片棒 12
厩に馬を繋いだ沖田が、山南と一緒に前川邸の門をくぐる。
邸内に残っていた隊士たちのほとんどが、門から玄関まで迎えに出て来た。
「ただいま戻りました」
笑みを浮かべて沖田が敷石の上を歩く。その後ろに山南が続く。二人の歩みに、人垣が音もなく割れた。
「先生方!」
ばたばたと廊下を走り、神谷が式台に姿を現す。
「神谷さん、ただいま」
「お帰りなさいませっ」
神谷が沖田と山南に、濡らした手拭いを渡した。二人はそれを受け取ると、顔や手を拭き、が桶に水を張って持ってくると、足を洗った。
その様子を隊士たちが見つめる。
沖田と山南に悲壮な雰囲気は微塵もなかった。山南の表情は晴れやかで、何の憂いもない。
「総司、局長の所へ」
山南が手拭いを桶の縁に置いて言う。
「はい」
沖田が頷き、先に立つ。
二人は、前川邸の最も奥にある局長室へと進んだ。
「近藤先生、総司です。ただいま戻りました」
局長室の障子の前で、沖田が声を掛ける。
「入れ」
緊張を含んだ返事が返ってきた。
障子が開かれると、局長の近藤、副長の土方、幹部たちが顔を揃えていた。
沖田が山南を促し、先に部屋に入れる。そして後ろからついてきた神谷とをやんわりと押しとどめた。
「沖…」
神谷が沖田の袖を握る。
沖田は神谷の手を取ると、に握らせた。
と神谷と同じように心配する顔が、後ろにもずらりと並ぶ。
その顔を見渡すと、沖田はこくりと頷いて室内に入り、障子を閉めた。
その途端、隊士たちが障子際に押し寄せた。
と神谷も後ろからの力に負け、障子に押しつけられる。
障子の向こうからは、山南が穏やかな口調で帰営を告げる声が聞こえてきた。
近藤が山南と沖田に戻りへの労りの言葉をかける。しかしそれはすぐに脱走を糾問する声に変わった。
近藤は山南を信じた。裏切りが目的で脱走など、山南に限って絶対にないと。
だが、山南はどんなに聞いても脱走の訳を明かさなかった。山南は首を横に振り、己の脱走の事実だけを隊規に照らし、
公正な処罰を望むだけだった。
廊下の皆も中の幹部同様、固唾を飲んで近藤の裁量を待つ。
と神谷は、固く手を握りあった。
局中法度第二項、局を脱するを許さず。
その隊規へ違反により、山南に切腹が申し渡された。
山南が平伏し、ありがたく思う旨を告げた。
障子が左右に開かれ、中から沖田がまず出てきた。
沖田が廊下にいる全員の視線を受け止めた後、山南が続く。
「山南先生…っ!」
神谷がの手を振りほどき、青い顔で後ろを追いかけた。
「全員、紋付き袴に改めろ」
いつの間にか土方が障子際まで来ており、廊下にいる皆に言い放った。
いささかの迷いも見せない土方の目線に皆は震え上がり、蜘蛛の子を散らすように着替えに行く。
その場に残ったのは、斎藤とだけだった。
「風呂は沸いてんのか」
土方が言う。
「はい。俺が総長に沐浴のご案内をします」
斎藤が答える。
「そうしてくれ」
土方は斎藤に指示を与えると、の方を向いた。
「、お前は源さんたちと一緒に準備を手伝え」
「…準備、ですか?」
「源さん、こいつを連れていってくれ」
「はい。、こちらに来い」
「は、はい」
は井上の前に進み出た。そして永倉や原田とともに、別の部屋へと向かっていった。
切腹の場として選ばれたのは、前川邸の仏間だった。
は部屋に入ると、室内をぐるりと見回した。
池田屋事件の屯所居残りの際、山南と詰めていたのはこの部屋だった。あの時は山南に助けられて何とか屯所を守ることが出来たのだったと、
は思い出す。
井上が指図するとおりに皆は動いた。
畳を一枚運んできて大きな白布を巻き、北向きに据えた。その前に検死の席として腰掛けを二つ置く。
三方は、井上が穴の空いている方向を見て、一辺の両角縁を取り除いた。
永倉が刀を持ってきた。
「九寸六分で」
井上に見せると、井上は長さを確認して頷いた。
永倉は刀の柄を外し、切っ先を五、六寸出すと奉書紙でくるくると巻いた。そして紙縒を作り、奉書紙の上から結んで止めた。
用意のできた切腹刀が三方の上に置かれる。
刀身がぎらりと光を帯びる。禍々しい、鈍い光を。はぞくりと身を竦ませた。
井上がもう一度全てを点検し、準備は整った。
もほかの皆と同じく着替えるため、土方の部屋に戻った。
部屋に入ると、土方はすでに姿を改めていた。が部屋に入ってきたのにちらりと目をやっただけで、文机の前に座って腕を組んでいる。
「準備が出来た奴から仏間の南側の部屋に集まるように触れ回れ」
土方はそう言い、部屋を出ていった。
すぐに隣の部屋の障子が開く音がしたので、近藤の部屋に入ったのだろう。
は自分の紋付きと袴を取り出し、着替えを済ませた。その間に局長室から近藤と土方が出てきて、仏間のほうへと行く足音が聞こえた。
土方に言われた通り八木邸と前川邸内を回り、隊士たちに仏間へ集合するよう通達する。
(後は…伊東先生たちか)
は何となく最後にしてしまった、伊東の部屋――元は山南の部屋で、伊東が同室を希望した――へと足を向けた。
伊東の部屋に近づいていくと、中からせっぱ詰まったような声が聞こえてきた。
「あ、兄上」
伊東の弟、三木三郎の声だ。
は足を止めた。
「いつまでもうるさいぞ、三木!」
伊東の声が三木を叱咤する。
「これは我々への見せしめではないのですか?」
――見せしめ?
何のことだろうと、は息を殺し、耳をそばだてる。
「本当に、山南さんの口から新選組を…幕…皇へ導き、万一の時には近…を斬り殺す計画が漏れたのではないのですね?」
――新選組を何かへ導いて、誰かを斬り殺す“計画”?
は物騒な話題に震える手を口に当てた。
「お前は馬鹿か三木。もし漏れているのならば、我々も諸とも腹を切らされているか、とっくに狙われて命が危うくなっているだろう。
そうなっていないと言うことは、彼が我々のことを伏せていてくれたからに他ならぬのだ。そんな事にも気づかぬのか!」
扇が机をバシッと打つ音がした。その音が余りにも鋭く、驚いたは後じさって。
ぎしり、と木の廊下が軋んだ。
はしまったと思ったが、もう遅い。
「誰だっ!」
三木が巨体に似合わぬ素早さで廊下に飛び出してきた。
「それがしでございます」
の前に、斎藤が立っていた。
「さ、斎藤さん…」
はその背にほっとする。
「お支度が出来ましたならば、早々に仏間の南の部屋へとお越しいただきたい。皆、ほぼ集まっておりますれば」
斎藤が平坦な表情で言い放つ。
「…今の」
聞いていたのか、と三木が汗を滲ませてまなじりをつり上げた。
「三木さん」
斎藤とのさらに後ろから、今度は内海次郎が声をかけた。
「お待たせいたしました。我々も参りましょう。斎藤さん、山口くん、お手間をとらせて悪かった」
内海が頭を下げ、伊東の部屋に入る。
「内海、遅いよ」
伊東が今までの厳しさを微塵も見せずに立ち上がった。
斎藤とは先に伊東の部屋の前から退いた。
今の伊東と三木の会話は…。
は朧気に聞こえてきた言葉に、嫌な予感がしてならない。
「何か聞いたのか?」
斎藤が問う。
頷いていいのだろうか。
“諸ともに腹を切らされて”や“彼”など、伊東が主語の省略や代名詞をつかって隠したのは、山南のことに他ならないと思う。
だが、もし思い違いだったら?
新選組を何かに導くなどの言葉も、全て自分の聞き違いだったら?
江戸で近藤と幾度も話し合い、新選組の思想に納得して、伊東たちは入隊してきたのではないのか?
逡巡するを見下ろし、斎藤が短く息を吐いた。
「話せるようになったら副長に話しておけ」
ぽん、との頭に手が置かれる。斎藤はそれ以上詮索せず、廊下を歩いていった。
は仏間の北に面する部屋に連れて行かれた。
中には山南が静かに座していた。
は斎藤を見上げる。
斎藤は“別れを惜しんでおけ”と言わんばかりに小さく頷くと、襖を閉めた。
は室内に視線を巡らせた。
沖田が沈黙して窓際の壁にもたれかかっている。
「神谷さんは…?」
こんな時、必ず当事者の近くにいるはずの神谷がいない。
「神谷さんはちょっと出ています」
沖田が言う。
「私と妓のことを心配してくれてね。怒られてしまったよ」
山南が薄く笑った。
「妓…ですか」
山南はここ数ヶ月、時折島原に出かけられるぐらいの健康を維持していた。その時に知り合った妓のことだろう。
は山南をちらりと見ると、下を向いた。
先ほど三木と伊東が言っていたことを、山南に聞きたい。本当に、彼らの言った通りなのか。違うのか。
違うと、言って欲しい。は膝の上で手を握る。
「君にも、世話になったなあ」
山南が柔らかな口調で切り出した。
「大坂で斬られて看病してもらったし、その後は暑気あたりで池田屋の前後も」
目を宙にさ迷わせ、山南は続ける。
もその時のことを思い出した。神谷と交代で山南の面倒を見た日々のことを。
「ありがとう」
山南はの目を見つめた。
つい先日も同じ言葉をは山南から聞いた。
だが、今日のは、今しがた聞いたものは、響きが異なった。
山南が言葉に込めた意味が、深くの心を打つ。
「…私も、山南総長にはお話を聞いて頂いたり、大事なことを教えて頂いたりしました」
は握りしめた手を緩めると畳について、ゆっくりと頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
こんなに心に響く言葉をくれる山南が、信じられない行動をするわけがない。
もししたとしても、余程の訳があるに違いない。
それは今、山南を無理に問いたださなくとも、表に出るべきものならば、いずれ明らかになるだろうとは信じた。
「土方君のこと、頼むよ」
山南が苦笑いを浮かべて言った。
「それは…逆だと思いますけど」
は眉を寄せる。土方に自分が頼まれるべきだ。
「それと、神谷君のこともね」
「神谷さんですか?」
が目を瞬かせる。同時に沖田が僅かに視線を動かした。
「それも逆だと…」
神谷は仮にも“池田屋の阿修羅”である。竹刀ですら構えるのがやっとの自分が、神谷を守れるとは思えない。
「いいから、頼んだよ」
山南は笑みを湛えながら言った。
「はい…」
は理由がわからないながらも頷いた。
沖田がくすりと笑ったのには気づかなかった。
「君のことも心配なんだが。剣術はからっきしだし、短筒を打つ機会も見極められないし」
山南は半分からかい、半分本気の目をに向ける。
そうだろうなあとは小さくため息をついた。
「君に、北辰一刀流の極意歌を聞かせよう」
山南は居住まいを正すと、澄んだ眼差しで朗々と歌を詠み上げた。
「“気は早く 心は静か 身は軽く 目は明らかに 業(わざ)は烈しく”」
「気は早く…」
は小さな声で復唱した。
「剣技の歌だが、他のことにもきっと役立つはずだよ」
「はい」
山南の声とともに、は歌を心に刻んだ。
その時、どたどたと足音がして、仏間の襖が開いた。
永倉、原田、井上がどどっとなだれ込んできた。
「山南さん! 今、人払いをした。後の事は俺たちがどうとでもするから、この間に逃げてくれ!」
山南が控えている部屋の外は中庭に繋がっている。人払いをした表玄関から山南を逃がそうと三人は画策したのだ。
「皆…ありがとう。でももう思い残すことは何もないんだ」
すがすがしい顔つきで山南は言う。大津で琵琶湖の風に吹かれたら、心の澱が皆消えてしまったようだと。
「介錯は…総司に頼めるだろうか」
は介錯という言葉にどきりとした。
沖田を見ると、感情を隠した顔をして、光栄だと受諾した。
しんとした一瞬。
にわかに、沖田が立っている窓の近くが騒がしくなった。馬のいななきに、女の金切り声が被さる。
「山南はん! 山南はんっ!!」
「…明里…!?」
思い当たる相手をの名を呟いた山南が、窓を開け放った。
そこには、神谷に連れてこられた明里がいた。
泣きじゃくる明里と、こらえる山南。二人は格子越しに指を絡める。
二、三の言葉を交わすと、山南は窓を閉めた。
20100325