵は東国に限る。
京坂出身の隊士にはいつでも国元に戻れるせいか、脱走者が多かった。
このままこちらで募集を続けていても、穴の空いた桶に水を汲み入れるようなもので、隊士は増えない。
池田屋事件の直後に、心身共の療養を兼ねて東下させた藤堂は隊士の募集に尽力して成果を上げた。
その藤堂を再び江戸へ行かせ、隊士を集めさせている。
今回の募集は前回以上に大人数になりそうで、藤堂一人では切り盛りが難しそうだった。
そこでこちらから幹部の誰かを江戸へ向かわせ、面接を行い、新入隊士を引き連れて来させることになったのだ。
「どなたを江戸へ向かわせるのですか?」
新選組は剣戟の集団だ。より強い、実戦能力を持つ隊士を集めるのが理想であることはにもわかる。藤堂が下地を作ってくれているとはいえ、
最終的に選出するという大事な仕事だ。それを誰にするのだろう。
「まだ決めてねえが、お前には絶対ならねえな」
の問いに土方が口の端を上げて答える。
「ろくに素振りも出来ねえ野郎に新入隊士の選出は務まらねえし、江戸までなんか歩いて行けねえだろ」
「そうですね」
土方の言う通りだとは頷く。
「だからお前が心配するこたあ」
「ごちそうさまでした」
は膳に箸をことりと置いた。
「…もう終わりか?」
土方がの膳に視線をやると、皿の上のものはほとんど手つかずで残っている。
どこか悪いのかと土方が聞こうとした時、どたばたと廊下を走ってくる音がして、永倉と原田が入ってきた。
「土方さーん、あれ見せてくれよあれ! 新しい屯所の図面!」
「朝っぱらからうるせえぞ。もっと静かに入ってこれねえのか」
土方が二人の騒々しさに眉をひそめる。
「悪い悪い。それより図面見せてくれよ。西本願寺ってなあどんな建物なんだ?」
永倉は土方の前にどっかりと座り込んだ。
「入るのは西本願寺の北集会所だ。ほらよ」
土方が文机の上から紙を取り、永倉に突き出す。
永倉はそれを受け取るとばさりと広げた。
「、お前もう見たか?」
畳の上で皺を伸ばしながら永倉が聞く。
「いいえ」
はちらりとその紙に目を遣る。見たことのない、大きな紙面だ。
「じゃあ一緒に見ようぜ」
「はい」
は永倉の隣に座った。
そこには今度転居する西本願寺の北集会所の図面が描かれていた。
北集会所は五百畳も敷けるほどの巨大な建物であるため、中を仕切ることは全員に通達している。
実際にそれがどうなるのか、永倉たちは図面で確認しにきたのだ。
「へーえ、細かく区切るんだな。左之、お前も見て見ろよ」
永倉が図面から顔を上げて原田を見る。
ところが原田は視線をが残した膳に落としていた。
「おい、お前、飯これで終わりなのかよ。食っていいか?」
「はい、どうぞ」
これから黒谷へ向かうは、荷物を持って膳を片づけがてらそのまま前川邸を出ようと思っていた。
残すのも気が引けたので、原田が食べてくれるならそれがいい。
「後片付けもお願いします」
は納戸から風呂敷包みを取り出すと、部屋を出て行った。
「もっちろん! いただきますっと」
原田はの膳の前に素早く座ると、箸を持ってがつがつと食べ始めた。
「左之助、てめえ!」
それはが今の今まで口をつけていた膳ではないか。土方は思わず立ち上がって原田の胸ぐらを掴む。
「何だよ、土方さんも朝飯足りなかったんなら、のやつ食えばよかったじゃねえかよう」
ごくりと口の中のものを飲み込むと原田は事も無げに言った。
原田は、土方が気にしていることをまったく気にしていない。大げさなため息をつき、土方は文机の前に座った。
食べ終わった原田が永倉と一緒に北集会所の図面を見て何だかんだと騒いでいる。
土方はそれを背中で聞きながら、文机に頬杖をついた。
が自分に対して、薄くではあるが壁を作っているのを感じる。
が、それに対しては考えがある。その考えを話そうとして、まず壁を取っ払おうと思い、江戸行きの話を持ち出して軽口をたたいたつもりだった。
いやだ土方さん、私はそんなに頼りになりませんかとでも言い、ぎこちなくとも笑ってくれたら。そう思っていたのに。
(オンナはわからん…)
はあ、と土方はまたため息をついた。
しかし惚れた女のことばかり考えていられる立場ではない。
「オイ、それもう返せ」
土方はまじまじと図面を眺める永倉たちからそれを取り上げた。
西本願寺に移る前に、どの隊がどの部屋を使うか、割り当てを決めておかねばならない。土方はまだ見たいとだだをこねる永倉原田を押しとどめながら、
図面をじっと見つめ始めた。
「…やっちゃった」
は歩きながら額をぺしりとはたいた。
土方の言ったことは本当だ。江戸へ行って隊士を募集するなんて、そんな重要な仕事を自分が出来るとは思えない。
それに、主な移動手段が徒歩であるこの時代に歩いて江戸まで行くなど想像も出来ない。元の時代ですら、新幹線で京都から東京まで三時間近く
かかるというのに。
わかっている。土方は、自分が伊東に関することで緊張感を持って相対していることなど、とっくにお見通しだ。
その雰囲気を何とか崩そうとして、彼特有の、ちょっと意地悪な言い回しをしただけだ。
真正面から受け取る必要もなかったのにそうしてしまったのは、自分が土方に対して後ろ暗いところがあるからだ。伊東を怪しんでいて、
しばらく土方に内密で様子を見ようという考えが。
土方にはそんな考えはお見通しで、言い出せない自分をちくちくいじめているのではないかとちらりと思い、いたたまれなくなった。
そこへちょうど永倉と原田がやってきたので、流れで部屋を出てきてしまったのだ。
こんなことで揺らいでいては、鬼の副長の小姓は務まらない。しっかりしなければ。
は風呂敷を脇に抱えると頬を両手でぱしんとはたき、黒谷へと向かっていった。
西本願寺北集会所の改修作業は滞りなく進んでいった。
新選組が借り受ける建物にあった寺の荷物はすぐに撤去され、大工が入り、室内には仕切りが作られ、外には竹矢来が組まれた。
大工が工事を行っている間、隊内は慌ただしく移転の準備を進めていた。各個人の荷をまとめるだけでなく、借りていた部屋の掃除も万端にしなくてはならなかった。
男所帯を構成する隊士たちはなかなか掃除が行き届かず、神谷から何度も清掃のやり直しをくらっていた。
そんな中、一人の女が沖田を訪ねてきた。が黒谷に行っている間だったので永倉や原田から後で聞いたのだが、近藤の奥方が婚儀の際に
ついてきた女で、試衛館道場の手伝いをしていた女だった。
沖田に想いを寄せて告白までしたが、剣の道に生きることを心に決めていた沖田に断られ、自害しようとしたそうだ。
その女が、はるばる江戸から京都まで沖田を訪ねてきたのだ。自害の傷が癒えた後に嫁いだが、自分を慈しんでくれる旦那との間に子が出来ず、
沖田への想いを断ち切れば子が出来るのではないかと思い詰めて会いに来たのだという。
会って二人きりで話をして、こじれることなく別れたのだそうだ。
沖田が女性に対して奥手なのはも気づいていた。隊士の多くは俸禄が入れば島原へ直行するのに、沖田はまったくそのような気配がなかった。
神谷が妓の元へ行っている時、ごくたまにふらりと島原へ出かけて、夜のうちに戻ってくる。
その沖田にそんな話があったとは、とは聞きながら意外に思った。
そしては、女子でも江戸からここまで歩いてきた事実に驚いた。大事な目的があるとはいえ、遠い遠い江戸から京までとは。
とても自分には真似できないとは、自分に向かってしゃべり続ける原田に頷きながら思うのであった。
瞬く間に時間は過ぎ、大工から改修が終了したとの連絡が入った。
「明日、正午から移転を行う。全隊士に通達しておけ」
その夜、土方は組長たちを部屋に呼び、そう伝えた。
「おう!」
組長たちは返事をすると立ち上がり、組下の者たちが居住する部屋へと散っていった。
翌日早朝。
静かな壬生の空に、小鳥がさえずりながら飛ぶ。
「もたもたすんじゃねえぞ。昼から移動を開始する。それまでにまとめきれてねえ荷物も全てまとめて支度を整えておけ!」
土方が前川邸と八木邸を歩き回り、隊士たちに檄を飛ばす。朝餉が終わり、巡察の当番でない隊士たちはのんびりしていたが、
副長の怒号に慌てて自分の荷物を見直し始めた。
副長室にはあの部屋の荷物はどうすればいいか、蔵の中の荷で整理し切れていないものはどこへ運べばいいのかなど、
指示を仰ぐ者たちが続々とやってきた。土方とはその部屋や蔵に赴いて、次々と指図していく。
しばらくするとどこから聞きつけてきたのか、あちこちの店から掛取りが押し寄せてきた。引っ越しに紛れて金を踏み倒されてはたまらないと思ったのだろう。
すると今度は勘定方に隊士が流れ、掛取りへの支払いのためにどんどん金を借りていった。
昼になり、巡察に出ていた一番隊が戻ってきた。
掛取りの列もほとんど消え、いよいよ隊全体が移動する。
が各所の指示から戻ると、紋付き袴に着替えた土方が近藤と一緒に局長室から出てくるところだった。
「土方さん、向こうの指示出し終わりました」
「ああ。俺たちは八木さんのところに行って、世話になった礼金を置いてくる」
「八木さんのところ…」
は八木と聞いて思案顔になった。
「どうした」
自分の前から動こうとしないに土方が問う。
「私も連れていってください」
は土方に一歩近寄った。
(あの…あれ、お願いしておきたいんです)
こそりとは囁く。
土方はの言葉にピンと来た。
「わかった。用意しろ」
「はい」
は土方の部屋に入り、行李から何かを取り出して懐紙で包む。それを懐に入れると羽織を着て、土方たちの後について八木の元へ向かった。
「お世話になりました」
八木源之丞を前に、近藤、土方、は頭を下げた。
「皆さんが来てから二年でっか。長かったような、短かったような」
八木は温かな笑みを浮かべる。
「これは建物借用の礼です。お受け取りください」
土方が懐から包みを取り出し、八木の前に差し出した。
「そんな、お気遣いなく」
八木は手を振ってそれを断った。
「気持ちだけですので」
土方は畳の上に置いた包みを、もう少し八木のほうへと押し出した。
中身は金で、額はたったの五両だった。掛取りへの支払いで金が出払い、本当は近藤の希望で包み金――二十五両を置いていきたかったが、
どうしても工面できなかった。
「…ほな、遠慮なく」
八木は掛取りの騒ぎもわかっている。何とか威厳を保とうとする土方の表情に苦笑いをすると、その包みを受け取って頭を下げた。
近藤たちがしばらく八木と話していると、平隊士の一人がやって来て、ほぼ全員が八木邸と前川邸を出る準備が出来たことを告げた。
「じゃあ我々もそろそろ」
と近藤が立ち上がる。
「近藤さん、先に行っててくれ。俺たちもすぐ行く」
土方は座ったまま近藤に言う。
「わかった。八木さん、たまには西本願寺に顔を見せに来てください」
「近藤はんも、いつでも壬生に遊びに来てください」
「ありがとうございます」
近藤は頬にえくぼを浮かべながら立ち去った。
残るは土方とだけになった。
「何かご用で?」
八木が聞く。
「あの、以前、前川邸の池が光るというお話をされていましたよね」
が切り出した。
「ああ、山口はんが来てすぐの頃でしたか、そんな話をしましたな」
「光ったら、教えていただきたいんです」
「土方はんからも前々からそうお願いされてましたが…それはまた何故に」
「訳は話せませんが、こいつには大事なことなんです。お願いします」
横から土方が口を出し、丁寧に頭を下げる。
その様子を見て、もすぐ畳に手をついた。
「…わかりました」
八木も土方が副長としてどのような立場にいるのか理解している。その土方が何も問うなということのも意味もわかっている。
それ以上は詮索せず、ただ頷いて了承してくれた。
「前川さんにも同じくお伝えください」
は先ほど行李から出して包んだものを――金の包みを二つ、八木の分と前川の分を、八木の前に出して頭をもう一度下げた。
前川邸に戻り、まとめておいた荷物を確認しながらは思う。
新しいところへ移っても、八木たちが池を見ていてくれるから安心だ。
これで壬生に心残りはない。
行李に小さな風呂敷包み、それぞれひとつずつ。
の荷物はそれだけだった。
前川邸の門をくぐる。
朝に夕に、何度も何気なくくぐってきたはずなのに、今日だけは門の影が重く感じられた。
「土方さん、ありがとうございました」
早足で歩く土方に並び、は小さな声で伝える。
「何がだ」
「さっき、八木さんへ一緒に頭を下げてくださって」
「人にモノを頼む時は当然だろ」
ふんと土方は鼻を鳴らした。
「これ見とけ」
土方は手に握っていた紙をに差し出す。
がそれを開いてみると、これから移転する西本願寺北集会所の見取り図だった。
先日見たものよりも簡素化され、間仕切りした北集会所のどこにどの隊が入るか、幹部は付属する建物のどの部屋を使うのかが記してある。
歩きながらそれを見て、は首を傾げた。
自分の名前がどこにもない。
北集会所はともかく、幹部用の建物にあるいくつかの空き部屋にも、の名はなかった。
「私の部屋はどこですか?」
土方を見上げ、は聞く。
「お前の部屋? 俺と一緒に決まってんだろ」
「え? でもこれだけ広くて空き部屋もあるのなら…」
加えてもう副長室から池を監視する必要もない。つまりもう土方と同室である必要はないのだ。
「馬鹿か」
土方はの額を指でこつんと弾く。
「いたっ」
は見取り図から片手を放して額を押さえた。
「幹部でもねえのにひと部屋与えられると思ってんのか。贅沢な野郎だ」
「そうじゃないですけど、せっかくお部屋も余ってるのに…」
「四の五のうるせえ。俺の小姓だろ、言うこと聞きやがれ」
「…はい」
は見取り図の端と端を重ねて折り、土方に返した。
土方は憮然とした表情を崩さずにそれを受け取った。
一瞬だけ目があったが、どちらからともなく視線を逸らし、二人とも前を向いた。
青い空に焦げ茶色の枝が伸び、その先には白い花がほころんでいる。
桜の花が咲き始めたのだ。
いじめられているなんて、自分は何て馬鹿なことを考えていたのだろうとは下を向く。
八木邸では一緒に頭を下げてくれて。
新しい屯所で自分の部屋がないのも、ひとりきりになってもし誰かが押し入ってきて女だとばれるようなことがあったらいけないからだろう。
土方は何も言わないが、自分の安全を考えてくれているのだ。
いつか必ず、時が来たら、伊東のことを話そう。
今は移転で忙しいし、自分にも伊東が白なのか黒なのか確信がない。
だがいずれはっきりするはずだ。
自分のことをよくよく考えてくれるこの人を、裏切ってはならない。
「前を見ろ」
土方がの後ろ頭に手をやる。
「はい」
は背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を向いた。
空を雀が踊るように羽ばたき、高い塀の上に鎮座する瓦に止まった。
その向こうには、灰色のどっしりとした屋根がある。
「西本願寺…」
はその建物の名を呟いた。
20100604