薄紅の雨宿り 1
総長・山南敬助を失った新選組は、その死を悲しむ暇もなく、巡察や稽古に明け暮れた。
他のことに没頭し、少しでも早く痛手から立ち直ろうとしているようにも見える。
そんな彼らの目下の課題は、屯所移転だった。
新選組は、壬生の前川邸や八木家から撤退し、六条にある西本願寺を屯所にしようと目論んでいた。
隊士は着実に増えてきており、さらに増やしていくようにと会津公からのお達しも出ている。前川邸や八木家にはもう収容しきれない。
そこで、西本願寺に白羽の矢が立ったのである。
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、開基は親鸞である。
親鸞の廟堂(墓地)は初め京都東山にあり、移転を繰り返した。豊臣秀吉によって現在の土地を寄進されると四十年ほどかけて
姿を整え、今に至る。
その西本願寺には五百畳も敷ける北集会所がある。
北集会所は、大きな法会が催される際に全国からの末寺の僧徒を集めて法会に列席させるための巨大な建物だ。
それ以外にはほとんど使用されていない。大規模な人数を収容するにはうってつけだった。
西本願寺が選ばれた理由はそれだけではない。
西本願寺は前年の八月、不審人物の出入りがあった。西本願寺は、長州に末寺門徒も多く、何人もの長州人を
京からこっそりと落ち延びさせたとの噂もある。そこに新選組が入れば、西本願寺も下手な動きは出来まいという計算があった。
また、西本願寺に屯所を開設できれば、壬生よりも中心部へ出やすくなる。より迅速な行動が期待できるのだ。
しかし西本願寺は当然いい顔をしない。
御仏を崇めたる・西本願寺に、血生臭い壬生狼どもを住まわせるなどもってのほかだ。
「西本願寺が、断りを?」
思わず近藤は問い返した。
近藤は今日、とともに朝早くから金戒光明寺に出仕していた。前日にが、会津藩公用方筆頭の野村から、
近藤を召し出す旨を仰せつかってきての出仕だった。
野村が近藤を呼びつけたのは、まさにその西本願寺への移転のことであった。
幕府側からも西本願寺へ、新選組の屯所として北集会所を明け渡すよう働きかけていたが、正式に断りを入れてきた。
西本願寺は、“当寺は孝明天皇の姉宮であらせられる桂宮淑子内親王の非常御立退所を命じられている故あり、
かような軍の屯所として供出するわけには断じて参らぬ”と申し出てきた。
もちろんこれは建前だ。寺側の本心は、新選組を寺域に入れたくない、ただそれだけである。
「玉(天皇)の名を出されては無理を押し通すわけにもいかん。近藤、すまんが別の場所を探してくれぬか」
野村はため息を吐き出す。
「は」
近藤も玉を持ち出されては反論できない。ただ頭を下げ、野村の言う通りにするしかなかった。
「困ったなあ。トシにはどう言ったらいいのか…」
ぽつりと近藤が呟く。
共に話を聞き、面会していた建物から出てきたも同意して、小さく頷いた。
屯所移転にもっとも力を入れていたのは土方だった。
ゆうべは、朝になったら組の全員に今月中の移転を宣言し、荷をまとめさせると言っていた。
それなのに西本願寺が断りを申し入れてきたとは。きっと土方は文句を言うだろうし、また新たな移転先を探すのにも時間や手間がかかるだろう。
「でもなあ…断られたからにはトシにもわかってもらって、もうひと働きしてもらうしかないな」
近藤は苦笑いをすると、が通う英吉利語を学ぶ宿坊の前で別れ、ほかの供の者と一緒に屯所へ戻っていった。
その大きな背を見送りながら、も近藤と同じことを思った。
山南が切腹する前から、土方は屯所を西本願寺に移すことを主張していた。近日中に西本願寺へ入ることは、彼の中ではほぼ決定事項であった。
それをこの間際になり覆されるとは、土方が眉を吊り上げるのが目に浮かぶ。
(たぶん、このままにはならないんだろうけど…)
は近藤たちが山門をくぐって右に折れていくのを見届けると、自らの仕事をするために宿坊へと入っていった。
その夕方、が前川邸に戻ると、ちょうど一人の隊士が門から出てきた。
「あ、さん」
「えっと…神谷さん?」
出てきたのは神谷だった。
どういうわけか、前髪を結わえて髷を結い、薄く化粧まで施している。
「お出かけですか?」
は神谷の姿をしげしげと眺めて聞いた。いわゆる若衆姿というものだ。似合っているが、神谷の緊張した表情を見て、は口を噤んだ。
「はい、“お西さん”まで」
「え?」
神谷が告げた行き先に、は目を丸くする。
お西さんとは西本願寺のことである。今朝方、西本願寺への移転は不許可となったはずだ。
「おひとりですか?」
「そうなんですよ」
「よければご一緒いたしますけど」
「じゃあ、お願いしようかな。でも、お西さんの門番の見えないところまで、ね」
二人は肩を並べて歩きだした。
神谷は行く道々、なぜ若衆の格好で西本願寺に行かねばならぬことになったのかを話した。
昼近くに戻ってきた近藤が移転先の変更を伝えると、土方はの予想通りいきり立ち、
井上や原田、強面の隊士数名を連れて寺に直談判に赴いた。
が、土方たちは門主に会えずに引き返してきた。西本願寺の裏方に勤めている女たちが、門主のいる部屋へと繋がる廊下に寝転がり、
土方たちの歩みを阻止したのである。
「ご門主さまにどうしても会うと言われるなら、この体を踏んで行かれるがよい」
そう凄まれては、さしもの土方もごり押しするわけにはいかなかった。
屯所に戻ってきた土方はすぐに次の手を考えようとした。
そこへ伊東が妙案があると言って、神谷を指名したのであった。
「それで、その格好ですか?」
は夕焼けに染まる神谷の姿を今一度見つめる。
「そうなんですよ、この格好で、伊東参謀の言うとおりに口上を述べたら、きっとうまくいくからって」
神谷は腕に抱えた文箱を見下ろした。中には門主に宛てた、西本願寺の堂宇の借用証文が入っている。これに許可の署名をもらえば
神谷の“任務”は終わりだ。
石垣の上に連なる、見上げるほど巨大な塀に沿って二人は歩いた。この塀の向こうに西本願寺がある。
は塀の曲がり角で足を止めた。角の向こうは西本願寺の門だからだ。ここから先は神谷ひとりで行かねばならない。
それが伊東に教えられた作戦だ。
神谷はこくりと頷くと、西本願寺の門の前に進んでいった。
神谷が重たそうな木造の扉の前で何かを言う。そのか細い声に漆黒の門が開き、麗しい若衆姿の神谷は中に消えた。
は塀に寄りかかり、神谷が出てくるのを待つ。
空を見上げると、もうそこには闇が広がっていた。星が二つ三つと、瞬きをするたびに増えていく。
きらきらと光る星を眺めていると、の頭に伊東の顔が思い浮かんだ。
神谷が若衆姿で聖域である西本願寺に入っていくのを提案したのは伊東だという。伊東がどのような意図で神谷を送り出したのかはわからない。
が、きっと成功する手を、伊東は用意したに違いないとは思う。
伊東は不思議な男だ。
剣術の道場主を務めていた身ながら、それを微塵も見せず、知略でもって物事を進めようとする。
山南も同様だったが、もっと何かを動かしそうな、行動力がありそうな感じだ。
山南―――
その名が頭に浮かび、の顔は表情を無くす。
隊規違反だと知っていて、何故脱走などしたのか。
どうして腹を切るとなっても、あのように穏やかでいたのか。
もうそれを知ることは永遠に叶わない。
そして、伊東との関わりは。
山南の切腹直前、伊東の部屋に赴いた時。あの時、部屋から漏れ聞こえてきた伊東と実弟の三木との会話は、一体何を現していたのか。
忘れてしまえばいいのに、それがどうしてもの脳裏にひっかかって取れない。
土方に言ってしまえば楽になるだろう。
だが、伊東は近藤が直々に話して連れてきた男だ。
もし伊東を疑えば、近藤の人選を非難することになる。
そうでなければ、伊東は弁が立ちすぎる男だとして、警戒しなくてはならない。
は壁に後頭部をこつんと当てる。
非難も警戒も、どちらもしたくない。
近藤は土方や沖田をはじめ、有能で多彩な人物を集める腕がある。
伊東も、あの会話のことは自分の聞き違いか彼の一時の気の迷いで、彼の頭脳の明晰さを新選組のために役立てようとしていると思いたい。
伊東が白か黒か。
証拠が出るまでは、この胸にしまっておこう。
こんなことで、多忙な近藤や土方の手を煩わせたり、心を乱すようなことになってはならない。
新選組のために、土方のために、何も自分が出来るのは、いらぬ心配や迷惑を掛けないこと。
もうすでに土方は、自分が伊東に対して何らかの疑惑を抱いていることを感づいているようだから、遅いかもしれないが。
緩い風が吹いてきた。
は襟巻きを引き上げ、手に息を掛けて温める。
神谷はまだ来ない。難儀しているのだろうかとが門のほうへ顔を向けた瞬間。
「ぁぁあああ!」
すさまじい叫び声がして、西本願寺の門が僅かに開き、中から人影がぴゅんと飛び出してきた。
「神谷さん?」
こちらに向かって走ってくるその人影は、間違いなく神谷だった。
腕に文箱をしっかりと抱え込み、阿修羅の形相で爆走してくる。
「さん、走って!」
「え?」
「いいから走って!」
「は、はいっ」
ぐいっとの腕を引き、神谷は怒鳴りつけた。
は何があったのかと思いつつ、神谷の言うとおりに走り出す。
西本願寺の塀の角を曲がる時に、は後ろをちらりと振り返った。
僧形の影が肩を落として佇んでいる。
隣で走る神谷を見れば、必死の形相を崩していない。
首を傾げつつ、は神谷と共に屯所まで走っていった。
二人は肺を焼けつかせ、息を切らして屯所に駆け込んだ。
式台で待ち構えていた沖田と土方が、二人を局長室に入るよう促した。
「お帰り、清三郎」
神谷の姿を見ると、伊東が涼しい目で迎えた。
「い、い、伊東参謀っ! どういうことなのか、お聞かせ願えますよね!」
目を三角にして、神谷は伊東を睨み付ける。
「その様子だと、僕が教えた口上どおりにしたようだね」
扇で口元を隠しながら伊東は微笑んだ。
「ええ、言いましたとも。大悦至極って、でっかい声で!」
神谷は仁王立ちになる。
伊東はぱちりと扇を閉じると、自分の戦略を語り始めた。
西本願寺の宗派である浄土真宗は、天悦、天の文字を分解すると“二人”となることから女色を現す隠語のことなのだが、天悦を認める
自然体の宗派である。それは人としての欲望を否定しないことへと繋がり、えも言われぬ美しい若衆姿の神谷と対面してその口から大悦至極、大の字を
分解して“一人”となることから男色を意味する隠語が漏れれば、どうなるか。
目の前に現れた、御仏の使いか菩薩の化身かとも思われるような麗しい少年を、手折ってみたいと思わないだろうか。
「そんなこと一言も言わなかったじゃないですか――っ!!」
大悦至極だけを強めて言えと言われ、その通りにした神谷はとんでもない目に遭い掛けたようで、伊東に詰め寄った。
「それでどうだったんだ首尾は」
横から土方が事も無げに言う。
神谷は文箱を開けて、土方に堂宇の借用証文を突きつけた。
土方が証文を広げ、そこに門主の署名があることを確認する。
作戦の大成功に場はわっと沸き、沖田が神谷を抱えた。
「ちょっと待て」
土方が立ち尽くす。その顔は青い。
西本願寺への移転が成功して一番喜ぶべきなのは言い出しっぺの土方なのではないかとは思い、未だ整わぬ息をしながら土方を見上げた。
「つまり…坊主は…俺の大嫌いなシュミの野郎が少なからずいるってえことか…」
「はい?」
は土方の呟きを耳にし、その意味を考える。
土方の嫌いなシュミと神谷の置かれた状況を総合すると、それはつまり、男同士の…。
「近藤さん! やっぱり別の場所を探そう! 寺以外の!」
土方が叫ぶ。
「ええ――っ! 今更何言ってんですか副長――っ」
身を挺して借用証文に署名させてきた神谷は当然怒り心頭だ。
「まあトシ、とりあえず落ち着けよ」
近藤が宥める。
「そうですよ、元はと言えばお西さんに移るのは、土方さんが言い出したんですからね」
沖田が神谷の頭を撫でながら言う。
「ねえ! そうですよねえ!」
沖田を味方につけた神谷が土方を指さす。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる皆を見て、の口元にも自然に笑みが浮かんだ。
ふと横に気配を感じてそちらを向くと、いつのまにか伊東が寄ってきていた。
は無意識にぐっと拳を握る。
「君も居たら、清三郎と一緒に着付けて送り出したのに。そうすれば相手は何も語らずとも、証文を見せただけで署名しただろうね」
伊東はまた扇を開き、に流し目を向けてくつくつと笑う。
は伊東の目をじっと見つめた。そこには山南の葬儀の日のことでを問い詰めるような気配は微塵もない。
「神谷さんおひとりで、立派にお役目を果たされてきました。私の出る幕ではありませんよ」
の拳はゆっくりと開かれてゆく。
「君のそういう謙虚なところが好きだよ、」
伊東は扇をかざすと、の耳にこそりと囁いた。
はただ薄く笑った。
こうして西本願寺への移転許可は無事に取り付けられ、引っ越しは決定した。
桜の枝には大きなつぼみがつき、今にも咲きそうに色づいている。
新選組にも、あらたな春が訪れようとしていた。
20100524